「主の導きに従う驚くべき恵み(続き)」 佐々木満男・国際弁護士
6.主はあなたの道をまっすぐにされる
生活の中で、自分の悟りにたよらず、心を尽くして主に拠り頼んで、絶えず絶えず主のご遍在とご臨在とご内住を意識するようにしていくならば、主は私たちの道をまっすぐにしてくださいます。これは要するに、第2コリント5章7節の「私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」という生活をすることです。
イスラエルの民は、主の奇跡の恵みによって紅海を渡ってエジプトを脱出した後、乳と蜜の流れる神の恵みの地カナンを目前にしていました。わずか2週間で行ける距離です。ヨシュアとカレブは主に拠り頼んでまっすぐな道を進み、一挙にカナンの地を勝ち取ろうと言いました。しかし他の10人の斥候は自分の見たところによって、すなわち自分の悟りにたよって、戦う前から敗北を宣言してしまったのです(民数記13:30〜31)。イスラエルの民全体が自分の悟りにたよって敗北宣言に同意したために、40年の間荒野を放浪しなければなりませんでした。
詩篇85篇10節に「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです」というみことばがあります。「祈りとみことばによって聖霊の臨在と内住の中に生きる1時間は、自分の悟りによってがんばって働く千時間にもまさるのです」ということではないでしょうか。それは、「御霊によって歩みなさい」「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて進もうではありませんか」のガラテヤ5章16節、25節の生き方です。そうすれば、私たちは主のまっすぐな道を歩ませていただけるのです。
それでは、「御霊によって歩む」「御霊によって生きる」「御霊によって導かれて進む」とはどういうことなのでしょうか。それは要するに、「私たちの心の内と外におられるイエス・キリストによって歩み、生き、導かれて進む」ということではないでしょうか。私たちの心の内におられるイエス・キリスト、また私たちをご自身の内に入れておられるイエス・キリストがどういうお方であるのかを、単に頭で理解するだけではなく、生活のすべての領域で体験していく、ということではないでしょうか。
聖書によれば、キリストこそは、唯一・絶対・永遠・無限・全知・全能なる神のみことば、神の独り子なる御子、天地万物の創造者・支配者、王の王、主の主、万軍の主、栄光の主、勝利の主、平安の君、とこしえの父。また、キリストは、私たちの罪の身代わりとして命を惜しまず与えてくださった救い主、あがない主、私たちに永遠の命を与えるために死の力を克服してよみがえられた復活の主、やがて私たちを迎えにきてくださる再臨の主。さらに、キリストは、私たちのためにどこにでもいてくださる遍在の主、私たちとともにいつもいてくださる臨在の主、私たちの心の内に住んでいてくださる内住の主。
そして、キリストは、完全なる聖にして、義にして、愛なる方、最強の力なる方、道であり、真理であり、永遠の命であられる方、あらゆる病のいやし主、すべての問題における助け主、あらゆる束縛から自由にしてくださる解放の主、無限の恵みの与え主、最後の裁き主、大祭司なる方、最も良き教師・弁護人、最も慈しみ深い友なる方、そして私たちの花婿・夫となられる方であり・・・私たちにとって「すべてのすべて」であられる方です。これはイエス・キリストについて聖書が語っていることの一部です。聖書全体がイエス・キリストを証しています(ヨハネ5:39)。私たちの心の内におられ、同時に私たちをご自身の内に入れておられるイエス・キリストは、このようなすばらしお方なのです。
「あなたがたのうちにおられる方は、この世のうちにいるあの者よりも力がある」と第1ヨハネ4章4節で言われています。私たちの内におられるイエス・キリストは、この世を支配している闇の力・サタンよりも力があるのです。ですから私たちはサタンの誘惑や攻撃を打ち破っていけるのです。イエス・キリストは、「わたしはあなたがたに蛇とサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だからあなたがたに害を及ぼすものはなにもないであろう」(ルカ10:19)と宣言しておられます。主は、こうして私たちの人生の道をまっすぐにしてくださり、勝利から勝利へとそして栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えていってくださいます。それは霊なる主の働きによるのです(2コリント3:18)。
7.心を尽くして主に拠り頼め
ここで箴言3章5節の初めの聖句にもどりますが、私たちは「心を尽くして」主に拠り頼むように求められています。言いかえれば、「100%」主に信頼せよということです。「99%」では不十分であるということです。最近私はこの「100%」と「99%」のちがいに気づかされつつあります。主は完全なるお方です。ですから当然私たちも完全な者であるようにと命じられています(創世記17:1、マタイ5:48)。しかし、私たちが自分でがんばって完全になることは絶対にできません。完全なる主に「100%」拠り頼むことによってはじめて、私たちは主の目に完全な者として見られるのです。
「99%」主に拠り頼んでも、「心を尽くして」主に拠り頼んだことにはなりません。「最後の1%」は主以外のものに拠り頼んでいるのですから。この「最後の1%」が天と地の差をもたらすのです。「99%」は99にすぎません。しかし「最後の1%」を主にゆだねたならば、それは∞(無限大)になるのです。なぜなら主は無限なるお方であるからです。「最後の1%」を主にゆだねることによって、私たちは無限なるお方と完全に一体にされていくのです。ですから、この「最後の1%」こそが、私たちを地上の者(縛られた者)から天上の者(解放された者)へと移し変える質的変化をもたらすものです。
「99%」は自分の信仰や能力や努力や幸運で何とか達成できるかも知れません。しかし「最後の1%」はそうは行きません。これは死に至るまで主に従うということです(黙示録2:10、12:11)。自我に死に切って、自分自身を完全に主に明け渡すということです。これは私たちの内の「古い人」がキリストと共に「十字架」につけられていることを本当に悟り、現実にそのように生きることではないでしょうか(ガラテヤ6:14)。すなわち、私たちの内の「古い人」がキリストと共に死ぬことによってはじめて、私たちの内の「新しい人」がキリストと共に生きることができるということを体験するのです(ローマ6:6〜7、テモテ2:11、1コリント5:17)。
イエス・キリストは地上のご生涯で、良い教えをし、悪霊を追い出し、病をいやし、大勢の群衆に食物を与え、嵐を静め、その他数多くの業をなさいました。そのまま最良の王・君主として地を統治することもおできになりました。しかしそれでは99%なのです。それでは私たち全ての者の罪が許されることはなかったのです。それでは私たち全ての者が主の永遠の命をいただくことはできなかったのです。
イエス・キリストが父なる神の導きに「100%」従って、十字架について血を流し、ご自分の命をささげてくださったからこそ、私たちの罪が許されたのです。そして主が死からよみがえって復活してくださったからこそ、私たちに永遠の命が与えられたのです。
一粒の麦が地に落ちて死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネ12:24)
とイエス・キリストはおっしゃいました。それが「活けるキリスト一麦教会」の目標であると思います。主のまっすぐな道とは、「十字架の道」です。しかし「十字架の道」こそ「復活の道」なのです。そしてそれは「昇天の道」へとつづいているのです。
8.神の計画
最後に、主が私たちの道をまっすぐにされるそのご計画(その目的地)について考えてみたいと思います。神は愛そのものであられます(ヨハネ3:16、1ヨハネ4:8〜9)。私たちをその瞳のように大切に守り(申命記32:10、詩篇17:8、ゼカリヤ2:8)、高価で尊いと思っておられます(イザヤ43:3)。神は私たちをねたむほどに愛しておられます(申命記6:16)。
愛とはお互いを与え合って完全に一体になろうとする最も激しい情熱であり、最も強い力です。神はその愛のご性質のゆえに、私たちにご自分のもっておられるすべてを与えたいと願っておられます(ローマ8:32、エペソ3:19)。それゆえに私たちのなすべき最も大切なこととして、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイ22:37、申命記6:4)と命じておられるのです。
愛の神は、私たちのために計画を持っておられます。それは災いを与える計画ではなく、平安と将来と希望を与える計画です(エレミヤ29:11)。親が子供に最も幸いな生活を与えたいと願い、子供の将来をいつも案じているように、神は私たちに最も幸いな生活を与えたいと願い、私たちの明日を案じておられます(マタイ6:25〜34、2コリント9:8)。神は私たちに健康といやしと豊かな繁栄と安全を与えると言っておられます(エレミヤ33:6)。イエス・キリストはすでに、私たちに永遠の命、豊かな命、あふれて川のように流れ出る命を与えてくださっているのです(ヨハネ7:38、10:10、28、11:25)。私たちが心からキリストを信じるならば、この神の無限の命が満ちあふれてくることを体験するようになります。
ですから神は、私たちがこの世のどんなことにも心配したり、思い煩ったりして欲しくないのです(ローマ8:28、ピリピ4:5、1ペテロ5:7)。ただ心を尽くして「100%」神を信頼して、心を尽くして「100%」神を愛して欲しいのです。神は私たちを驚くべき恵みの世界に導き入れたいのです(申命記28:1〜14、エレミヤ17:7〜8)。この驚くべき恵みの世界とは、かつての「カナンの地」に象徴される栄光に輝く「神の国」です(マタイ6:33、エペソ1:18)。確かに、「私たちすべてのために御自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちのために恵んでくださらないことがありましょうか」(ローマ8:32)。
やがてイエス・キリストがこの地上に再び来られて、全世界に完全なる「神の国」を実現してくださることになっています(黙示録22:10〜20)。ですから、世の中がどのように移り変わろうとも、私たちには、キリストが再び来られるという「絶対的ハッピー・エンド」の平安と将来と希望が与えられているのです。
私たちの心の中に、家庭に、教会(聖徒の集まり)に、職場に、社会に、日本に、アジアに、そして全世界に「神の国」が実現するように祈り求め、キリストの再臨を待ち望みつつ、心を尽くして「100%」主に拠り頼んでいきましょう。
万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前に平地となる。(ゼカリヤ4:6〜7)
(christiantoday2010923より)
このブログをお読みくださり、ありがとうございます。もし、よろしかったら一日一回クリックしていただけると励まされます^^