礼拝メッセージ 「神様のご計画」 イザヤ55:8~11、ローマ8:28

 

1,計り知れない神のご計画

 

 ハレルヤ!皆さん!聖書の中で伝道メッセージに使われるストーリーはどこでしょうか?多分一番よく用いられるのが放蕩息子のストーリーではないでしょうか?皆さんもこのストーリーはご存じでしょう。ある人に2人の息子がいました。そのうちの弟の方がまだ元気な父親に財産の分け前を要求します。普通、どうでしょうか?「そうか、よく言ったな。喜んであげよう」と言うでしょうか?言いませんよね。普通は「おまえ、私がもう死ぬとでも思っているのか!」と言って、𠮟るのではないでしょうか。お父さんが病気で命が危ないというのなら、ある程度分かります。しかし、まだ元気で働いているのに、お父さんの財産の分け前を要求することは普通ないことです。

 

 それだけではありません。この弟の目的は立派な事業を行うためだったでしょうか?そうではありませんでした。聖書はそんなことは書いていません。この弟は遠い国に行って、何をしたのですか?放蕩三昧したのでした。遊女と遊び、お父さんの大切な財産を湯水のように全部使い切ってしまったのです。そこで食べるために、豚の世話をするようになり、みじめな生活をして、初めて、家に帰る決心をしたのです。彼は豚の世話をしていたので、衣服は豚のにおいで一杯です。靴も履いていません。こんなどうしようもない息子を父親はどう扱ったのでしょう?

 

 父親は息子が旅立った後、毎日、家の戸口で息子が去った方向を見続けていました。そして、放蕩してみじめな格好で家に戻ってくる息子の姿を見ました。ほかの人にはわからないほどまだ遠い距離でした。けれども、父親には分かりました。「あっ、息子だ!」。そう思うや否や、父親は走って息子を迎えに行くのです。そして、彼をかわいそうに思い、彼の首を抱き、何度も何度も口づけし、最大のもてなしをし、祝宴まで開いてくださいました。

 

 私はこのストーリーに対して、人間の常識ではありえないと感じます。この弟の兄のように、お父さんの戒めを一度も破らず、お父さんに仕え続けた兄のことばこそ正しいのではないでしょうか?彼は父親が弟をこんなにまで大切にする姿に怒ったのです。皆さんはどう思うでしょうか?お兄さんと同じ意見の方はおられませんか?この放蕩息子にここまでもてなすなんてありえないと思いませんか?しかし、これが神の御心なのです!

 

 私はお父さんの態度に疑問を持っています。第一に、なぜ弟息子が未熟であることが分かっていたのに、莫大な財産を渡してしまったのか?第二に、父親は弟息子の目的が放蕩することであると知っていたはずです。それなのに、なぜ莫大な財産を渡したのか?ということです。皆さんはどう思われますか?

 

 皆さんはこの放蕩息子のストーリーを考える時、これと似た話があることをご存じでしょうか?それは創世記2章と3章のストーリーです。創世記2:17で神様はアダムに次のように言われました。「しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」。しかし、この善悪知識の木は園の中央に植えられていたのです。つまり、一番目立つところにありました。このことに対して、ある高校生は「神様は人間に罠をかけた。神様はひどい奴だ」と言いました。皆さんはそれに対してどう考えますか?

 

 この善悪知識の木に関して、なるべく簡潔に話したいと思います。まず人間はどういう存在でしょうか?イエス様は申命記を引用されこう言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4:4)。有名な言葉です。つまり、神様は善悪知識の木を見る時、すぐに2:17のみことばを思い出せるように、園の中央に置いたのです。みことばは人間が霊的に生きるために絶対に必要なことでした。もし園の見えない場所に置かれていたなら、人間はもっと早く堕落してしまったことでしょう。

 

 けれども、ある高校生が言ったように、神様はアダムが堕落することを最初から知っていたのではないでしょうか?これを考える上で、2つのみことばを通して考えてみましょう。エペソ1:4~5「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。5 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」。神様は天地万物の創造される前から、この方=キリストにあって私たちを選ばれました。そしてイエス様によって、神の子にしようと定められていたのです。ハレルヤ!

 

 もう1つは黙示録13:8「地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。」。つまり、逆説的に言うならば、私たちクリスチャンは「世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されて」いた、ということなのです。つまり、私たちが罪を犯したから、イエス様がこの地上に派遣されることが決まったのではなく、天地万物が造られる前からイエス様の十字架は聖定されていたのです。

 

 主は私たちの弱さを十分に承知しておられるお方なのです。罪を犯す前のアダムは主とのよい交わりを持っていました。彼には罪がありませんでした。しかし、アダムは自分がどうしようもない罪人で、キリストなしには決して生きられないという深い真理を知りませんでした。また、自分がキリストの花嫁であるということも知りませんでした。しかし、今、私たちはあの放蕩息子さえもありのまま受け入れてくださった深い主の愛を知らなければならないのです。天地創造の前から、私たちの弱さをご存じで、主はご自身に徹底的にすがる者を求めておられるのです。

 

 イザヤ55:8~9をお読みいたします。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──【主】のことば──9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

 

2,主は最善だけをなされる

 

 今までは天地万物の創造される前の神の聖定に関する内容でした。つまり、非常に大きな枠組みの話をいたしました。今度はもう少し、私たちに近づけて考えたいと思います。ローマ8:28を皆さんで読みましょう。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」。ハレルヤ!

 

 あの中国宣教師であったハドソン・テーラーはこの個所をこう訳しました。「神は最前だけをなされる」。つまり、すべては大きな神の御手の中にあり、私たちの人生にマイナスはないということなのです。言い換えると、マイナスに見えることは全部プラスであるという意味なのです。しかし、私たちは自分が願っていた通りの人生になることこそが幸せであると考えがちです!そして、思う通りに行かないと、「なぜできないのか?」と腹を立てたり、失望落胆しがちです;^^しかし、神様は、私たちの想像をはるかに越えた、最高のご計画を持っておられるのです^^

 

 あるアメリカの青年が、神学校を卒業し、宣教師試験に合格しました。青年はとても喜び、すぐに服と靴を準備しようと市内へ出かけたところ、自動車事故に遭ってしまったのです。いのちが助かるために、片方の足を切断するしかない状況でした。義足をつけるようになった彼はひどく失望し、「神様。宣教師になろうとしたのに、どうしてこのような事故に遭ってしまったのですか」と叫びました。しばらくの間絶望の中にあった青年でしたが、アフリカへ行く宣教師を募集しているという知らせを聞きました。

 

 「私のような者でも受け入れてくれるだろうか」と思いましたが、とりあえず申請してみようと決心しました。何日か後に合格の知らせを受けた彼は、胸を躍らせながらアフリカへ旅立ちました。ところが、その地域はよりによって、人食い人種たちが住んでいる村だったのです。人食い人種は、宣教師を見て、良い獲物が来たと近づいてきました。すると、彼は、自分のゴムの義足を引きぬいて、人食い人種たちに投げつけたのです。それを見た彼らは、びっくり仰天して、「神が降りて来た」と宣教師の前にみなひざまずいたのです。おかげで宣教師は、原住民たちに容易に福音を伝えることができるようになりました。

 

 恨みの対象であった義足は、後にはいのちを救う感謝の道具となったのでした。神様は私たちにご計画を持っておられるのです。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」(第一コリント2:9) 

 

 今まで、「これが無かったらよかったのに、これが問題だ」と思ってきたことはなかったでしょうか?今、みことばの前にひざまずき、心を新たにしませんか?お祈りしましょう。

 

 

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