明治19年、二松学舎の創立者・三島中洲が旧市原郡に招かれた際、在地の文人たちとの間に文化的な交流が行わわれました。
この度、その交流を中心に旧市原郡の文人達と中央の文人達(三島中洲、巌谷一六、小永井岳、日下部鳴鶴、藤森天山、並木栗水ら)との交流を扱った第一稿が完成しました。
本稿は、漢詩文『南総応酬詩録』の解明を根幹としますが、同書は三島自身による本編とその愛弟子・千葉昌胤による「陪遊録」とから成ります。
千葉昌胤は、旧八幡村の飯香岡八幡宮の社家山下家の出身で、もと亀吉といい、明治20年頃に旧今富村千葉禎太郎の養子となり、千葉昌胤と名乗りました。今では全く忘れられていますが、三島中洲、川北梅山、森槐南にその筆力を絶賛された人物で、日高誠実、鴇矢鹿門、鶴岡安宅、真板頑石らとならび、旧市原郡を代表する漢学者の一人というべきです。筆者は本稿が千葉昌胤再評価の呼び水となればとも思っています。
本稿は、何と、あの明治大学名誉教授徳田武先生の雑誌『江戸風雅』第25号に掲載して戴く栄誉を得ました。