五つのパンと二匹の魚の奇跡を信じられるか?

ミクロネシア1

 ミクロネシアのアバイング島で、フランク・ウッドワード夫妻は宣教活動と共に、近隣諸島から子供たちを迎え、ミッション・スクールを開いていました。

 クリスマスが近くなった頃、子供たちが"先生、ぼくたちの両親や兄弟たちを招いて、クリスマス・パーティーを開いて下さい"と申し出ました。

 先生は困りました。

 この願いを入れれば、四百人からの親族が来て、総勢五百人以上の食事を用意しなければなりません。

ミクロネシア

 島にはそんな食物はなく、定期船は二ヶ月に一 回くらいしか来ず、どんなに考えても間に合いません。

 不可能です。
 
 しかし、子供たちは"先生、イエス様は一度に五千人以上の人々を、わずか五つのパンと二匹の魚で養いました。ぼくたちは信じて祈ります"というのです。

 生徒たちはこうして祈り始めました。

 同時に、海に出て熱心に漁を始めましたが、天候悪化のためほとんど収穫がありません。

prayer of children

 クリスマスは目前です。

 子供たちは毎朝、奇蹟の神を信じて祈りました。

 遂に何の収穫もないまま、クリスマスの前日になりました。

 久しぶりに晴れわたった海に、少年たちは巨大なものを発見したのです。

クジラ

 "クジラだ! クジラにちがいない!"

 クジラは海岸に向かって流されて来ました。

 ロープを取り出し、少年たちが群がりました。

 九メートルもある巨体が、午後から夕方にかけ忙しく解体され、煮たり焼いたり用意が整えられました。

カヌー

 翌日、カヌーの群が集まって来ました。

 肉親との面会で島中が喜びで湧きかえり、クリスマス・パー ティーでは五百人がお腹いっぱい食べ、帰りのおみやげにもなりました。

 子どもたちは神様を疑うことなく信じ続けました。

 その結果、素晴らしい神様の祝宴が行われたのでした!

 私たちも子どもたちのような純粋な信仰を持ち続けるならば、神様のみわざを体験するのです!

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」(第一ヨハネ5:14)

children prayer

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。

 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです」(ヤコブ1:5ー6)

「川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。5 神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。」(詩篇46:4~5)

「いつでも祈るべきで、失望してはいけない」(ルカ18:1)

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「信仰」→「思考」→「実行」(佐々木満男・国際弁護士)

あわてる

 難しい問題が起きると、普通は(1)あわてて、まず思いついた解決策を「実行」してみる。

(2)いろいろ「実行」してもうまくいかないと、あせって、どうしたらよいのかを考えて「思考」してみる。

(3)いくら考えてやってみてもうまくいかない時に初めて、あきらめて、神に祈って「信仰」によって解決しようとする。

 でも、これは順序が逆なのである。

(1)「思考」に基づかない「実行」は、問題に対応しているのではなく、反応しているにすぎない。

「下手な鉄砲、数打ちゃ当たる」式、「犬も歩けば、棒に当たる」式で、ほとんどの場合、問題を正しく解決できない。

宝くじ

 宝くじを買うように、「まぐれ当たり」を期待するからである。

 (2)「信仰」に基づかない「思考」は、かえって問題をこじらせてしまうことが多い。

 人間の狭い「思考」は、時空をこえた大局的、総合的な是非の価値判断ができないからである。

「思考」だけに頼って問題を解決しようとすると、「策士、策に溺れる」で、往々にして「忠ならんとすれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず」のジレンマに陥ってしまう。

「すべて信仰によらないことは罪である」(ローマ14章23節)。

 (3)「信仰」は、全知全能の神を信じ、神の導きに従うことである。

全能なる神

 聖書のことばを、普遍的な神のことば(ロゴス)として信じ、問題の解決のために具体的に示される神のことば(レーマ)に従うことである。

 宇宙万物の創造主、父なる神の大局的、総合的価値判断は、絶対に正しいからである。

 「ラザロが重篤であることを知りながら、なぜ早く来て癒してくださらなかったのですか?」

 マルタはイエスに不満を言った。

栄光

 イエスはマルタに答えて言われた。

「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」(ヨハネ11章40節)。

 (1)ラザロが重篤だという知らせを受けた時、イエスはまず、「生きているラザロを癒すのではなく、死んだ後に彼を生き返らせることが神の導きである」と信じた。

(2)次に、死んだ後にラザロを生き返らせるタイミングと手段と場所を考えた。

(3)最後に、死んで葬られて4日経ったラザロの墓の前に立って、「ラザロよ、出てこい!」と、人々の見守る中で、大声で叫ばれた。

ラザロ

なんと、ラザロは生き返って、死体を巻く亜麻布を着けたまま、墓から出てきた!

 こうして人々は神の栄光を見た。

 「思考」の役目は、「信仰」によって得られた神の導きを「実行」するための方法を考えることである。

 神は絶対的に正しいお方であるから、神のみこころがなるならば、忠がならなくても、孝がならなくてもよい。

 いや、神のみこころがなることこそが、真の意味で、忠もなり、孝もなるのである。

聖書

 問題の正しい解決のプロセスは、
(1)まず「信仰」によって神から正しい導きをいただいて、
(2)次に「思考」によってそれを実現する方法を考え、
(3)最後に勇気を持ってそれを「実行」することである。

 本当は、「信仰」も「思考」も「実行」も、それぞれに神の助けが必要なのである。

 「信仰」→「思考」→「実行」のプロセスを正しく踏むようにすると、神による問題のすばらしい解決を見ることができる。

 「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな」(箴言3章5節)
(引用:http://www.christiantoday.co.jp/articles/11567/20121218/news.htm)

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何をしても神様のために!!

 チェ・ソンチャンさんという韓国人クリスチャンがいます。

 彼はボストン大学2年生の時に、アメリカ政府の外交官選抜課程の「特別プログラム・フェローシップ」の奨学金受給者となりました。

奨学金

 これはアメリカの大学生全体の800万人中32名にだけ支給される無償の奨学金で、到底もらうことはありえないような奨学金です。

 しかし、彼は大学に在学中4年間、全額奨学金を受給し、その受給額は40万ドル、約3200万円だったそうです。

トランペット

 しかし彼は勉強しかしない「勉強の虫」では決してありませんでした。

 彼は高校と大学でフェンシング代表選手として活躍しました。

 また、トランペットとギターも演奏し、歌の実力もプロ並みでした。

 彼は勉強の秘訣をこのように説明しています。

 「方向が重要です。私には神様が私のいのちの方向となってくださいました。

 ”何をしても神様のためにしよう”ということが、私の人生の目標です。

 そうでなければただお金をたくさん儲けて、人が憧れる職業を手にすることが方向になってしまいます。」

ハーバード大

 ところで、もっと驚くべきことは、彼の姉もボストン大学で、そして妹もハーバード大学で4年間、全額無償の奨学金を受給して勉強したということなのです。

 彼らの背後には、母親の教育がありました。

 母親が正しく子どもを育てたのです。

 彼の母親は子供たちに、こう言ったそうです。

「勉強しなさい」という言葉の代わりに、「祈ろう!」「礼拝を捧げよう!」と。

子どもとの祈り

 2~3歳の時から、何かがあれば子どもたちに「祈ろう! 礼拝を捧げよう! 」と言ったので、子どもたちの心の中に神様への思いが刻み込まれたのです!

 子どもの成功の尺度は一体どこになるでしょうか?

 それは、いつ、どこででも神様の子どもであると自覚させることであり、しっかりした神様の子どもになるように導くことなのです。

 それこそ母親が子どもを育てる最大の責任だと言うことです。

 つまり、子どもが神様中心に生きるならば、すべてのことが満たされると言うことなのです。

モーセの母

 モーセはイスラエルの民300万人をエジプトの苦役から脱出できるように導きました。

 そのモーセを育てたのが敬虔な信仰を持つ母親ヨケベテだったのです。

 また国が信仰的に堕落し、ペリシテ軍の攻撃により危機にさらされていた時、イスラエルの国を守った人物がいます。

 サムエルです!

ハンナ

 けれども、サムエルをそのようにしたのは、子どもを幼くして捧げたハンナの祈りにあったのです。

 子どもたちを神様中心、礼拝中心に生きるように導くならば、その子は力強い人生、最高の人生を歩むことができるのです。

「わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが【主】の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、【主】がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。」(創世記18:19)

 神の子どもである私たちも同じです!

 いつも神様のことを考え、愛し、神様のために生きようと決心して生きるならば、イエス様のいのちまで与えてくださったお方が、そのままにしておくはずがあるでしょうか?

 絶対にそんなことはありません!

 必ず祝福してくださるのです!!

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:34)

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)

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律法主義の罠からの解放

 私たちはともすると、頑張って信仰生活を送ります。

 また、それが悪いようには決して思えず、「自分は頑張っている!」というプライドを持つようになります!

 これが律法主義の罠です!

 北海道のある教会に伺った時、現在、神学生のご主人を持つ奥様からこんなお証しを聞きました。

哲学者

 そのご主人は当時、1つの哲学にのめりこんでいて、家庭は滅茶苦茶になっていました。

 奥様は重いうつになり、子どもたちは3人ともが登校拒否となっていました。

 出口の見えない状況の中、ご主人は自分の罪の悔い改めはせず、家族が変えられることだけを目的として洗礼を受けました。

家庭不和

 しかし、何も変化が見えないので、変わらない奥様や子どもたちに対し怒りをぶっつけてばかりいました。

 そんな中、冬に子どもが行方不明になります。

 1日中、方々探すのですが、なかなか見つかりません。

 夜になり、やっと見つかりました。

 子どもは雪を掘って、その穴の中にじっとしていたのです。

雪穴

 その子は雪の中で、死のうとしていたのでした!

 生きる希望がなかったからです!

 いくら頑張って信仰生活を送っても、自分を誇るだけで、聖霊様の働きに逆行しているからです!

 しかし、奥様があるクリスチャンの方に出会い、聖霊様を知り、律法的な束縛から解放されたのです。

 今どう変わったでしょうか?

 死にかけていた家庭が全く変えられました。

 ご主人が献身し、神学生になりました。

楽しい教会

 また、家族はチャペルに住み、奥様は牧師先生の働きを助けています。

 また、子どもたちもまったく変えられ、生き生きしているのです。

 ハレルヤ!

 聖霊に導かれると、霊的砂漠のような暗闇の束縛から解放されるのです!

 パウロは以下のように勧めています!

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」(ガラテヤ5:16ー8)

使徒1;5

 イエス様も、次のように約束されています!

「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」(使徒1:4-5)

 聖霊のバプテスマ(=使徒2:4 最初の聖霊の満たし)を受け、肉の人から御霊の人へと変えられることなのです!

「私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。」(詩篇119:18)

「あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」(マタイ23:11~12)

 今日も心の王座にイエス様をお迎えし、聖霊充満になれますように、イエス様の御名で祝福してお祈りいたします!アーメン!

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他人の欠点が目に入らない人とは?

アインシュタイン

 かの有名なアインシュタイン博士に、ある学生が質問しました。

「博士!あなたのように偉大な科学者になれる秘訣は何ですか?」。

 すると、博士はこう答えました。

「口を少なく、頭を多く動かしなさい!」

 自分の働きに集中する人は無駄口をききません。

 しかし、集中できない人の目には他人の欠点や弱さがよく見えます。

 そして、いろいろな無駄話ばかりか、場合によっては人の噂話や陰口まで言うようになります。

 人が生まれてことばを学ぶには2年かかりますが、沈黙を学ぶには60年かかるそうです!

 ところで、ダビデの少年時代をご存知でしょうか?

 彼は8番目の末っ子で、ほとんどお父さんの目からは忘れ去られていたような存在でした。

ダビデ

 しかし、彼はそんな自分の状況を悲観せず、今、自分に与えられている羊飼いの仕事を一生懸命に行いました。

 何と、小さな少年が羊たちを獅子や熊から守ったのです。

 そして、やがてペリシテ軍とゴリアテがイスラエルの前に現われ、イスラエル軍がぶるぶる震え上がっているときに、この少年はイスラエルを救うのです。

 ここに大切な教訓があります。

 それは今の自分が人々から全く顧みられなくても、無駄口をきいたり、悲観的に投げやりな態度をとったりしないで、今与えられている働きを一生懸命行うことなのです。

心

 なぜなら、「人はうわべを見るが、主は心を見る」と記されているからです(第一サムエル16:7)

 主はすべてをご存知です!

 ですから、このように、主の目だけを意識し、人のことばや態度に影響されない人は、主が必ず引き上げてくださるのです!

 自分の働きに集中することこそ最も重要なのです!

へりくだる

「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」(へブル11:16)

「彼(モーセ)は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。」(へブル11:26)

詩篇16

「それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』」(マタイ25:34~36)

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   「安息日の祝福」        

   マルコ2:23~28、出エジプト20:8~11

 

序)

 ハレルヤ!今日のタイトルは「安息日の祝福」です。安息日とは何でしょう?今読んでいただいた出エジプト20章の箇所を見ると、1週間のうち最後の7日目のことであることがわかります。神様が天地を創造されたとき6日間でこれを造られ、7日目をお休みにされたことがここに記されています。安息という字を分解すると、平安の安、休息の息ということもできますね^^

 

 今日のマルコ2章の箇所を見ると、パリサイ人たちが再び登場し、24節でこう言いました。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか。」「なぜ〇〇?」と言って、人々を罪に定める!それが彼らの特徴でしたね^^けれども、どうしてこのようなことばがすぐ彼らの口から出てくるのでしょうか?それは、「自分の主張は絶対に正しい」と確信しているからです。彼らはいつも考えています。「安息日は聖なる日だ。働いてはいけない。」と。ですから、種まきや耕作等の農作業、パンを焼くこと、羊の毛を刈ること、それを染めること、紡ぐこと、結び目を造ること、火をつけること、火を消すこと等39の規則を作っていたのでした。「それらはすべて労働にあたるから、してはいけない」と定めていたのです。

 

 ところが安息日に、イエス様の弟子たちは麦畑を通りながら、穂を摘み始めます。お腹が空いていたのでしょう。すると、すかさずパリサイ人はイエス様に訴えました。まだ弟子たちが穂を摘み始めたばかりです。それなのにすぐに、「なぜ」と言って裁くのです。つまり、彼らは「イエス様と弟子たちが罪を犯すのではないか!」とじっと見ていたのです。皆さん!こういう方々は嫌ですね^^そしてこう言うことをしている方々は、絶対幸せになれないのです。しかし、パリサイ人はなぜそのようになってしまったのでしょうか?聖書を間違って解釈していたからです。そこで、今日は「安息日とは何であるのか?」ご一緒に考えてみましょう!

 

1, 休んで新しい力をいただく日

 安息日とは「休んで新しい力をいただく日」です。「私はキリスト教より儒教や仏教の方がいい」という方々も多くおられますね。けれども、儒教においては安息日のような戒めはありません。仏教の経典の中にも安息日の戒めを探し出すことはできません。これはただ聖書の中にだけ、言い換えるとキリスト教(ユダヤ教)の中にだけにあることです。これを聞くと、どうでしょうか?仏教からキリスト教に信仰をチェンジする方はいないでしょうか^^?しかし、仏教徒であっても、今は聖書の教えが世界中に広がり、ほとんどの国が1週間に1日は休むことが基本となっています!イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と仰いました。まさにイエス様こそ、「この安息、すなわち休みを取りなさい」と両手を広げて私たちを招いておられるお方なのです。ですから、「安息日の祝福」とは私たちが働かずに休むことができるということです。

 

 私たちの精神と体は、時々、安息日を必要としています。休むと疲れが取れ、病気にならなくて済むのです。新しい力が与えられるのです。ですから、休まずに働き続ける人よりも、実はもっと多くの仕事を、それも正しくすることができるのです。休まず仕事をし続けると、必ずいつかバーンアウトしてしまいます。今日読んでいた出エジプト20章はモーセの十戒と言われる個所ですが、その第4戒である20:10にはこう記されています。「七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。」。つまり、この安息というものは自分1人だけのものではなく、一緒に働いている息子や娘という家族だけではなく、そこで働く労働者、アルバイト、パートも含まれます。いいえ。そればかりか家にいる牛やロバ、ラクダなど家畜にも安息を与えるように命じられています。神様は何とあわれみ深い方でしょうか^^

 

 このように、もちろん私たちの仕事のためにも休みを取ることは非常に大切ですけれど、それ以上に、私たちの霊のために、大切なのです。というのは、イエス様は申命記8:3を引用されて、こう言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、わたしの口から出る1つ1つのことばで生きる」と。私たちにはこのような霊的な食物、魂の食物、心の糧が必要なのです。

 

 しかし、もう1つあります。何でしょうか?それは私たち人間というものがどのようにして造られたかに関係しています。創世記2:7「神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」。私たちクリスチャンはみことばの食物だけではまだ足りません。この土からできている器=体に聖霊の息が吹き込まれないといけないのです。どのようにして、聖霊の息が吹き込まれるでしょうか?祈りを通してです。賛美を通してです。言い換えると、ワーシップ、礼拝することを通してです。ハレルヤ!ですから、1週間に1度、一緒に主日礼拝を持つことが大切なのです。新約聖書に書かれている人間と訳されている言葉は“上を見るもの”という意味だからです。ですから、安息日とは第一に、体も心、魂も休んで、新しい力をいただく日ということです。

 

2, 罪からの解放記念日

 それでは申命記5:14~15をご一緒に読みましょう。「七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。15 あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。」。15節を見ると、安息日の2番目の意味が明確に分かります。“罪からの解放記念日”ということです。

 

 イスラエルの民はエジプトで400年間生活しました。あのゴシェンの地という羊飼いたちには最もふさわしい地に導かれたのです。しかし、最初70人しかいなかったヤコブの家族はこの400年間で増え広がり、200万~300万の民になりました。それを見たエジプトは恐れを抱き、この神の民を滅ぼそうと様々な苦しみを与えました。しかし、神様の奇跡的なわざで、エジプトを脱出することができました。このエジプトという国を脱出したことこそ私たちの象徴です。そうです。エジプトという世の国、罪と死の世界から私たちは導き出されたのです。その時、子羊がほふられ、その子羊の血を家の鴨居と門柱につけた家は裁きの天使が過ぎ越し、何の禍もありませんでした。しかし、家に子羊の血をつけなかったエジプトの家々はことごとく長男が亡くなり、家畜の初子もなくなり、エジプト中に苦しみの叫びと涙がありました。まさにイエス様の血潮が塗られているか否かが生死を決めたのです。

 

 クリスチャンとは何でしょうか?第一ペテロ1:2「父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ」。つまり、クリスチャンとは神の子羊であるイエス様の血の注ぎかけを受けている人たちなのです。皆さん、皆さんのからだに、心にイエス様の血潮がついていますか^^?ハレルヤ!ですから、私たちは世の力、罪の力、悪魔の力からイエス様の血潮の力によって解放された者であることを覚えましょう!安息日にはそのことを覚え、神様を精一杯賛美し、精一杯感謝するのです。ハレルヤ!

 

 けれども、皆さんの中に、「あれ、安息日は土曜日ではないかな?」と思われたかもしれません。はい。旧約時代において、主は6日間で天地万物を創造され、7日目は休まれました。ですから、土曜日が安息日でした。しかし、新約時代になり全く新しいことが実現しました!今まで罪の中でもがいていた民が、救い出されたということです。神の子羊なるイエス様が私たちの罪を一切背負って、十字架で死んでくださったからです。そして十字架と復活を通して救いの御業を完了してくださったからです。ハレルヤ!

 

 ですから、イエス様の復活された日を「主の日」「主日」と呼び、この日が祝福の日となりました。実際、イエス様は復活され、お姿を弟子たちに現されたのですが、それは週の初めの日、すなわち日曜日でした。またペンテコステ、聖霊降臨も週の初めの日、つまり日曜日でした。そして聖餐式礼拝を弟子たちはいつ行っているかというと、週の初めの日です(使徒20:7)。献金を集めるのも週の初めの日でした(第一コリント16:2)。ですから、確かに土曜日はそのまま安息日ですが、安息日の祝福は私たちの生きているこの新約時代においてはバージョンアップされて、日曜日、週の初めの日なのです。ですから、この日に礼拝することは主の祝福が約束されているのです。ハレルヤ!

 

3, 善と愛を実践する日

 マルコ2章に戻り、27~28節を読んでみましょう。「そして言われた。『安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。28 ですから、人の子は安息日にも主です。』」。ここで明らかなことは、「安息日は人のために設けられた」ということです。それは人々が幸せになるためです。ある時、イエス様はこのようなたとえを話されました。「もしあなたがたの中で、だれかが1匹の羊を持っていて、その羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。人間は羊よりはるかに価値があります。」(マタイ12:11~12)。ですから、安息日にすべきことは何でしょうか?良い行いです。良い行いとは福音を宣べ伝えること、病気を癒すこと、また誰かを助けたり、愛を実践することなのです(ルカ6:9)。

 

 イザヤ58:13~14には次のように約束されています。「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、【主】の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、14 そのとき、あなたは【主】をあなたの喜びとする。わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。──【主】の御口がそう語られる。

 

 皆さんは浅草の北側にある労働者の町、山谷に行かれたことはないかもしれませんが、私はある兄弟とともに行きました。その時、夕方でしたが、労働者が教会の前の道路に50~60人集まっていて、森本春子先生の叫ぶようなメッセージを聞いていました。その森本先生の山谷伝道の証です。もう手に負えないような飲んだっくれのアル中の女性がいたそうです。集会があると、教会の前で毎晩、騒ぐのです。そして「森本のヤツ、出てこーい、この野郎っ」と叫ぶんです。とにかく男の人も手がつけられない、大変な女性だったそうです。ある日、森本先生が教会の外に出たとたん、その女性にドンと、ばったり出会ってしまったそうです。それで森本先生は「アラ、お早うー、今日ね、ちょうどおいしいものが手に入ったのよ。ああ、あなたに会えてよかったわ、どうぞ、いらっしゃいな」。森本先生は、こう話しかけたんですね。すると、びっくりした顔をしたそうです。

 

 なぜなら、普通ならそこで「向こう行け!」とか「うるさい!」と言われるでしょう?それなのに今まで人生で一度も聞いたことのないことばを聞いてしまったからです。「ああ、あなたに会えてよかったわ、どうぞ、いらっしゃいな」。人生で初めての経験だったでしょう。森本先生は、その人を連れてまた家の中に戻って、それでお茶を入れてごちそうを作ってあげたそうです。すると、その人はますますびっくりしてしまいました。それでその後、キョロキョロしっ放しだったそうです。けれども、その後、森本先生とそこにいたクリスチャンのチームが、大声で彼女のために泣きながら祈って、祈って、祈ったそうです!皆さん、「泣く者と共に泣き、笑う者と共に笑え」というみ言葉がありますよね。この女性のつらい過去を考え、泣きながら祈ったそうです。すると、この人がいっぺんで救われてしまったのです。ハレルヤ!
 

 皆さん、アルコールという恐ろしい悪霊にとらわれて、どうすることも出来ない人、がんじがらめに縛られていた、悪霊の奴隷であったこの女性が解放され、救われたのです!!しかも、この人は救われてからどうなったでしょうか?涙が出るほどすばらしい真心を込めた祈りの人へと変えられたのです。ハレルヤ!

 

 イザヤ58:13~14もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、【主】の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、14 そのとき、あなたは【主】をあなたの喜びとする。わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。──【主】の御口がそう語られる。

 

 安息日の祝福とは何でしょうか?その日を自分のために使うのではなく、神様のため、ほかの方々のために使うなら、主を喜びとすることができ、主は素晴らしい人生の祝福を与えてくださるということです!そして、主ご自身が養ってくださる恵みに与るのです。このように愛に基づいて生きるとき、それが天の都で体験する最高の安息への備えとなっていくのです。ハレルヤ!そして、何ということでしょうか^^イエス様の十字架と復活により、私たちにとって、今や毎日が安息日、毎日が主日に変えられたのです!お祈りします!

 

「安息日の祝福」とは

1, 休んで新しい力をいただく日

2, 罪からの解放記念日

3, 善と愛を実践する日

 

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無条件の赦しの力

 これは、ある小学校で実際あった話です。

30センチ

 ちょうど、授業が一区切りついたとき、A君が言いました。

「先生、買ったばかりの30センチの定規を机の中に入れて置いたんだけれど、無くなっているんです!」。

 それを聞いた先生は、瞬間、B君かもしれないと思いました。

 彼の家庭環境は複雑で、よく以前も盗んだことがあったからです。

 そのとき、すぐに皆の引き出しを検査して調べることができましたが、この先生はそうしませんでした。

 「さあ、皆、一区切りして校庭で遊ぼう」と子どもたちを全員外に出し、一緒に遊び始めてすぐに教室に戻りました。

クラス

 そしてまずB君の引き出しを開けてみました。

 すると、そこに30センチの真新しい定規が入っていたのです!

 先生の心は暗くなりました。

 でももっと暗くなったのはB君でした。

 彼は考えました。

「先生はきっとみんなの前で自分を責めるに違いない」。

 ではそうなったでしょうか?

 先生はその定規を、すぐにA君の机の奥の方に戻しました。

 そして、学校の近くの文房具店に行き、全く同じ30センチの定規を買って帰ってきて、今度はB君の引き出しの中に入れたのです。

授業

 授業は再開されました。

 そして放課後、皆が帰り支度を始め、「先生、さようなら」と言うときになって、A君が叫びました。

「先生、あった。あった。奥の方にあった」。

 先生は言いました。

「そうだね。むやみになくなったと言うもんじゃないよ。でもあってよかったね」。

笑顔

 そのとき心が明るくなったのはA君だけではありませんでした。

 盗んだB君の心も明るくなったのです。

 彼の心はいつ自分が裁かれるのか、という不安と恐れで一杯でした。

 しかし、自分は裁かれずにすんだのです。

 しかも開けてみると、真新しい定規が入っているではないですか!

 彼は何か今まで経験したことのない、熱いもので心が包まれていくのを経験しました。

 それは無条件の赦しだったからです。

 クリスチャンであったその先生の愛は、先生を管としてB君に流れていきました。

 彼はそのとき一つの決心をしました。

「もう2度とこのようなことは繰り返さない。自分は変わるのだ。そしてあの先生のようになるんだ!」。

授業1

 実際、彼は大学で教職の資格を取り、同じように今、小学校の講壇に立ち、教えているのです。

「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。

 人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。

 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです」(ルカ6:36-37)

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恐れに打ち勝つには?

孔子

 中国の春秋時代、紀元前6世紀から5世紀にかけて生きた孔子をご存知でしょうか?

 儒教の始祖である孔子のもとには3500人の弟子たちがいて、弟子たちは教団を作っていました。

 ところが、そのように多くの人々に影響力のあった孔子をねたみ、殺そうとする人たちがいました。

狼

彼らは孔子を殺そうと殺意に燃え、その勢いは山の木全部を切り倒すほどでした。

 しかし、それにもかかわらず孔子はこう言いました。

「天が私をこの世に出したのだから、だれが私を亡き者にできようか!」と。

琴

 また楚の国の照王の招きを受けて、そこに行く途中、鎭塞の叔父たちが孔子を包囲し、食糧を絶ってしまいましたが、3日経っても孔子はまったく動ぜず、座って琴を弾いていたそうです。

 彼は権力による脅しや死に対する恐れを超越した人物でした。

 すべての万物よりも偉大な全能の神の保護を受ける人は、何の恐れも受けることなく生きて行くことができます。

 しかし、もし、偉大な神を知っていならが、恐れがあるとするならば、どうしてでしょうか?

 それは、自分のありのままの弱さを主に申し上げていないからではないでしょうか?

 せっかく主が重荷を背負うと待っておられるのに、自分で抱えてしまっているのではないでしょうか?

Child prayer

 子どものようになって、何でも自分の弱さをことごとく主に申し上げるなら、主はあらゆる恐れを取り除かれ、主の圧倒的な勇士としてくださるのです!

ネヘミヤ

 ペルシャにいたネヘミヤも幼子のように常に主にすがる人でした。

 祖国エルサレムの民のひどい状況と崩れたままの城壁のことを聞き、彼は喪に服して祈りました。

 すると、エルサレムの城壁再建の道が開かれます。

ネヘミヤ1

 ところが、エルサレムに帰還し、その再建に取り掛かると、トビヤやサヌバラテが他の預言者と結んで妨害してきます。

 その時も、ネヘミヤはこれらのことを逐一、主に申し上げ、度重なる祈りによってこの妨げに勝利します。

 しかし、問題は内部にもありました。

 人口の増加は食糧の欠乏をもたらし、そこにリーダーたちがつけ込み、民は重い利息をとられ、飢えのため、子どもたちを奴隷とせざるを得ない者が多くなっていたのです。

 ネヘミヤは利息を取ることを禁じ、自分も総督としての手当てを辞退します。

ネヘミヤ2

 ネヘミヤはこうした様々な問題と戦い、幼子のように主にすがり続けました。

 その結果、城壁はなんと52日という短期間で再建されたのです。

「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ」(詩篇46:1~3)

詩篇37

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザヤ41:10)

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「アブラハムへの祝福」は誰のもの?

 ある作家は、日本人の文化的な特性を「縮み志向」だと表現しました。

盆栽

 日本的なものとは何かというと、盆栽や折入りのお弁当に象徴されるものです。


 これらは、すべてのものをこじんまりと小さくまとめるというものです。

 だから、「恐縮です」とは恐れて縮みあがるという意味ですね。

 もちろん、そこには日本という国の辿ってきた歴史的、文化的背景があるわけです。

 けれども実は、この「縮み志向」というものが、私たちクリスチャンの信仰生活にも知らず知らずのうちに影響しているのではないでしょうか?

 一般的によく使われることばは「諦めが肝心」「足るを知る」つまり、今のままで満足することですね。

 また、主に願っても答えられなかったり、うまく行かないと「これが御心だと思います」と言います。

 こうして私たちはいつも諦め、力の無い者となりがちです。

 しかし、聖書を通して、私たちはもう一度、自分たちがどのような存在であるのかをはっきりと知らなければなりません。

呪いの十字架

 「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

 なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。

アブラハム

 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、

 その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」(ガラテヤ3:13-14)。

 ここにクリスチャンの特別な祝福が記されています!

 イエス様が私たちの罪の身代わりとして、あの十字架で苦しみを受けられ、いのちを捨ててくださったことによる祝福です!

 クリスチャンとはどういう存在でしょうか?

 呪われた者として裁かれたイエス様と一つになった者です。

 もう2000年前に私たちの罪の代価は支払われ、私たちの裁きは終わったということなのです。

 罪の呪いという神様との妨げが無くなったのですから、「アブラハムへの祝福」が私たちに臨むのです!

 では、主はアブラハムに何と仰ったのでしょうか?

創世記12;1~3

 「主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。

 あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される』」(創世記12:1-3)。

 主はアブラハムを祝福そのものだと言われたのです!ユダヤの伝承によると、アブラハムは父と共に偶像を礼拝し、偶像を作っていた人でした。

 しかし彼が主に従って一歩踏み出すことによって、神様は祝福を約束されたのです。その内容は、

イスラエル

大いなる国民とする→あなたを通して大いなる国民が生まれる!

あなたの名前が尊ばれる:名前はその人自身を意味します。ですから、あなた自身が人々から尊い存在とみられる!

祝福の名に変えられる!(アブラム→アブラハム:多くの国民の父)

人々を祝福する権威。祝福権をいただいた!「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」

 このように、主はクリスチャンに「アブラハムへの祝福」を与えられ、この地上を祝福したいと願っておられるのです!

Blessing

 私たちは神様からアブラハムと同じ祝福①~④をいただいているのです。

 ですから、神様からいただいている「アブラハムへの祝福」を自分のアイデンティティとして心に刻んでいきませんか!

 私たちの名前はBlessing、祝福なのです!

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霊的に倒れる前兆

 イエス様は次のように仰いました。

「あなたがたは空模様を見分けることができるのに、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか?」

 今は終わりの時代です!

 ですから、時のしるしを見分けている方々も多くおられることと思います。

 しかし、自分がサタンに倒される前兆を見分けている人々はそう多くはありません。

のあ

 ノアは地上に悪が増大する中、主の御声に従いました。

 海から遠い所になんと100年かけて箱船を造ったのです!

 その結果、大洪水の中で家族8人が救われました。

 けれども、その後、安心してしまったノアはぶどう酒で完全に酔っ払い、裸になり、醜態をさらしてしまいました。

ダビデ

 数々の戦いに勝利し、イスラエル・ユダ王国を確立させたダビデもその絶頂期に殺人と姦淫によって倒れてしまったのです。

 サタンに倒される前兆とはいつでしょうか?

 それは「自分が成功者だ!すべてうまく行っている~」と思い、油断するときです!

プライド

 そのしるしは何でしょうか?

「自分は人々よりもいろいろな面でまさっている。優れている!」と傲慢になっているときなのです!

 では、傲慢になっているしるしは何でしょうか?

 逆に言うと、他の人を自分よりも低く見るようになっていることです。

 人をさばくことです。

 パウロはこう言っています。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。

 さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです」(ローマ2:1)

さばく

 私たちは人の弱さを見て、心の中で批判します。

「もっと○○であるべきだ!」

「どうして○○ではないのだろうか?」。

 でも、同じ問題を持っている人であっても、受け入れられる人もいれば受け入れられない人もいるのはどうしてでしょうか?

 もしかすると、そのさばいている対象者は他の人のように見えるのですが、実は過去の自分自身の姿なのではないでしょうか?

鏡

 自分の潜在意識の中に入り込んでいて、自分では気づかず、忘れてしまった嫌な姿ではないでしょうか?

 そのさばいている対象者を「過去の高慢な自分」、「過去の哀れな自分」だと思い直すとき、とりなしの心が与えられます。

 そして、悔い改めて、愛せるようになっていくのです!

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」(レビ記19:18)

動物

「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(第一コリント12:26~27)

「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(第一コリント10:12)

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