聖書は高齢者をどう考えるのか?
最近、日本では高齢者は不要であると主張する人々がいます。
その根拠は身体的能力、知的な能力の衰え等を考えているからでしょう。
そして高齢者がいなければ、自分たちはもっと良い暮らしが出来ると
考えるのです!
しかし、このような考え方は聖書の考え方とは正反対であり、
神のみこころと衝突するものではないでしょうか?
ところで、高句麗の時代(紀元前1世紀頃 - 668年)に朴政匠と言う人がいました。
当時、高麗葬と言って、老人を山に捨てる習慣がありました。
朴政匠にも老婆がいたのですが、死を前にしても息子を思う母の愛に感動して、
彼は母を連れ帰り、隠して養いました。
その頃、唐の使臣たちが2頭の馬を連れて、高句麗の朝廷に来ました。
その使臣が言うには、「この馬は大きさも顔つきもまったく同じだ。
親馬と子馬とを区別して見なさい。」と言う問題を出しました。
朴政匠がこの問題で悩んでいるのを見て、老婆が言いました。
「そんな事、年寄りはみな知っているよ。
そんな時には馬を1日飢えさせて、その後、馬草を食べさせなさい。
先に食べるのが子馬で、子馬に食べさせた後から食べるのが親馬だから。」
そこで朴政匠が唐の使臣の前でそうすると、果たしてその通りになりました。
使臣は朴政匠の知恵にしきりに感心し、感服して帰っていきました。
このことを朴政匠は王に話しました。
そしてこの時から、この国では高麗葬は廃止され、老人を大切にするように
なったのです。
父母と子どもたちとの間にはお互いに不満が多くあります。
しかし、それは愛によって解決できるのです!
「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を
恐れなければならない。
わたしは【主】である。」(レビ19:32)
「自分の父や母をののしる者、そのともしびは、闇が近づくと
消える。」(箴言20:20)
「ですから、私たちは落胆しません。
たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たに
されています。」(第二コリント4:16)
「ヤコブの家よ、わたしに聞け。
イスラエルの家のすべての残りの者よ。
胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。
4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
わたしは運ぶ。背負って救い出す。」(イザヤ46:3~4)
このように主の民に対して、主はみことばによって「わたしは背負って救い出す」
と約束しておられるのです!
(参考/趙 鏞基「日ごとの糧(下)」)
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