「わたしについて来なさい」 

    マルコ1:16~20     

序)

 皆さん!「イエスはガリラヤ湖のほとりを通られた」ということばで今日の箇所はスタートしています。皆さん!これは絵になりますね。ルカの福音書にはもっと詳しく記されていますが、朝5時ごろでしょう。朝のさわやかな時間帯に、きらきらする光を浴びてイエス様がガリラヤ湖のほとりを歩いておられるのです。いいですね^^。そのイエス様がじっと見つめておられる人々がいました。シモン・ペテロとアンデレでした。漁を終え、網を洗っているところでした。もしイエス様にじっと見つめられたらどんな気持ちになるでしょうか?私は神学生時代の礼拝の時間に歌った讃美歌を思い出します。「ああ主のひとみ、まなざしよ。三たびわが主を否みたる 弱きペテロを顧みて 赦すは誰ぞ 主ならずや」。さて、今日のタイトルは「わたしについて来なさい!」です。

 

1,イエス様は弟子たちを召される!

 どうしてイエス様はガリラヤ湖のほとりを歩いておられたのでしょうか?実は、イエス様はこの地上で、神様中心の共同体を創りたいと願っておられたのです。そのために、必要な弟子たちを招くため、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたのです。「誰でもいいから、弟子にしよう」と思われたのではありませんでした。イエス様は大胆かつストレートですね^^「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」。そしてペテロもアンデレもすぐに網を捨てて、イエス様に従ったというのです。またイエス様はヤコブとヨハネも同様にご覧になって、すぐにお呼びになったのです。恐らく「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と同じ言葉をかけられたことでしょう。そして、このヤコブもヨハネも父親を残して、イエス様の後について行ったのでした。

 

 皆さんはこれを読まれて、「ああ、この時、初めてイエス様は彼らを見つめられ、身元に召されたのだ」と思われたでしょうか^^?けれども、皆さん!実はそうではないのです。なぜなら、エペソ1:4にこう記されているからです。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方(イエス・キリスト)にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」。イエス様はこの地上に来られ、ガリラヤ湖のほとりを歩きながら、ペテロやアンデレを、ヤコブやヨハネをじっと見つめながら、「ああ、彼ら1人1人こそ、わたしの父がわたしに出会わせるために、選ばれた1人1人なんだ!」という感動で心が一杯だったのです。私の好きなみことばに、申命記7:7があります。「主があなたがたを恋い慕い、あなたがたを選ばれた」と記されています。ハレルヤ!主は私たちを恋い慕っておられるのです!ですから、漁師たちを見ながら、「この1人1人は、わたし(イエス様)の弟子となることによって、わたし以上に素晴らしい働き人となるんだ!そして、神様の尊い使命を実現していく1人1人なんだ」という感動がイエス様にはあったのです^^。

 

 かつて私は学生時代、「自分は正しい。」と言って、政治家や周りにいる人々や友だちまでも裁いていきました。ですから、結局、1人きりになりました。そして「人生は孤独だ!」と堅苦しい哲学者のような顔をして生きていました;^^けれども、イエス様は決してお1人では戦われないのです。まず、自分の働きを共にしてくれる者たちを召しだされたのです。ですから、21節にも、29節にも「一行は」という言葉が出てきます。まさに「主イエス様の御一行様」なのです。でつまり、今日のところはまさにイエス様の宣教チームの、まさに心臓部分の弟子たちを先ず召し出されたということです。ペテロ、ヤコブ、ヨハネ。彼らはイエス様が変貌山に登られた時も、またゲッセマネの園で十字架にかかられる直前の苦しい祈りをされていた時も、この3人は側近としてイエス様のそばにいたメンバーなのです。

 

 つまり、昨日もある方とお話ししましたけれど、クリスチャンは山羊ではないのです。羊です。羊と山羊は似ていますよね^^けれども、全く違うところがあります。何でしょうか?山羊は1匹でいるのを好みます。そして険しい崖でも登っていきます。けれども、羊はそんなところに行けません。崖に行ったら、落ちてしまい、メ~メ~と切ない声で鳴いているだけでしょう。山羊と違い、羊は1匹では生きていけないのです。イエス様は神様ですから、何でもできたでしょう^^けれども、イエス様は招かれた弟子たちの模範として、ご自身の群れを作られたのです。ですから、私たちも自分の群れを作りましょう。それは仰々しくなくていいんです。アブラハムが甥のロトの救いのために祈り続けたように、私たちも自分の祈るべき方々がいるはずです。家族のため、兄弟のため、親族だけではなく、友人、知人のために祈りましょう。

 

 そして、それとともに、今ある教会の兄弟姉妹を大切にしましょう。なぜでしょうか?神様の家族であるからです。どうでしょうか?実の血の通った家族であっても、毎週会うことは少ないですね。けれども、私たちは神様の家族なのです。家族ですから、週1回会います。いいえ。朝6時からの早天礼拝に出ておられる方々は週1度ではなく、なんと毎日~これはすごいことですね。まさに真の家族ではないでしょうか?ですから、週1度集まる家族の集いを大切にしましょう。何と、天国でも私たちは一緒なのです^^ですから、私たちが思っているよりも、もっともっと大切な存在。それが神の家族なのです。ですから、ここに来られている方々。そして、関係のある方々のために、いつもとりなしましょう!

 

2,イエス様に従う祝福

 皆さん!今日の箇所をお読みになって、「すごいなあ」と思われませんか?「わたしについて来なさい」といきなり言われて彼らはどうだったのですか?18節「すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った」。20節「すると、彼らは父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。」。このように、「すぐに網を捨てて」180度方向転換をして従う。これは私たち普通の者にはとてもできないことではないでしょうか?初めてあった人に「はい。」と一瞬にして従ったように、マルコは記しています。けれども、1:13~14の間にはヨハネの福音書の4章終わりまでの出来事、つまり、バプテスマのヨハネの弟子であったアンデレが兄弟シモン・ペテロをイエス様のもとに導いたことやカナの婚礼で葡萄酒がなくなってしまった中での奇跡、またサマリヤの女のストーリー等が実際入っていません。また15節と16節の間には、安息日において、ガリラヤのナザレでなされたシモンの姑の癒しというルカの4章の記事も入っていません。それらを割愛して、マルコはいきなり「ペテロたちは従った」という書き方をしています。一体どうしてなのでしょうか?

 

 それは、イエス様に従うことこそ“何よりも優先すべきこと”なのだということを、マルコが読者に訴えたかったからではないでしょうか?だから、極端に見えるような書き方をされているのではないでしょうか?

 

 20数年前、私は韓国に留学することになりました。というのは私たちの神学校がスタートしたのですが、私たちの教団の中に教えることのできる人が1人もいなかったからでした。それで私が適任ということになったのです。けれども、私は一度、ある神学校では学びについて行けず、ほとんど落ちこぼれのようでした。また、韓国に行くというのに、英語も韓国語もできません。さらに、神学校ではなく、今度はその上の神学大学院です。私は「自分にはできない」という思いがありました。けれども、不思議なことに教えてくださる先生は70歳を越えた日本語の堪能な学長で、日本語で、それも1対1で、学長室で教えてくださることになりました。さらに副学長も同様に日本語で、1対1で、教会史を教えてくださることになり、私だけが特別待遇を受けました。また、学費も教団からの援助が一銭もなく、入学金と初年度の授業料しか払う余裕がありませんでしたが、とりあえず韓国に行きました。

 

 しかし韓国に出発した3週間後、全く期待していなかった方から2年間の学費と生活費すべてをサポートしていただいたのです。そして、卒業式を前にして成績表をいただきました。それを見て私は大笑いしました。なぜなら、最高の成績であり、修士論文はPerfectと記されていたからです。その時、「イエス様は本当にすごいな~」と思ったのです。なぜでしょうか?私は自分の力が全くないことを日本の神学校在学中、「これでもか!これでもか!」というくらい体験させていただいたからでした。ハレルヤ!ですから、ただ「おお、主は素晴らしい!ハレルヤ!主は素晴らしい!」これしか言葉がなかったのです。ハレルヤ!このように、自分は足りない、難しいという気持ちがあっても、主の導きに従うとき、主は私たちの想像をはるかに超えた御業をなしてくださるのです。1つみことばをお読みします。第一コリント2:9「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないものを、神は神を愛する者たちに備えてくださった」。ハレルヤ!まさにこのみことば通りなのです。このように、神様はご自身の導きに従う者を豊かに祝福してくださるのです。

 

3,逆転勝利の祝福

1)約束を握り、最後まであきらめない

 皆さん!イエス様はどんなお方でしょうか?逆転勝利を与えてくださるお方です。十字架という最悪の刑罰をお受けになることによって、私たちに救いの門を開いてくださったお方なのです!これが主の方法です!イエス様は「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と仰います。しかし、そのためには、第一に、約束を握り、最後まであきらめないことなのです。

 

 スコットランドの田舎である牧師が辞任に追い込まれました。というのは、この牧師の在職期間中、たった1人の少年しか洗礼を受けなかったからです。その責任を教会の役員会で厳しく問われた結果でした。しかし、この一人の少年ロバート・モファットは後日、宣教師となってアフリカのクルマン地方へ行って伝道し、リバイバルを起こしました。実際、クルマン地方の全部族が救われ、現地語で聖書翻訳を成し遂げたのです。そして、ロバート・モファットの娘がやがて結婚しましたが、そのパートナーがアフリカに生涯をささげた青年リビングストンでした。彼はアフリカ奥地へと宣教網を拡大し、後の大きなアフリカ・リバイバルの礎を築き上げたのです。みことばの約束を握り続け、あきらめないなら、必ず祝福をいただくのです!

 

2)主が成し遂げられる!

 イエス様は約束されました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と。そしてペテロもアンデレもすぐに網を捨てて、イエス様に従ったのです。けれども、本当にイエス様と同じ思いを持って従ったでしょうか?ある時、ペテロはイエス様を諌めました。その時、イエス様から「引き下がれ!サタン!」と言われました。また、イエス様が十字架にかかる直前、弟子たちの話題は何だったでしょうか?「私たち弟子たちの中で、だれが一番偉いか」と言い争っていたのです。そして、ゲッセマネの園で、イエス様が捕らえられたとき、彼ら弟子たちはみなイエス様を見捨てて、逃げてしまいました。しかし、ペテロは捕らえられたイエス様が心配になりました。そこで、イエス様が連れていかれた大祭司の庭に入っていきました。すると、その時、ペテロは大祭司の女中から「あなたはあのイエスの弟子でしたね?」と聞かれます。ペテロは何と言ったでしょうか?彼は「何を言っているのか!理解できない!」と答えました。再び、この女が「いや、やはりあのイエスの弟子だ」と言いましたが、彼は再び否定しました。さらに別の人が「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤなまりでわかる!」と言われたとき、ペテロは「わたしの言っていることが嘘ならば、私は呪われてもいい」とさえ言って、誓いはじめた、と聖書には記されています。

 

 皆さん!これがイエス様に従った弟子たちの本質なのです。従ったというのは、まったく表面的でしかなかったのです。私はここで身近な存在である兄弟の事を考えてみたいと思います。彼は数年前に教会に来なくなってしまいました。ある方がいくら探してみても見つかりませんでした。しかし、数年間、来られなかったその兄弟が戻ってきました。そして、イエス様以外のことを中心としようとしても虚しいということを悟り、今は教会になくてはならない大切な献身者となって、よく忠実に奉仕してくださっているのです。そのような方が身近に2人もおられるということは何を意味しているでしょうか?「わたしについて来なさい。」と言われたイエス様の言葉に従った者が、信仰から離れたように見えても、イエス様が守り、導いておられるのです。「主ご自身が『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』」(へブル13:5)と言われているのです。また主は言われます。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)。「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」(エペソ1:13~14)。足りなくても、弱くても、イエス様に召された者は主が最後まで導いてくださるのです^^

 

 あの12弟子たちも、とても弱く、足りない者たちでした。しかし、復活されたイエス様は彼らを責め立てることをせず、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と仰いました。そして、自分の弱さを徹底的に悟った弟子たちは、それからマルコの母親の家に集まって、10日間のお祈り会をします。すると、10日目に、天から燃える炎の舌がそこに集まった120名の上に臨まれました。彼らは聖霊の圧倒的な力を受け、命がけで、イエス様こそ昔から待ち望んできた救い主であることを大胆に、恐れることなく宣べ伝えていくのです。そしてペテロは1度に3000人、1度に5000人の人々を救い出す神の働き人となっていったのでした。ハレルヤ!逆転勝利が待っているのです!祈りましょう!

 

 

「わたしについて来なさい」

1) イエス様は弟子たちを召される!

2) イエス様に従う祝福

3) 逆転勝利の祝福

 

 

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聖霊の火が下るならば、、、

 

 私たちは聖霊に満たされているでしょうか?

 

 聖霊の火に燃やされているでしょうか?

 

 アフリカ中部にウガンダという国があります。

 

 この国は長い間、魔術が盛んでした。

 

イディ・アミン - Wikipedia

 

 そして、独裁政権の中、アミン大統領は次々に人々を虐殺し、毎日、

 

数千人の人々が殺され、通りには死体がごろごろあるような状態でした。

 

 教会も焼かれたり、クリスチャンたちが殺されたりしていました。

 

 詐偽、強盗、殺人、レイプ・・・・様々な犯罪が頻発していた国でした。

 

 1997年、WHO、世界保健機構はウガンダについて危機感をもって発表しました。

 

「この国は近いうちに、エイズで3分の1の人々が死ぬであろう」と。

 

 しかし、クリスチャンたちはこの国から逃げることなく、人目につかない夜、

 

林の中で叫んで祈りました。

 

Amazon.co.jp: ウガンダを変えたブレークスルーの祈り : 渡部伸夫, マイケル・キムリ: 本

 

「主よ、この国をあわれんで下さい。この国を救ってください」。

 

 そして彼らの熱い叫ぶような祈りに主が答えてくださったのです。

 

 このウガンダにリバイバルが起こったのです。

 

 ある教会は教会員が7人でした。

 

 しかし、ペンテコステの霊が注がれ、2週間で2000人になったのです。

 

 ハレルヤ!

 

 また、「この国は近いうちに、エイズで3分の1の人々が死ぬであろう

 

WHO、世界保健機構はウガンダについて発表していました。

 

 しかし、エイズ末期でもう数週間で死ぬと診断された人たちが、証しする

 

のです。

 

Revival has just begun in Western Uganda | #revival - YouTube

 

主の臨在が私を蔽い、主の力で癒されました」とふっくらした顔で輝いて

 

証しするのです。

 

 それも一人二人ではなく、数万人数十万人も癒されたのです。

 

 今与えられた地を離れることなく、熱心に祈り続けるならば、必ず主は祈りに

 

答えられ、多くの実を実らせてくださるのです。

 

 もう一度、主との交わりを回復させましょう!

 

 祈りの祭壇を立て直し、聖霊の火を再びいただきましょう!

 

 ハレルヤ!

 

 

使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。

 

『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。


 5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、

 

聖霊によるバプテスマを授けられるからです。』・・・

 

 

 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。

 

 そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、

 

わたしの証人となります。」(使徒1:4~5、8)

 

 

さて、一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。
 

 30 すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが

 

通られると聞いて、『主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください』

 

と叫んだ。
 

 31 群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、『主よ、

 

ダビデの子よ。私たちをあわれんでください』と叫んだ。


 32 イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。

 

『わたしに何をしてほしいのですか。』


 33 彼らは言った。

 

Reflection on Matthew 20:29-34 | New Life Narrabri

 

『主よ、目を開けていただきたいのです。』


 34 イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。

 

 すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」(マタイ20:29~34)

 

 

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一方的な親の愛

 

 ある養老院に一人のおばあちゃんが入りました。

 

 そのおばあちゃんは家族に見捨てられ、持っている物は一つの風呂敷包み

 

だけでした。

 

 そしていくら尋ねても子供たちの住所と名前を教えてくれないのです。

 

 おばあちゃんはいつもどうしているかというと、寝るときもその風呂敷包みを

 

枕にし、片時も手離さないのです。

 

 

 しばらくたって、おばあちゃんが世を去りました。

 

 葬儀を行なうために、その風呂敷包みを開けてみると、中にはお金が500万円

 

入っていました。

 

 そこには息子の名前と住所が書かれていて、その横にこう書かれていました。

 

私が死んだあと、この子に渡してください」。

 

 そこで、その息子を探してみると、学校の先生でした。

 

 彼は自分の母親が認知症になったので、養老院の前にお母さんを置いて、

 

いなくなってしまったのでした。

 

 そのお母さんの願いに従って、息子さんと連絡を取り、「お金を受け取りに

 

いらしてください」と連絡しました。

 

 ところが、葬儀の日も、そのあとも現れないのです。

 

 彼はその母親があまりにも恨めしいので、いっさい関わらないのです。

 

キリスト教、宗教、保護の概念。毛布で眠っている老人高齢者年金受給者の体をカバーする天使の聖聖書の宗教的なキャラクターを笑っています。神のサポートとケアの イラスト。 | プレミアムベクター

 

 その養老院はキリスト教の施設でした。

 

 そこでは実の親のようにお世話をして、身奇麗にしてあげました

 

 治療し、いろいろの面倒を見てあげました。

 

 ですから、その養老院に自分の持っているお金を捧げるのが道理では

 

ないでしょうか?

 

 しかし、1円もそんなことは書かれていません。

 

 自分を捨てた息子に全てを捧げるというのです。

 

 これが親なのです。

 

 親は子供をいつも憐れみ深い心で見ているのです。

 

 一方的な愛なのです。

 

 

 しかし、親の心を子どもは知らないのです!

 

 

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた

 

ことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)

 

 

 

私たちが聞いたことを、だれが信じたか。

 

 【主】の御腕はだれに現れたか。
 

 2 彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。

 

 砂漠の地から出た根のように。

 

 彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。

 


 

 3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。

 

 人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:1~3)

 

 

 心にせまる父の悲しみ
 愛するひとり子を十字架につけた
 人の罪は燃える火のよう
 愛を知らずに今日も過ぎて行く
 十字架からあふれ流れる泉
 それは父の涙
 十字架からあふれ流れる泉
 それはイエスの愛

 父が静かにみつめていたのは
 愛するひとり子の傷ついた姿
 人の罪をその身に背負い
 父よかれらを赦してほしいと
 十字架からあふれ流れる泉
 それは父の涙
 十字架からあふれ流れる泉
 それはイエスの愛

 



 十字架からあふれ流れる泉
 それは父の涙
 十字架からあふれ流れる泉
 それはイエスの愛

 

(「父の涙」岩淵まこと)

 

 

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成功者とは?

 

 ジュー・ジグロという人は100名の成功者を研究しました。

 

 彼らはどうして成功したのでしょうか?

 

 2つの共通点がありました。

 

 1番目は彼らの70%が貧しい田舎の出身でした。

 

 

 そして2番目は他の人のよいところを発見して、よく称賛する人

 

だったのです。

 

 肯定的な目で見ること、これがどれほど大切でしょうか!

 

 そのように人を見る人は、神様からも同様な目で見られるようになります。

 

 ですから、私たちはいつも愛の目、肯定的な目で見るように

 

いつもしましょう。

 

 まず身近にいる周りの人に対して、このような目を持っていかなければ

 

なりません。

 

 

 称賛しあう人々はどんどん祝福されます。

 

 しかし、批判ばかりする人々は滅びるのです。

 

 結婚生活がすぐ破綻してしまうのは、批判の目が生まれるからです。

 

 結婚する前は相手の悪いところは一つも見えません。

 

 あばたもえくぼ。

 

 全部よい所ばかりが見えます。

 

悪用厳禁】異性があなたに一目惚れする心理テクニック|敬介Mental trainer|coconalaブログ

 

 ボーとしてよく見えない。

 

 逆に、会う度によいところばかりが見えます。

 

「ああ、目がきれいだな。いやー何て優しいのかなあ。」

 

 ですから、結婚します。

 

 しかし、結婚してからは、もう少し冷静になり、相手の特に悪いところ

 

が目に付くようになります。

 

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 以前は見えなかった、このような相手の弱点を批判し始めるのです。

 

 すると、相手を傷つけていきます。

 

 そして熱かった愛がどんどん冷めていきます。

 

 人間は毎日食事するように、毎日、励ましと称賛によって元気になるのです。

 

 また、人の弱さ、短所を直すことは放棄することなのです!!

 

 

さばいてはいけません。

 

 自分がさばかれないためです。
 

 2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で

 

量り与えられるのです。」(マタイ7:1~2)

 

 

わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。

 

 地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)

 

 

 

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ソン・ヤンウォン牧師の残した愛

 

 愛の原子爆弾といわれる韓国のソン・ヤンウォン牧師先生は一生かけて愛し、

 

仕える人生を送られました。

 

CRS NEWS] <font face="Arial">孫良源(ソン・ヤンウォン)牧師をご存知ですか? </font>

 

 6年間、ハンセン病にかかって苦しんでいた人々に愛を実践しました

 

 また先生は愛と赦しの模範を示されました。

 

 1948年、共産党の青年たちによって二人の息子たちが殺されました

 

 軍が来て、その共産軍の兵士を捕らえたあと、死刑宣告を下しました。

 

 しかし、彼が死刑になる前、ソン・ヤンウォン先生は嘆願書を出して、

 

この兵士が殺されないように切に頼みました

 

「確かに私の息子がこの男によって殺されましたが、私がまた、この人を

 

殺すことに同意するなら、私の息子の死に何の意味があるでしょうか?

 

どうか赦してください」。

 

영성의 현장을 찾아서 <제4편>] 온몸으로 하나님·이웃 사랑… 마침내는 원수까지 사랑 - 국민일보

 

 ソン・ヤンウォン先生は息子たちの葬儀を行なうときに、このように言いました。

 

私のような罪人の家系から、殉教者を与えてくださって感謝いたします。

 

 3男3女の中で、大切な長男、次男を神様に捧げられることを感謝いたします」。

 

また「二人の息子を殺した敵を悔い改めに導いてくださり、自分の養子にまで

 

してくださって、心から感謝いたします」。

 

 そうです。

 

お父さん、あの人たちを許してください。  彼らは自分たちのすることを知らないのです」(キリストが十字架刑を受けた後、神に叫んだ言葉·ヌガー福音23:34)約140年前、韓半島にプロテスタントが伝播され..  - MK

 

 ソン・ヤンウォン先生は自分の息子を殺した敵を自分の子どもとしたのです。

 

 ところで、この赦された人、アン・ジェソンはどうなったでしょうか?

 

 自分の犯した罪を悔い改めました。

 

 そして朝鮮戦争の中、北朝鮮の共産軍にきわめて酷く殴られ、殉教しました。

 

 殺されるとき、彼は、自分を殺す共産軍の罪を赦してくださいと祈りながら、

 

召されていったのです。

 

 神様の愛にみたされていたソン・ヤンウォン先生は多くの人々に聖霊の感動を

 

与え、その愛は永遠に慕われています。

 

 ガマリエル・ベイリーと言う人はこう言いました。

 

最も多く赦す人が多く赦される」。

 

14歳からわかるリンカーン暗殺が生んだ「史上最悪の大統領」とは? | アメリカの中学生が学んでいる14歳からの世界史 | ダイヤモンド・オンライン

 

 アブラハム・リンカーンは「私は毎日赦す心で生きる」と語りました。

 

 ロバート・ブラウニーは「赦すことは素晴らしい。

 

そして、それを忘れることはもっと素晴らしい」と語りました。

 

 

 イエス様はこう言われます。

 

『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは

 

聞いています。
 

 44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者の

 

ために祈りなさい。

 


 

 45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。

 

 父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を

 

降らせてくださるからです。
 

 46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いが

 

あるでしょうか。

 

 取税人でも同じことをしているではありませんか。
 

 47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをした

 

ことになるでしょうか。

 

 異邦人でも同じことをしているではありませんか。
 

48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、

 

完全でありなさい。」(マタイ5:43~48)

 

 

そのとき、イエスはこう言われた。

 

『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かって

 

いないのです。』

 

 彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。」(ルカ23:34)

 

 

信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせて

 

くださいますように。

 

 そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、


 18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどで

 

あるかを理解する力を持つようになり、19 人知をはるかに超えたキリストの愛を

 

知ることができますように。

 

 そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが

 

満たされますように。」(エペソ3:17~19)

 

 

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ストレスに打ち勝つには?

 

 あのドイツの文豪ゲーテは80歳のときに、このように告白しました。

 

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ - Wikipedia

 

「私はただ数週間の間だけでも、本当の幸福感を持ったことがなかった。

 

 私が平安を得たときは、自我から抜け出したとき、自分から離れたとき

 

であった。」

 

 ですから、文豪ゲーテがそうであるなら、私たちのような小さい者は、

 

心にストレスを受けて当然です。

 

 しかし、私たちが抜群の知性を持っていたゲーテよりも優れている点があります。

 

 それは信仰を持っていると言う点です。

 

 ゲーテは私たちのように信仰を持っていなかったのです。

 

 

 私たちはイエス様を信じています。

 

 私たちの力ではできません。

 

 しかし、イエス様の力でできるのです。

 

 イエス様に瞬間瞬間、頼っていけば、イエス様によって心に平安を

 

持つことができます。

 

 そして、その平安を楽しむことができるのです。

 

 ではどうすれば良いのでしょうか?

 

 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもって

 

ささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

 

 

 7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いを

 

キリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ4:6~7)。

 

 つまり、心に平安が来るまで、神様に叫び求めなさい、と言うことです。

 

そうすれば、心に平安が臨んで心が満たされるのです。

 

 ですから、私たちの神様は、私たちが不安、心配、焦り、絶望を持つことを

 

願われません。

 

 私たちがストレスにかかることを願われません。

 

 私たちが平安をもつことを願われるのです。

 

 この平安を持つということは、神様に私たちの重荷を委ね、私たちの心の中

 

に留めておいてはいけないのです。

 

 

 私たちがストレスにかからないようにするには、欲を捨て、心を空にして

 

いくことなのです。

 

 イエス様は誰よりも多くの苦しみを通られましたが、ストレスで

 

倒れませんでした。

 

 なぜなら、イエス様には少しの欲もなく、ただ御父の御旨だけに従って、御父の

 

御旨にすべてのことを委ねたので、主はストレスにかかり、倒れることは

 

なかったのです。ハレルヤ!

 

 

あなたの道を【主】にゆだねよ。

 

 主に信頼せよ。

 

 主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)

 

 

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。

 

 神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第一ペテロ5:7)

 

 

わたしを呼べ。

 

 そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた

 

大いなることを、あなたに告げよう。」(エレミヤ33:3)

 

 

 

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神の波動「7.5Hz」 ささき みつお(弁護士)

 

1 宇宙の波動と人間の波動

 

 すべての物体は原子からできている。

 

 原子は素粒子からできていて、素粒子は量子からできている。

 

 現代科学ではここまで解明されている。

 

AIを利用し「量子指紋」を解読することに成功 ー電気抵抗からナノ微細構造を再現ー|プレスリリース | UTokyo-Eng

 

 では量子とは何かというと、簡単に言えば、紐(ひも)のようなものが揺れて

 

振動している状態。

 

 つまり、すべての物体は波動(振動)からできているのである。

 

 宇宙も波動からできていて、これを測定すると、7.5Hz(ヘルツ:周波数

 

「1秒間の振動数」)である。

 

 これが宇宙の秩序を完全に維持している最良の波動である。

 

ノーベル賞受賞利根川進教授に直接聞いてみた!英語、留学、教育、MITへの考察 | バイリンガルへの道

 

 ノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進教授が、分子生物学の立場から

 

脳の仕組みと人の心について興味深い講演をしている。

 

 人間は60~70兆個(註:最近では37兆個説が有力)の細胞から

 

できているが、究極的には他の物体と同じく量子からできている。

 

 つまり、人間の体も波動からできている。

 

 その波動で一番強いものが脳波。

 

 なんと、赤ん坊の脳波は7.5Hzである。

 

 赤ん坊は宇宙と同じ最良の波動をもって生まれてくる。

 

 

 脳が健康ですべてのものを最も受け入れやすい状態、心が健全で愛と喜びと

 

平安に満ちている状態という最高に幸せな状態にある。

 

 しかし、成長して大人になるにつれ、家系(遺伝)や環境の影響を受け、

 

脳の働きが鈍化し、心には憎しみや悲しみや不安が生じ、脳波が乱れてしまう。

 

 それでは乱れた脳波を理想の7.5Hzに近づけるにはどうしたら良いのか。

 

 利根川博士は2つの方法を提唱している。

 

 

 第一は、楽しいことを思い出すこと

 

 第二は、自分の明るい未来をイメージすること

 

 こうして脳(右脳)に肯定的な刺激を与えて脳波を7.5Hzに近づけることが

 

できるという。

 

2 心理学にも共通する

 

カール・グスタフ・ユング - Wikipedia

 

 スイスの精神科医・心理学者カール・グスタフ・ユング博士も、人の精神状態を

 

最高に保つために、同じような手法を提唱している。

 

 第一は、自分の尊厳を高める文字を目で読むことによって、無意識(潜在意識)

 

から最高の自分のイメージを引き出すこと。

 

 第二は、「ありがとう」という感謝の言葉を耳で聞くことによって、無意識から

 

楽しい思い出を引き出すこと。

 

 こうして病んでいる心を健全にすることができるという。

 

 両博士の方法を一つにまとめると、三段階の感謝になる。

 

 

 第一段階、感謝すべきことに感謝する。

 

 第二段階、感謝できないことにも感謝する。

 

 第三段階、未来のビジョン(希望)に感謝する。

 

 例えば、①病気でなく健康であることに感謝する。

 

 ②病気になったが生きていることに感謝する。

 

 ③これから病気が治り健康になることに感謝する。

 

 第三段階の感謝については、両博士ともに、「未来の希望はすでに実現したもの

 

として、過去形で感謝するのが一番良い(効果的である)」と提唱している。

 

 

 事実、ユング博士は、不治と言われていた自身の精神分裂症(統合失調症)を、

 

すでに癒されたというイメージを具体的に描き、これに感謝することにより、

 

完全に癒してしまった。

 

 以上は、神の創造の驚異と神の言葉の真理が、それぞれ説明や用語は異なるが、

 

科学的に証明された一例であると言える。

 

 要するに、いつも喜び、どんなことにも感謝し、希望が実現することを信じること

 

によって、体はより健康に、心はより健全になるのである。

 

 

いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝しなさい

(Iテサロニケ5:16~18)

 

なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう

(マルコ11:24)

 

ささき みつお(弁護士)

 

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礼拝メッセージ

「なぜイエス様は荒野に追いやられたのか?」 

  マルコ1:12~13

序)

 先週、私たちはイエス様が受ける必要のないバプテスマ、つまり、罪を悔い改めるためのバプテスマを受けられたことを見ました。イエス様はこの世界をお造りになった神ご自身です。それなのに人間になられただけではなく、罪人の立場に立たれたのでした。すると、神の霊である聖霊様が鳩のように下って来られ、イエス様の公生涯がスタートしたのでした。そして、天のお父様からも「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」と祝福の言葉をいただきました。ですから、イエス様は祝福の道、快適な場所に導かれても良いのではないでしょうか?しかし、今日のメッセージのタイトルは「なぜイエス様は荒野に追いやられたのか?」です。つまり、鳩のようにイエス様の上に降ってくださった聖霊様は、今度は家畜を駆り立てるかのように、イエス様を荒野に追い立てたのです。なぜイエス様は荒野に駆り立てられていったのでしょうか?

 

1、 見捨てられた人をご自身の弟子とするため

 皆さん、荒野というと「荒涼とした場所、砂漠よりは少しはましかな?」という場所をイメージされるではないでしょうか?もちろん、それは間違ってはいません。けれども、この荒野と訳されている言葉はエレモスという言葉で「見捨てられた」「人が住まない」「寂しい」「孤独」という意味があります。イエス様はそのような荒野、つまり、「見捨てられた」地に、また「寂しい」地に、御霊によって追い立てられたのです。実は、三位一体なる神様の御心がここにあるからです。「見捨てられた人々」のもとに行き、その人を癒し、その人を励まし、イエス様の弟子にされたのでした。

 

 すぐ後の14節には、イエス様が行かれた場所が記されています。どこでしょうか?ガリラヤです。ガリラヤという地域は前にも申し上げましたが、イスラエルの一番北に位置しています。ですから、真っ先に北からの大国に攻められました。そしてその地域では、ほかの民族が連れて来られる植民政策が行われました。ですから、その地域は混血が多くなり、エルサレムを中心とするユダヤからは「彼らはユダヤ人ではない」とさげすまれていたのです。しかし、イエス様はそこに行かれました。イエス様の宣教の拠点はガリラヤのカペナウムというガリラヤ湖に面した地でした。最悪の暗黒の地、それがガリラヤであったのです。皆さん!12使徒たちは都会育ちのイスカリオテ・ユダを除いて、皆ガリラヤ人でした。田舎者の若者たちがイエス様の弟子になったのでした。

 

 また、ユダヤの北に位置するサマリヤ地域も見下されていて、ユダヤ人は彼らとは接触しませんでした。しかし、イエス様はそこに行かれるのです。それも真昼のカンカン照りの暑い時間に。なぜでしょうか?そこで、1人の女性を待つためでした。彼女は5回結婚して、5回離婚し、イエス様がその地に向かわれたときは内縁の夫と一緒でした。その彼女は人々から「見捨てられた」女性でした。人々は「あの女と結婚するとろくなことはない。男を5回も、いや6回も取り換えるなんて、あきれた女だ」と思われていたかもしれません。ですから、皆が水を汲みに来る朝夕の時間には井戸にはやって来なかったのです。人目を避け、だれもが井戸にこない正午ごろの暑い時間にわざわざやって来たのです。そしてイエス様はこの女に声を掛けます。それから彼女は全く変えられ、力強い伝道者となるのです。

 

 それだけではありません。人々が祭りの喜びに満たされ、エルサレムの神殿に喜び勇んで向かうときに、イエス様は全く異なった方向に歩まれました。イエス様はベデスダの池に行かれます。そこには38年間も病で倒れていた人がいたからです。1人息子を亡くし、落胆しきって、力を無くしているナインの女の息子を再びよみがえらせてあげました。ハンセン氏病の人々を癒し、悪霊を追い出し、解放してあげたのです。また、イエス様は人々から嫌われていた取税人も12弟子のひとりとされたのです。

 

 世界最大の伝道者である趙ヨンギ先生も19歳の時、末期の肺病を患い、医者に完全に見捨てられた人でした。しかし、ある女子高生の伝道により、救われ、世界的な伝道者にまで変えられたのです。ハレルヤ!このように主は「見捨てられた人」のもとへと来てくださり、その人をご自身の弟子とされるお方なのです。ハレルヤ!

 

2,私たちに先立って、神様の守りを体験されるため

 野の獣というと、犬や猫というペットではありません。また牛や馬という家畜ではありません。獅子やクマのようなものがイエス様の傍にいたのです。このような状況はまさに命の危険を感じる恐ろしい状況ではないでしょうか?しかし、何の問題もなかったのです。そしてイエス様には天使が仕えていたと記されています。このような情景は、実はイザヤ11章6~9節で見ることができます。

 

「狼は子羊とともに宿り、ひょうは山羊とともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追っていく。牝牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海を覆う水のように地に満ちるからである」。

 

 皆さん!狼と子羊が一緒に仲良くいることができるでしょうか?ひょうが山羊を襲うことなく、仲良く一緒にいることができるでしょうか?乳飲み子がコブラの穴の上で戯れても何の問題もない世界!しかし、それが天の御国です。やがてそのような時代が来ます^^皆さん!狼やライオンやヒョウは肉食獣でシマウマや鹿や小動物を襲いますね。これが当たり前だと皆思っています。しかし、神様が創造された世界のはじめにはまさにこのイザヤ11章のように肉食の獣はいなかったのです。また、人間も動物を食べることはありませんでした。どこから弱肉強食の世界が始まったのですか?それは人間が神様の命令を破り、神様に背を向けてからです。すなわち、人間が罪を犯し、悪魔のしもべになってから、この世界は弱肉強食の世界に全く変わってしまったのです。けれども、その様な荒野でも神様のご臨在があれば、野の獣から守られ、天の御国が実現することを、イエス様は私たちに先立って体験されたのです。

 

 今から70年以上前の1950年、朝鮮戦争が勃発し、北朝鮮が韓国に攻め込んできました。その頃の話です。その時、北朝鮮軍はソウルを陥落させ、プサンまでやって来ました。その時、1人のクリスチャンの女性も捕らえられ、荒野に連れていかれ、銃殺刑になるところでした。それで彼女は1人の兵士とともに歩いていました。その時、処刑される現場に向かいながら、賛美歌を歌ったのです。すると、そのいかめしい兵士の表情が変わりました。なぜでしょうか?彼の母親がクリスチャンであったからです。それで、賛美歌を歌っていた母親を思い出した兵士は「あなたは向こうに急いで逃げなさい」と言い、逃がしてくれたのでした。彼はただ空に向けて空砲を鳴らし、銃殺したことにしたのです。けれども、彼女は雪山を越えていく途中、もう力尽きてしまい、夜、降りしきる雪の中で倒れてしまいました。しかし、ふと目を覚ますと、全然、寒くないのです。何と毛皮が覆いかぶさっているのです。雪の中、凍死するところを何と虎が彼女の上を覆っていたのです。生死をさまよった彼女は後に、韓国の国会議員になり、このことを何度も証ししました。

 

 ダニエル書を見ると、ダニエルも獅子の穴に投げ込まれました。しかし、そこにいたライオンは全くダニエルを食べませんでした。御使いによって守られていたからです。またダニエルの友人たちは燃える火の炉に投げ込まれましたが、まったく害を受けませんでした。なぜでしょうか?炉の外から眺めていた者たちにはわかりました。炉の中には3人が投げ込まれたのですが、そこにはもう一人が見えたのです。それはイエス様でした。イエス様がいるとき、燃える火の炉の中に投げ込まれても、髪の毛も焦げず、上着も全く変わらず、火の臭いさえもしなかったのです。ハレルヤ!イエス様がおられると、荒野が天の御国となるのです。ハレルヤ!このようにイエス様は私たちに先立って、野の獣からも守られる体験をされました。ですから、イエス様を信じる私たちもそのようになるのです。

 

3,私たちに先立って、みことばの力を体験されるため

 荒野に追いやられたイエス様はサタンの試みにも遭われました。この詳しい内容はマタイとルカの福音書に記されています。ところで、なぜイエス様はサタンの試みを受けなければならなかったのでしょうか?それは私たちに先立って、みことばの力を体験されるためでした。イエス様は悪魔の3度の試みに対して、3度ともみことばを振りかざして、悪魔を撃退されました。これは私たちもそのようにできることを教えるためだったのです。

 

 実は15年程前のことです。ひどく悪霊につかれた男性が救いを求めて、東京中央チャーチに電話してきました。話を聞くと、いろいろ悪いことをして来たのですが、ある一線を越えて、自分をコントロールできなくなり、それで教会に電話してきたのでした。確かに、ただ彼には座っているだけで人を圧倒するようなものすごい悪のパワーがありました。それで私はどうしたでしょうか?神様のみことばを1つ1つ開いて、2時間くらい読んでもらいました。何と、ただそれだけで、悪魔の力が徐々に弱くなっていくのを体験したのです。そして、このような機会を3回くらい持つと、彼は解放され、「自分の故郷に帰ります。と言って、帰っていきました。皆さん!みことばの力はまさに聖霊のパワーなのです。

 

 最後にへブル4:12を読みましょう。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」。

 

 今日は「イエス様はなぜ荒野に追いやられたのか?」を見てきました。その理由は、1)見捨てられた人をご自身の弟子とするため、2)私たちに先立って、神様の守りを体験されるため3)私たちに先立って、みことばの力を体験されるため、でした。お祈りしましょう!

 

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「粘り強さに勝るものはない」ささき みつお(弁護士)

 

1 ノーベル賞温泉

 

 2年ほど前に仕事で山梨県の韮崎市を訪問した折に、地元で有名な日帰り

 

温泉施設、「ノーベル賞温泉」に立ち寄った。

 

武田乃郷白山温泉(山梨県) | リュックを背負うと元気になるの♪

 

 正式な名称は、「武田乃郷白山温泉」。

 

 甲斐の武田信玄が築城した「白山城」の麓に湧出した温泉である。

 

 天然かけ流しで、露天風呂からは八ヶ岳、茅ケ岳がまるで一幅の美しい絵画

 

のように眺望できる。

 

 2015年にノーベル医学・生理学賞を受賞した大村智博士が、生まれ育った

 

韮崎市への恩返しとして2005年に設立した温泉場であり、敷地内には、

 

ノーベル賞博士は日帰り温泉オーナーだった 大村智博士が持つ4つの顔 | 先端科学・研究開発 | 東洋経済オンライン

 

同じく大村氏が設立した美術館と蕎麦屋が併設されている。

                                                        

2 決してあきらめない

 

 最近、大村氏の関係者から白山温泉掘削についてのエピソードを聞いた。

 

 大村氏は私費を投じて温泉を掘ることを思いついたが、地元の各地にはすでに

 

いくつかの温泉があった。

 

 美術品蒐集家でもあった大村氏は、大自然の美しさをそのまま鑑賞できる温泉を

 

造りたいと願って場所を選び、蒐集した美術品はすべて韮崎市に寄贈した。

 

 ところが、温泉の掘削を進めるに従い、次々に固い岩盤にぶつかって工事は

 

難航を極めた。

 

 多くの関係者は途中であきらめて、別の場所を掘るように何度も助言した。

 

 しかし、一度取り組んだからには完成するまであきらめずにやり抜いてきた

 

大村氏は、「温泉は必ず出る。費用が問題なのではない。

 

やり抜くかどうかが問題なのだ」と言い切って断固として掘削を続けた

 

山梨県 武田乃郷「白山温泉」 : …風露愚… 全国温泉めぐり備忘録

 

 そしてついに温泉の水脈を掘り当てたのである。

 

3 粘り強い祈り

 

 神を信じる者はどんなことでも神に祈り求めることができる(ヨハネ15:7)

 

人間の常識では実現不可能なことでも神に願い求めることができるのである

 

(マルコ11:23)

 

 しかし、時には、願ったことがかなえられるまで、失望せずに粘り強く祈る

 

必要がある(ルカ11:5~13)

 

 

 「粘り強く」とは「忍耐強く」という意味である。

 

 願いが大きければ大きいほど、その実現を阻む障害(問題)も大きい。

 

 願い求める過程で様々な試練に遭遇し、神に依存せざるを得なくなる。

 

 その結果、その人の信仰が強化される。

 

 言い換えれば、内なる人(神の子)と内なる神(聖霊)との結びつきが

 

強化されていく。

 

 そこから、どんな苦難にもくじけずに耐え抜いていく忍耐力

 

(練られた品性)が生み出される

 

 

 こうして内なる人(神の子)がキリストのように完全な人として成長して

 

いくのである(ヤコブ1:2~4)。

 

 結果として、内なる神(聖霊)の力によってその人の希望が実現していく。

                                                    

神のみ旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である

(へブル10:36)

 

この世に、粘り強さに勝るものはない。

才能?才能があっても成功できなかった例は枚挙にいとまがない。

天才?報われない天才という言葉は、すでに決まり文句になっている。

教養?世の中は教養ある浮浪者であふれている。

粘り強さと断固たる信念だけが、無限の力を持つのだ

(カルビン・クーリッジ:第30代米国大統領)

 

 

ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。。。ひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。。。彼は、、、心のうちで考えた、『、、、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるであろう』。。。

(ルカ18:1~8)

 

ささき みつお(弁護士)

 

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キリストにある巨人

 

 民数記13章を見ると、約束の地カナン探検隊のヨシュアとカレブ以外は

 

恐れて「私たちはそこには入れない」と言いました。

 

「そこには巨人が住んでいて、私たちはいなごのようだった」と。

 

 そして全会衆は大声で泣き明かし、エジプトに戻ろうとしたのです。

 

 しかし、ヨシュアとカレブは「必ず巨人に打ち勝つことが出来る!

 

と言ったのです!

 

ライス国務長官

 

 ところで、アメリカブッシュ政権で国務長官であった黒人女性

 

コンドリーザ・ライス国務長官を覚えておられるでしょうか。

 

 彼女は人種差別の激しいことで有名なアメリカのアラバマ州で牧師の娘として

 

育ちました。

 

 彼女はひどい差別の中で育ちましたが、しっかりしたアイデンティティを

 

持っていました。

 

「私は黒人として、白人から差別されているけれど、神様は私を差別なさらない。

 

 神様は共にいてくださる」と確信していました。

 

 周りの黒人たちは劣等感や挫折感の中にいたのですが、彼女は深い信仰心

 

もち、イエス様にあって、その信仰はまったく揺るぎませんでした。

 

ホワイトハウス – カイム塗料 | SKWイーストアジア

 

 10歳のとき、両親と伝道旅行に行き、その最終目的地がワシントンDCでした。

 

 そこでホワイトハウスを見学しに行きましたが、白人たちは入場できるのに、

 

黒人たちは中に入ることができず、外の鉄条網から中を覗き込むだけでした。

 

 そのときこの10歳のライスは言いました。

 

Happy Family African American Reunion, Smiling Black Dad Holding Talking To  Kid Daughter, Caring Mixed Race Father Return Back Home Bonding With Child  Girl Enjoy Sweet Moment Of Love And Fatherhood Stock

 

お父さん、私が中に入れないのは肌の色が黒いからですよね?

 

 いつかきっと、私が中に入って見せるわ!」。

 

 そして25年後、彼女は自分の言葉通りにホワイトハウスに入れたのです。

 

 そして黒人女性としては、初めての国務長官になったのです。

 

 彼女はこう言っています。

 

どんな難しいことがあってもただ信仰で解決するだけです。

 

 私はすべてのことを肯定的に見つめます。

 

 何があっても信仰で見つめ、黒人であろうとなかろうと、どんな場合でも

 

条件を見つめず、肯定的に見つめます」。

 

 

 ハレルヤ!

 

 ライス元国務長官は、自分がキリストにあってどのような存在かを

 

はっきり知っているのです。

 

 その身分通りに生きているのです。

 

 彼女においては黒人も白人も東洋人も関係ないのです。

 

 キリストにあって、すべてが可能性に満ちた神様の子どもなのです。

 

 そうです!

 

 私たちは”キリストにある巨人”なのです。

 

 

わたしはあなたに命じたではないか。

 

 強くあれ。雄々しくあれ。

 

 恐れてはならない。おののいてはならない。

 

 あなたが行くところどこででも、あなたの神、【主】があなたとともに

 

おられるのだから。」(ヨシュア1:9)

 

 

 

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

 

 たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

 

 わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、

 

あなたを守る。」(イザヤ40:10)

 

 

子どもたち。

 

 あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。

 

 あなたがたのうちにおられる方(キリスト)は、この世にいる者よりも

 

偉大だからです。」(第一ヨハネ4:4)

 

 

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