「キリストを知る計り知れない恵み」
第二ペテロ1:1~8
序)
皆さんはイエス様とどんな関係にあるでしょうか?最近ある方から聞いたのですけれど、「不思議なクリスチャン」がいるそうです;^^その方は悪いことをしても「大丈夫!神様にごめんなさいと言えば、すべては赦されるから」と答えられたそうです。この方は、残念ながらイエス様をご存じないようです!けれども、私たちはイエス様を知ることの本当の素晴らしさ知らなければならないと思います。今日のメッセージタイトルは「キリストを知る計り知れない恵み」です。
1, キリストを知る計り知れない恵み
皆さん!今日の箇所を見ると、「知る」あるいは「知った」ということばが2節、3節に出てきます。2節では「神と、私たちの主イエスを“知ること”によって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。」。3節では「神を、私たちが“知ったこと”により、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。」と記されています。
ところで、この「知る」あるいは「知った」ということばは、“体験的に知る”という意味です。イエス様を“体験的に知る”と、恵みと平安が益々豊かに与えられるのです。主はぶどうの木、私たちは枝です。しっかりこの枝がブドウの木に繋がっているなら、ブドウの木から枝に必要な栄養がどんどん流れ込んでくるのです。それだけではありません。イエス様を体験したならば、イエス様の、神としての御力が、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えてくださったと約束されています。
あのマルコ5章に出てくる長血の女は、12年間も婦人病で悩んでいました。多くの医者からひどい目にあわされて、自分の持っている物をすべて使い果たし、絶望的な状況にありました。しかし、彼女は「イエス様の衣に触れれば、私は救われる!」と言い続けて、イエス様に触れたのです。すると、イエス様から力が流れて来て、その瞬間、彼女の血の源が乾いて、病気が癒されたことを体験したのです。
皆さんにまずお聞きしたいのですが、イエス様に出会う前と後とどのくらい変化したでしょうか?あまり変わっていない方がいるでしょうか?そうだとしたら、どこかに問題があるかも知れません。私はイエス様を体験的に初めて知ったことを忘れることが出来ません。私はかつて生きる意味が分からず、さ迷っていました。「一体、真理はあるのだろうか?本物はどこにあるのだろうか?」と探し続けていたのです。しかし、遂に、神であるイエス様を知ったのです。その時は嬉しくて、嬉しくて、心が喜びで満たされました。空を見ると、イエス様が微笑んでいます。街路樹もスミレもタンポポも皆輝いて見えました。私の目から鱗が落ちたからでした。その感動は今も忘れることは出来ません。イエス様が私の心の内に来てくださり、私の中に神の聖霊の川が流れ込んできたからでした。それは恵みと平安の川でした。
しかし、ペテロはその恵みと平安の川が小川ではなく、大河のようにどんどん水かさを増していくと約束しているのです。それだけではありません。3節にあるように、「キリストの神としての御力がいのちと敬虔をもたらすすべてのものをすでに与えた」というのです。つまり、イエス様を心に迎え入れたならば、キリストが持っておられる「いのちと敬虔をもたらすすべてのもの」が、すでに私たちに与えられているのです。
それは4節で、言い換えられています。それは何でしょうか?神の御性質、神の品性を持つということなのです。つまり、キリストとの交わり、Fellowshipを体験していくならば、どんどんキリストのように変えられていくのです。
では、私たちはなぜキリストのように変えられないのでしょうか?それは4節を見ると、理由が2つあります。➀自分の肉の欲を日々十字架につけていないからです。肉の欲に従っていくと、どんどん世的になり、腐敗していくのです。これではキリストの似姿とは正反対の道に行ってしまいます。言い換えると、御霊に満たされ続けることなのです。②私たちは神ご自身の栄光と栄誉へと導かれているということです。この3節冒頭は「私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神」と訳されていますが、「私たちをご自身の栄光と栄誉へと召してくださった神」とも訳すことが出来る個所なのです。
つまり、主ご自身は栄光と栄誉そのものであられます。そのもとに主は私たちを案内してくださっています。しかし、別の表現をすると、主は、私たちをキリストの花嫁として最高の栄光、最高の栄誉を与えようと、私たちを召し出されたのです。ではそれは、具体的にはどのようなことでしょうか?ピリピ3:21にはこう記されています。「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」。ハレルヤ!今、私たちはキリストの花嫁として、婚礼の準備をしているのです!その準備とはキリストと同じ姿へと変えられていく方向なのです。そしてやがて全く変えられ、永遠にイエス様と共に生きるのです!
2, 輝けるキリストの花嫁へのプロセス
私たちの未来像はお分かりになったでしょうか?キリストと同じ栄光に輝く体に変えられるのですね^^。そのために、私たちがこの地上において、婚礼の準備をしなければなりません。それが5~7節です。「だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」。
私たちはこの地上で花嫁修業の身であるとお話してきました。そのプロセスがここに記されています。それは信仰から始まり、愛=アガペー、すなわち、犠牲的な愛、無条件の愛に至るプロセスがここに記されています。
ここにも「愛を与えてください。私には愛がありません」と祈られた方々がいるのではないでしょうか?実は、私もそのうちの一人です。しかし、一気に、アガペーという無条件の愛、敵をも愛する愛の人になれるのではないことが分かります。その一つ一つを見ていきたいと思います。
➀信仰:クリスチャンがまず持つべきものです。どんなに環境が変わり、変動が激しいとしても、神を信じ続けることです。へブル11:6には「信仰がなくては神に喜ばれることが出来ません」と記されています。信仰こそが私たちクリスチャンの土台であるということです。
②徳:これは未信者が「やはりクリスチャンは違うんですね~」と感心するような道徳性を持つことなのです。仕事をしながら、牧師をしている先生がいます。その仕事仲間の中には、人の悪口ばかりを言っていて、嫌われている人がいて、だれも彼を相手にしませんでした。しかし、その先生は意地悪をされても、その人を受け入れ続けた結果、悪口ばかりを言っていた人が仕える人に変えられたそうです。
③知識:信仰には徳、徳には知識と記されています。知識がどうして大切でしょうか?特に聖書の知識がなければ、自分の思い込みやこの世の知識に頼らなくなってしまうからです。ですから、聖書を学ぶことによって、人間的な考えではなく、神の御心を知ることが出来るのです。ハレルヤ!
④自制:知識には自制を加えなさいと命じられています。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を立てます」(第一コリント8:1)という有名な言葉があります。いろいろな知識を持ったからと言って、高慢になってはいけません。自制、即ちセルフコントロールは聖霊に満たされていくと、その聖霊の実、フルーツとして与えられるのです。
⑤忍耐:一体、忍耐はどのようにしたら、与えられるでしょうか?パウロは「艱難が忍耐を生み出し、忍耐が錬られた品性を生み出す」(ローマ5:3~4)と言っています。艱難、試練というものが忍耐を生み出し、忍耐が錬られた品性、キリストのような人格を生み出すというのです。
私は毎日、ブログをアップしているのですが、最近コメントをくださった方がおられます。その方は子どもの時から苦労され、結婚してから分かったことでしたが、相手がやくざだったのです。ですから何十年も脅され、様々な苦労をされ、最後は病床でのご主人の看病も大変であったそうです。「どうして?私だけ?」と疑問を抱き続けて来たそうです。しかし、最近、その疑問が解けたそうです。それは申命記8:16のみことばです。「あなたを苦しめ、あなたを試し、”ついにはあなたを幸せにする”」。これが神のご計画であるからです。
また、ペテロはその第一の手紙1:7でこう言っています。「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」私たちは試練によって、主に試されます。しかし、その時忍耐することがどれほど大きな報いをもたらすでしょうか?それは「火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価」なのです。試練を堪え忍んだ人は「イエス・キリストが現れる再臨のとき、称賛と栄光と誉れを」受けることが定まったいるのです。皆さん!こうなって来ると、主の再臨が楽しみではないですか?子どもがなかなかできず苦しんだ人々、住まいがなく苦しんだ人々、様々な苦しみを堪え忍んだ人々には称賛栄光、誉れが待っているのです!ハレルヤ!
⑥敬虔:パウロは「今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」(Ⅰテモテ4:7-8)と言っています。敬虔は「今のいのちと未来のいのちが約束されている」ものです。敬虔とは何でしょうか?キリストのように主を愛し、みことばを愛し、つまりディボーションしてみことばと深く交わる生活です。そうすると、キリストの似姿になっていくのです。
⑦兄弟愛:兄弟愛とはいわゆる友愛です。神の家族、兄弟姉妹を愛するということです。Ⅰヨハネ4:20~21にこう記されてあります。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目の見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」(Ⅰヨハネ4:20-21)。キリストの最後のただ1つの命令は何でしたか。それは、「互いに愛し合いなさい」ということでした。そして、イエス様はこれを最後の晩餐の席で弟子たちに言われました。
けれども、よくよく弟子たちを考えてみてください。イエス様の十字架の時期がもうすぐそこまで来ているのに、「偉いのは俺様だ!」「いや俺だ!」ともめていたのです。本当に情けない弟子たちでした。兄弟愛においては失格者です。しかし、そんなどうしようもない弟子たちにイエス様は仰いました。「互いに愛しなさい」と。私たちの周りには「クリスチャンとしては問題だ」「あの兄弟にはあそこが足りない。あそこがだめだ」と批判したくなる点があるかも知れません。けれども、イエス様は唯一の命令として、「互いに愛しなさい」と命じられ、自ら、しもべの姿を取られ、弟子たちの足を洗い始められたのでした。私たちはどうでしょう。自らの胸に手を置いて、考えてみましょう。
⑧愛(アガペー):敵をも愛する犠牲的な愛、無条件の愛です。今日本では終戦記念日を迎えようとしています。この戦争という行為自体が犠牲的な愛、無条件の愛の真逆のものです。
1919年(大正8年)にひとりのアメリカ人宣教師が日本に来ました。その名前はJ・H・コルベと言いました。しかし、その20年後、1939年(昭和14年)に日本を追われ、フィリピンでの宣教活動をしていました。けれども、その4年後、1943年(昭和18年)、彼は奥さんのシェルマやその他9人の宣教師たちとともに、日本軍に捕えられ、日本刀で首を斬られて殺されてしまいました。
アメリカにいたコルベ宣教師の2人の娘、マーガレットとアリスにこの知らせが届けられると、彼女たちは悲しみに打ちひしがれてしまいました。やがて悲しみは憎しみに変わり、両親を殺した日本人に対して、いつの日か復讐してやろうと思うようになりました。毎日、悲しみと憎しみの中で、神に祈っていたのですが、ある日、祈りながら、ふと、こんなことを考えていました。「両親は日本の軍人に殺される前に、祈っていたというけれども、一体何について祈っていたのだろうか?」
そのことを考え始めると、両親を日本から追放し、フィリピンで殺した日本人の救いのために違いないと悟ったのです。しかし、そうは言うものの、そう簡単に憎しみが取り去られるものではありません。悶々とした毎日を過ごしているうちに、1つの聖書の御言葉が示されました。「主は、私たちのために御自分の尊い命を捨ててくださった。このことによって、私たちは愛とは何かということが分かった。だから、私たちもほかの人のために喜んで命をささげるべきである。」(ヨハネの手紙第一3:16、現代訳)
マーガレットはこの御言葉通り、日本人に対して愛を示そうと、捕虜収容所のボランティアとして日本人たちの身の回りの世話をします。2週間経ち、3週間と経過しました。やがて日本人全員は次第に心打たれて、「お嬢さん、どうしてそんなに親切にしてくださるのですか」と尋ねました。けれども、彼女の返事はなんと意外なものでした。「私の両親が日本の軍隊によって殺されましたから・・・・」。すると、それを聞いていた日本人の捕虜たちには、さっぱり理解できません。日本の軍人たちは、仇討ちの教えしか考えられなかったからです。そして、捕虜たちは敗戦後、捕虜交換船で日本に帰って来ました。
この人々を出迎えた人々の中に、かつて太平洋戦争勃発の時、真珠湾攻撃の爆撃隊長であった淵田美津雄元海軍大佐がいました。彼はこの不思議な話を捕虜たちから聞きました。そしてしばらくの月日が流れたある日、所用があって渋谷駅に下車すると、一人のアメリカ人が道行く人々にパンフレットを配っていました。それはかつての東京爆撃隊の爆撃手であった、J・デシーザー氏の入信手記でした。彼は捕えられて獄中で虐待されているときに、彼がなぜ人間同士がこうも憎み合わなければならないのかと考え、そしてキリストに出会ったというものでした。
その時、淵田大佐も「聖書を読んでみよう」と思い立ち、さっそく聖書を読んでいるうちに、新約聖書ルカの福音書23章34節、「父よ。彼らを赦したまえ、彼らはそのなす所を知らざればなり」のところに来ました。その時、淵田大佐の頭の中に、コルベ宣教師のお嬢さんの話が頭にひらめき、”敵を赦しうる神の愛”を知ったのでした。そして、斬られる前のコルベ宣教師たちの祈りに思い至ったのです。淵田大佐は目頭がジーンと熱くなるのを覚え、大粒の涙がポロポロと頬を伝いました。その日、淵田大佐はイエス・キリストを救い主として受け入れたのです。その後、淵田大佐は宿敵であったアメリカ軍の元軍曹・デシーザーと手を携えて、日本各地、そして世界へと伝道旅行をする伝道者となったのです。
今日は聖書を通して「キリストを知る計り知れない恵み」を学んできました。それは恵みと平安だけではありません。それはいのちと敬虔をもたらすすべてのものが与えられることであり、今、私たちは完全な愛の人になることを目指して、花嫁修業をしているということでした。この信仰から始まるプロセスを経て、完全な愛の人へと変えられて行こうではありませんか^^
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