「主の導きに従う驚くべき恵み」 佐々木満男・国際弁護士
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3:5〜6)
1.自分の悟りに頼るな
もう35年ほど前の話になりますが、私はオーストラリアの大学に留学していたときに大学内のキリスト教伝道団体・ナビゲーターの集会に導かれました。みなさんご承知のように、ナビゲーターは聖句暗記で有名です。そこで一番初めに暗記させられたのが、今日の中心聖句の箴言3章5節と6節です。聖書知識が全くないのに、いきなり英語で聖句暗記をさせられましたので大変苦労したことを覚えています。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」と一生懸命暗記しようとしましたが、それまで30年以上も自分の悟り(知識、知恵)にたよって生きて来ましたから、心の中でものすごい大きな抵抗がありました。「自分の悟りにたよるな」ということは、「自分を放棄せよ」ということではないか。それは自分以外の何者かの「あやつり人形になれ」ということではないか。そんなことはとてもできるはずがないと心の中で抵抗していたのです。しかし当時の私は、大学を出ても、弁護士になっても、外国留学をしても、大して幸福でない自分に幻滅していました。一緒に聖書を学んでいるクリスチャンたちが、いつも喜々として自由で幸福そうなのが、うらやましく思われました。
そこで、彼らの信じている聖書の聖句が本当かどうか試してみようという気になりました。生活の中で何か決断しなければならないときに、「私はこうしたら良いと思うが、神がいるとしたらどうするだろうか」と考えるようにしたのです。そして「神がいるとしたら、きっとこうするだろう」と思われることを実行していくうちに、次々とそれが良い結果を生み出すことを体験しました。
初めの数回は偶然が重なっただけだと思っていました。しかし、あまりにもそのようなことが何度もつづいて起こりましたので、「目に見えない導き」が存在することを信じざるを得なくなりました。自分が神との交わりを断たれた者であることを自覚し、キリストを信じて神との生きた交わりに入れられるまでにはその後何年かかかりましたが、その時から「目に見えない導き」の存在を信じることによって、聖句の確かさと神の存在を信じるようになりました。
そして、「自分の悟りにたよるな」ということは、決して自分を放棄したり誰かのあやつり人形になったりすることではなく、あくまでも自分の自由意志によって主に拠り頼み、主の導きに従って自分の知性を生かし用いることであることがわかってきました。要するに、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」ということは、神すなわち霊(スピリット)の領域(次元)の事柄であり、自分の悟りすなわち人間の知性(マインド)の領域(次元)を超越した領域(次元)の事柄であることがわかってきたのです。
2.どこにおいても主を認めよ
そのようなわけで、私の信仰は箴言3章5節、6節をもってスタートしましたが、これは私の生涯にわたって持ちつづけるべき聖句のひとつとなりました。その理由は、物事がうまくいかないときに、その原因をたどってみると、ほとんどの場合、自分の悟りにたよって行動していたことに気がつかされます。ときどきは主に拠り頼むのですが、多くの場合に自分の悟りにたよってしまっているのです。
しかし、みことばは、「あなたの行く所どこにおいても主を認めよ」と言っています。「いつでもどこでも主がおられることを意識して生活しなさい」ということです。これを実行することはなかなか難しいことです。でも自分の悟りにたよったらつまずきますから、どうしても実行せざるを得ません。特に弁護士という相手方と対決しなければならない場面の多い闘争的職業柄からも、より多く主に拠り頼む必要があったと思います。
「いつでもどこでも主を意識しよう」と、徐々にではありますが、自分なりにできる限り多くの時間を祈りとみことばの学びに費やすようになりました。そして今では、毎朝寝床の中で1時間祈り、出勤前に喫茶店で最低1時間みことばを学び、通勤電車の中で祈り、仕事中も合間を見ては事務所から外出して祈りの時をもち、夜寝る前30分は家族とともに祈り、毎週木曜日の祈とう会には必ず出席し、隔週火曜日のお昼には私の事務所の部屋で祈とう会を行い、土曜日は半日1人になって、祈りとみことばの学びに費やすようになりました。それに加えて、毎週日曜日は教会のバイブル・スタディに参加し、毎週月曜日の朝はホテルのレストランで数人の仲間と聖書の学びの時をもっています。
わたしはみ言葉を与えられて、これを食べました。み言葉は、私の喜びとなり、心の楽しみとなりました。(エレミヤ15:16)とありますように、今ではこれは「やらなければならないからやっている」のではなく、「楽しいからやっている」のです。まことに、「あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある」と詩篇16篇11節に歌われていますように、キリストと共に過ごし歩むことにまさる喜びと楽しみはありません。
仕事中も福音伝道のために文書をコピーしたり、いろいろな方々に手紙を書いて送っていますから、自分でもいったいいつ仕事をしているのだろうか、と思います。しかし、まことに不思議なことに、祈れば祈るほど仕事はうまくいくのです。祈りの中で仕事をしていますから、仕事の実働時間はかえって多いかも知れません。祈りの中で神さまから指示をいただいて、自分の考えや方針をまとめていくのです。私がやれない分は全部、神さまが、直接やってくださるか、他の方々をとおしてやってくださいます。「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ずなる」と箴言16章3節にあるとおりです。
このようにして祈りとみことばを第一とする生活をつづけているうちに、次第に神の驚くべき恵みを経験させていただくようになりました。昨年は年間聖句として「わたしがあなたのためになそうとしていることは驚くべきことである」との出エジプト34章10節のみことばが与えられましたが、昨年につづいて今年も主の驚くべき恵みをたくさんいただいて来ました。今日はそのうちで、私が主の導きに従ってした献金の驚くべき恵みについてお話ししたいと思います。
3.ロシア・東欧への聖書贈呈のための献金
共産主義国家連邦ソ連が崩壊するとともに、ベルリンの壁がくずされ、ロシア・東欧各国で一斉にキリストの福音に対する門戸が開かれました。人々が福音の伝道集会に殺到し、続々と救われる人々が起されました。この霊の飢えかわきに対応するために、世界のキリスト教国から聖書が送られることが急務となりました。1機十数億円もするジェット戦闘機を購入して戦争に備えるよりも、1冊でも多くの聖書が贈呈されて、人々の魂が救われて真の意味での国際平和が達成されていったら、こんなすばらしいことはないと、私もクリスチャンの1人として真剣に祈ってきました。
そのようなときにある日本の宣教団体から、ロシア・東欧に聖書を送る大きなプロジェクトの献金要請の手紙が届いたのです。それは私にとってとても大きな金額でした。私はこれを読んで感動して、事務所の部屋で「イエスさま、ぜひこのプロジェクトを速やかに実現してください」と心から祈りました。すると、イエスさまから、「あなたがそれほど願うなら、あなたがこの献金の全部をささげなさい」と言われたような気がしました。私はとっさに、「主よ、とんでもないことです。これは数千人を対象とした大勢の方々への献金要請であって、私ひとりだけのものではありません」と心の中で反論しました。
つづいて、「あなたはこれを全部支払うだけのお金を持っていないのか」と問われました。「持っていないわけではありませんが、あのお金は家族の家を買うために貯めてきたお金です。今全部使ってしまうわけにはいきません」と押し問答がつづきました。しかし、その主からの促しはあまりにも強く明確であったために、ついに主に従うことにしました。それでもなお、もしかしたらこれは一時的な自分の感情の高ぶりのせいかも知れない、と最後の抵抗を試みました。「主よ、私はこの導きが99%あなたからのものであると信じます。しかしなお残り1%の確信を得るために、どうか3つのしるしをください」と祈ったのです。
するとその日の夜、夢を見ました。私が眠っている間に泥棒が入ってきて、私の預金通帳や印鑑を盗んでいったのです。これに気がついて翌朝一番に銀行に電話をかけて、「昨日泥棒に預金通帳と印鑑を盗まれたから、すぐに預金の引き出しをストップしてください」とお願いしました。ところが銀行員の方が調べてくれて、「申し訳ありませんが、あなたの預金はたった今全額引き出されてしまいました。残高はありません」と返事をしてきました。私はがく然として、「ああ、こんなことになるんだったら、主の導きに素直に従って献金しておけばよかった」と思ったとたんに、夢からさめたのです。
これほど明らかなしるしがあるでしょうか。そして間もなく、みことばが与えられました。それは誰でも知っている、「地上に宝を貯えるな、天に宝を貯えよ。あなたの宝のある所にあなたの心もあるのだ」というマタイ6章19節から21節のみことばです。これで2つ目のしるしが与えられたわけです。「ああ、もうだめだ」と観念して、第3のしるしを待っていましたが、この最後のしるしがなかなか与えられませんでした。何週間か過ぎて、しるしのことなど忘れかけていたときに、関西ナビゲーターの宇野雄司さんからメッセージ・テープが1本送られてきました。
その当時は、メッセージ・テープは退屈で聞いているうちにすぐに眠ってしまうことがよくあったので、そのままゴミ箱にいれてしまうつもりで部屋の片隅に放っておきました。しかしその日は仕事で緊張がつづいて非常に疲れており、なかなか寝つかれませんでした。そこで退屈なメッセージ・テープでも聞けばそのうち眠ることができるだろうと思って、捨てるはずのテープを何気なくつけてみたのです。
そのメッセージでは牧師が献金のすすめについて話しておられました。「みなさんは神さまからすべてをいただいているのに、教会の献金がこんなに少ないのはどうしたわけでしょうか。ある人は10年も月定献金が同じ額です。10年働いていれば会社での地位は上がり、昇給もしているはずなのに、どうして献金はふえないのでしょうか」というようなことを、まことにストレートに語っておられました。私はこれを聞きながら、「ずいぶん厳しいメッセージだなあ」と批判的な思いになっていました。そしてすぐに眠れるどころか、ますます頭がさえて眠れなくなってしまいました。「私はこれまで十分以上に献金してきたから、非難されるいわれはない」などと、心の中で自己弁護の議論を始めたのです。
しかししばらく考えていくうちに、自分では十分以上に各方面に献金してきたと自負してみても、しょせんそれはあり余る中からささげたものにすぎないではないか。生活費のすべてであるレプタ2枚をささげた貧しいやもめとくらべてみたらどうなのか。主はささげる金額ではなく、ささげる心を見ておられる、と思えてきました。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(1サムエル16:7)のみことばが心にひびいてきたのです。
そうすると、神の明確な導きに逆らっている自分が非常に醜く見えてきました。そこでついに主の御前に悔い改めて、主の導きに従う最後の決断をして、これを実行することができたのです。妻も即座に同意してくれましたし、調べもせずに定期預金を解約しに銀行に行った日がちょうど満期日でした。主の導きはこのように驚くほど完全です。この献金によってロシア・東欧に二百数十万冊の聖書やトラクトが送られた、との報告をうけました。
4.驚くべき恵み
この体験を通して、神の驚くべき恵みが与えられました。最大の恵みは、神ご自身との生きた交わりが一段と深められたことです。それまでは、祈りは私の方からの一方的な願いや感謝や賛美がほとんどで、神の側からの語りかけは、まれにしかありませんでした。しかしその後は、神からの語りかけをどんどん受けることができるようになったのです。次第に祈りが神と親しく語り合う会話になってきました。「わたしに呼び求めよ。そうすれば、わたしはあなたに答える」というエレミヤ33章3節のみことばが日常生活の中で現実になってきたのです。イザヤ65章24節には「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているときに、わたしは聞く」と書かれています。これは私にとってまことに驚くべき恵みです。
さらに、「みことばが開けると光を放つ」と詩篇119篇130節にありますように、聖霊の働きにより、みことばの文字の内に隠されている神の栄光を見ることができるようになりました。主は言われました。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8:12)。「もし信じるなら、神の栄光を見るであろう」(ヨハネ11:40)。
また、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」(ヨハネ6:63)とありますように、聖霊の働きにより、みことばの文字の内に隠されている神のいのちにふれることができるようになってきました。
そして、「神さまは、ひとりの人に働きかけてもこれほどのことができるお方である。だから神にできないことはなにもない」という確信が一層強められてきました。また、主は私たちのために天国にすばらしい住居を用意しておられることと、必要ならばこの地上においても、私たちのためにふさわしい住居を無償で与えてくださることを確信することができるようになりました。今では「イエスさまは、いつどんなすばらしい家を与えてくださるのだろうか」と家族で話し合いながら、楽しんで恵みの時を待ち望んでいます。このようにしてイエス・キリストは私たちを住宅問題や金銭問題から解放してくださいました。
その後、仕事の面でも収入の面でも祝福されてきていることは、言うまでもありません。またテープの重要性を悟り、テープ伝道と称して、メッセージ・テープを知人の方々に送り届ける働きをするようになりました。
5.高性能大型印刷機の導入
その後この宣教団体のリーダーの方に手紙を出しました。「神さまは私のような小さなひとりの者を動かしてあれほどのことを成し遂げて下さったのですから、もっと大きなビジョンに挑戦してください」と書いて励ましたのです。これがきっかけになったのか、この団体は大きなビジョンに挑戦しました。それは、高性能大型印刷機を購入してそれを入れるために、大きな土地に引っ越して工場を作るというものです。総額14億円のプロジェクトで、その不足資金が7億円だというのです。その不足資金を全部献金でまかなうというのですから、日本のキリスト教界においては、ずいぶん大きな計画です。
私は「この団体のためにはやるだけのことをやったのだからもう関係はない」と思っていました。「もっと他の諸団体を支援しなくては」と考えていたのです。しかし再び主に導かれて、このプロジェクトの発起人の1人に加えられ、献金要請の責任の一端を荷うことになりました。当初、10万円ささげていただく方が7千人いれば7億円の必要が満たされるということで、日本中の教会に呼びかけて大々的にキャンペーンをスタートしました。
この団体の真剣な努力にもかかわらず、予想に反してなかなか献金が集まりません。スタート当初の盛り上がり分を含めても、2年近くもたって2億円しか集まりません。私共はそれまでも祈ってきましたが、もっと真剣に祈るようになりました。「神さま、このくらいのお金がどうしてすぐに集まらないのでしょうか。1人でもささげることができる金額です。どうかどなたかを動かして、速やかに残額5億円に1億円のボーナスをつけて与えてください」と祈りました。
そうしたら1週間後に、あるお医者さんがボーナス分の1億円を献金してくださったのです。しかもあとで知ったことですが、この方は他の団体にも1億円献金なさったのです。これを聞いて、もう大丈夫だと思いました。残りの5億円が献金されるのは時間の問題だと思えるようになりました。2人の方が献金してくだされば良いのです。1人が2億円、もう1人が3億円ささげてくだされば良いのです。そのように毎週の祈とう会でも仲間たちと祈りました。
私はこのようなある意味では大胆な祈りを確信を持って祈ることができるようになりました。「わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞いてくださる」(1ヨハネ5:14〜15)とありますが、私がかつて主の導きに従ってこれに似たことを実行したことがその確信のベースになっています。これは主の驚くべき恵みです。
この高性能大型印刷機によると中国語の旧新約聖書を8時間に1万2千冊印刷できます。1日24時間フル稼働で3万6千冊の中国語聖書が印刷できるのです。このようにして世界各国語の聖書やトラクトや信仰書が、日本で印刷されてどんどん贈呈されていくことは、本当にすばらしいことです。そして、主の力によって献金が容易に集まるならば、もっと大きな印刷機を導入して、さらに大規模な日本と世界のリバイバルに備えていくことができるのです。
(christiantoday2010923より)
このブログをお読みくださり、ありがとうございます。もし、よろしかったら一日一回クリックしていただけると励まされます^^