パラオはなぜ親日国なのか?
16世紀ごろからヨーロッパ人がミクロネシア諸島を訪れるようになります。
1885年スペイン領となります。すると、天然痘の流入や現地人に対する
厳しい搾取により、パラオの人口は6万人から6000人へと90%も
減少してしまいました。
1899年、スペインはドイツにパラオを売却します。
ドイツはこの地で農業や鉱山採掘を行いますが、経済的な利益やインフラ
整備、教育などでもパラオは全く恩恵に与りませんでした。
第一次世界大戦(1914年~1918年)でドイツが敗れた結果、パラオは
日本の委任統治領となります。
日本はスペインやドイツとは全く異なり、パラオの農業や産業、教育や行政、
法及びインフラ整備、学校や病院の設立等を行い、パラオの人々を日本人と
全く対等に扱ったのです。
「奪う統治」ではなく「与える統治」、それが日本の統治の仕方でした。
しかし、1941年、第二次世界大戦がはじまります。
1942年に日本軍はパラオのペリリュー島に飛行場を作りますが、
1943年、アメリカはペリリュー等奪還を計画します。この時、ペリリュー島
には899人のパラオの人々がいました。
当時、日本統治下のパラオでは島民たちとの間に深い絆が結ばれていました。
刻一刻とアメリカ軍の迫る中、島民たち全員は自分たちの意志で「日本軍と
一緒に戦う」と決めました。
島民の代表が日本軍守備隊長中川洲男(陸軍大佐)に「我々も日本軍と一緒に
戦いたい!」と告げます。
「普段から笑顔を絶やさない中川隊長ならきっと喜んでくれるだろう。」。
そんな思いで真剣に願い求める彼らに対して、中川は一人一人の目を見つめながら
耳を傾けました。
彼らの話が終わり、しばしの沈黙の後、中川はこう言います。
「帝国軍人が貴さまら土人と一緒に戦えるかっ!」
あろうことか中川は激昂し、こう叫んだのです。
「喜んでもらえると思ったのに!」
「仲間だと思ったのに!」
呆然とする彼らは泣きながら戻ります。
集会場で待つ島民たちもみな泣いたと言います。
悲しくて。
悔しくて。
数日後、日本軍が用意した船で、皆パラオ本島に向かいます。
そこには見送る日本兵の姿は一人もありません。
島民たちは悄然と船に乗り込みました。
島を去ることよりも、仲間と信じた日本人に裏切られたことの方が
悲しかったのです。
船がゆっくりと岸壁を離れたその時、ジャングルから島に残る日本兵全員が
大声を上げて走り出てくると、島民たちと一緒に歌った日本の歌を歌いながら、
ちぎれるほどに手を振って旅立つ船を見送りました。
先頭には中川の姿もありました。
「あっ」。
この時島民は悟りました。
中川のあの言葉は島民たちを無事に全員避難させるためのものであったと。
心を鬼にして絞り出した精一杯の言葉だったと。
船上の島民たち全員の目からは涙が溢れ、かすむ目にも笑顔で手を振る日本兵
一人一人の顔が見えました。
これまでに見たことがない素敵な笑顔。
中心にいた中川隊長は「達者でな~必ず生きるんだぞ!戦争が終わったら、
きっとお前たちがこの島を立て直すんだぞ!」と。
島民たちは必死に手を振りながら、涙を流しました。
そして、彼らはその笑顔を必死になってまぶたに焼き付けたと言います。
日本軍の5倍以上の戦力で上陸したアメリカ軍は2,3日で日本軍を完全に
制圧すると考えていましたが、日本軍のゲリラ作戦により、実際には76日間の
戦いとなりました。
そして日米双方に多数の死傷者が出ました。
戦後、島に帰還したパラオの島民たちが見た光景は衝撃的なものでした。
焼き尽くされたジャングル、形も残らぬまでに破壊された街々、そして累々と
積み重ねられた遺体の数々、、、。
この戦いにより日本軍の戦死者は1万人以上でした。
しかし、島民民間人の死傷者、負傷者は0名でした。
日本軍の兵士たちは「自分たちの命に代えても島民たちの命を守る」と言う約束を
果たしたのでした。
「あなたがたとともにいる寄留者は、あなたがたにとって、自分たちの国で生まれた
一人のようにしなければならない。
あなたはその人を自分自身のように愛さなければならない。
あなたがたも、かつてエジプトの地では寄留の民だったからである。
わたしはあなたがたの神、【主】である。」(レビ記19:34)
「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように
人にしなさい。
これが律法と預言者です。」(マタイ7:12)
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