祝福の道はどこにあるか?
ある人が、新聞を読みました。
そこには素晴らしい“とうもろこしの種”に関した記事が載っていました。
それで、その人は急いで駆けつけて行って、改良された”素晴らしい
とうもろこしの種”を買い求めてきて、自分の畑に熱心に蒔きました。
すると、その年の秋、そのとうもろこしが大豊作をもたらし、お隣の家の
それよりも倍の収穫がありました。
お隣の農夫さんが来て、頭を下げながら頼みました。
「その、とうもろこしの種を少し分けてくださいませんか...。」
すると、「いゃ-、それはできません。」と、その人は冷ややかに断りました。
その人は心の中で、自分自身に囁きました。
“僕だけ収穫が良かったら、それで良いんだ。
他人まで良くなるようにして上げる必要がどこにある...。”
ところが翌年、その人は大いに期待しつつ同じ種類の“とうもろこしの種”を
一生懸命、蒔きましたが、思ったように収穫できませんでした。
「これは、ちょっとおかしい...。なぜだろう?」
そのまた翌年の3年目には、お隣の畑よりも不作でした。
その人は農協の技術者を招いて、原因が何なのか、調べてみました。
すると、調べてみた結果は、こうでした。
風向によって、お隣の家の畑の“とうもろこしの花粉”がその人の畑の
とうもろこし畑に飛んできて、受精し、その結果“とうもろこしの品種”が
前年より落ち、それで収穫の成績が悪くなってしまったということでした。
もし、お隣の人の願いを聞き入れて、良い種を分けてあげたなら、花粉が互いに
交配して、立派なとうもろこしを生産し、収穫も向上していた筈だったのです。
皆さん、ルカ6:38にはこう命じられています。
「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。
人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、
ふところに入れてくれるでしょう。
あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」。
愛の実践をすると、自分にその愛と祝福がUターンしてくるのです。
隣人のために祈ってあげたら、その祈りの結果が自分の方にも返って来るのです。
愛というものは、自分が得よう、得ようと自己中心に生きると、
それは失ってしまうものなのです。
愛というものは与えるものであり、それがその人を幸せにするのです。
ですから、律法の書もこう命じています^^
「あなたがたとともにいる寄留者は、あなたがたにとって、自分たちの国で
生まれた一人のようにしなければならない。
あなたはその人を自分自身のように愛さなければならない。
あなたがたも、かつてエジプトの地では寄留の民だったからである。
わたしはあなたがたの神、【主】である。」(レビ19:34)
「あなたの手に善を行う力があるとき、受けるべき者にそれを控えてはならない。
28 あなたに物があるとき、隣人に向かって、
『帰って、また来なさい。明日あげよう』と言うな。」(箴言3:27~28)
「善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。
そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。」(へブル13:16)
これこそ祝福の道なのです!
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