「神にならう生き方」            

   創世記1:1、26~28

 

1、人間とは本来、神=イエス様の似姿

 ハレルヤ!皆さん!教会が運営する保育園、幼稚園では、幼い子どもたちに、暗唱聖句をよくさせます。その中の1つ。詩篇8:4を幼い子どもが覚え、お父さん、お母さんの前で披露しました。「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」。皆さん!、まったく聖書を読んだこともないお父さん、お母さんが3歳、4歳の子どもの口から「人とは何ものなのでしょう。」ということばを聞いたなら、どれほどびっくりすることでしょうか?実際、そのご両親は教会に来られるようになったそうです^^。ところで、皆さん!「人とは何ものなのでしょう^^?」。皆さんはどのようにお答えになりますか?

 

 この創世記1章の中に答えがあります。26節にはこう記されています。「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。』」。皆さん!人間は猿から進化したのではないのです。確かに、猿は動物の中でも4つ足で歩きません。少し前のめりですけれど、2本足です。そして手で器用に物を掴んだり、口に持っていって、食べることが出来ます。ですから、1859年、ダーウィンは「種の起源」という進化論を発表しました。今から164年しか経っていないのです。聖書は天地創造の6日目の終わりに、神様が「人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」と言われました。皆さん! 人間とは何でしょうか?“神様のかたち、神様の似姿”なのです。ハレルヤ!神様はどんなお方ですか?聖書は「神は愛なり」と言っています。また神は義なる正しいお方であり、聖なるお方、きよいお方です。偽りのないお方、真実なお方です。詩篇103:8でダビデはこのように表現しました。「【主】はあわれみ深く情け深い。怒るのに遅く恵み豊かである。」。

 

 これで神様のイメージが少しできてきましたね。けれども、ヨハネ14章を見ると、ピリポがイエス様に「父なる神様を見せてください」と願います。その時、イエス様は何といわれたでしょうか?「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。」(14:9)。ハレルヤ!皆さん!神様とはどんなお方でしょうか?この地上に来てくださったイエス様と同じお方なのです。イエス様がどのようなお方であるかが分かると、父なる神様が分かるのです^^ハレルヤ!

 

 つまり、私が申しあげたいことが理解できたでしょうか?人間は土から造られました。ですから、聖書は人間を「土の器」と言っています。その意味は土からできているのですから、本当にもろく、弱い存在であるということです。けれども、神の似姿に造られたのです。この神の似姿に造られたという意味が分かりづらいですけれど、イエス様は神の現れであるとイエス様が仰ったことを通して、人間とは何であるかが分かります。人間とは土から造られたという弱さを持っていますが、イエス様のような品性を持つ存在として造られた、ということなのです。

 

 けれども、人間は神様の子ども、神様の似姿であったのに、悪魔の誘惑に従ってしまいました。その結果、人間の中には悪魔の性質、つまり、怒り、憎しみ、敵対心、汚れた思い、ねたみ、不品行、悪が入り込んでしまいました。神の似姿として、神の栄光を現すべき存在が堕落し、悪魔のしもべとなってしまったのです。ですから、完全に悪魔のしもべとなってしまった悪人たちを聖書はこう言っています。「まことに、彼らは悪を行わなければ眠れず、人をつまずかせなければ、その眠りが奪われる。」(箴言4:16)

 

 ですから、私たちはイエス様と中途半端な関係であってなりません。もともと悪魔のしもべとだったのですから、この悪魔の性質を完全に取り去っていただき、本来の神の似姿、言い換えると、イエス様にならう者とならなければならないのです。そのためには、イエス様にならう生き方を心がけなければならないのです。

 

2,イエス様にならう生き方

1)自分の弱さを自覚して生きる!

 ピリピ2:6~8「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」イエス様の生き方は自分を捨ててしもべとなられたと記されています。イエス様の弱さとは人の弱さを背負われた弱さでした。けれども、私たちは中々人の弱さを背負えないかも知れません。けれども、自分の弱さを十分自覚することが出来るのではないでしょうか?

 

 ダビデはあの有名な詩篇23篇を記しています。その冒頭はこうです。「【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。3 主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。」。素晴らしいですね。ここにはダビデが祝福された理由が記されています。神様からスタートしています。自分ではありません。「【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」とは自分がどのようなものか、そして主はどのようなお方であるかをまざまざと現わしています。

 

 イザヤ53:5を見ると、人間は“さ迷える羊”であると記されています。なぜ勉強するのか分からないという子どもたちがいます。そればかりか、なぜ生きるのか、生きる目的は何であるのか分からないという方々もいます。まさにさまよえる羊です。けれども、聖書は神様が羊飼いなんだと教えているのです。羊の特徴、皆さん、ご存じですか?羊は武器を何も持っていないのです。狼やライオンや熊に襲われたら、すぐにやられてしまいます。ですから、羊飼いが必要なのです。また、毛がどんどん伸びてしまいます。毛を刈ってもらわないと大変なことになります。オーストラリアの森で、何十年振りで発見された羊はほとんど目の前が毛で覆われてしまい、ほとんど見ることが出来ない状態であったそうです。また、自分の毛で躓いて転んでしまうと大変です。足をばたつかせているうちに、お腹にガスが溜まって死んでしまうそうです。本当に厄介な動物ですね。けれども、この羊こそ私たちだと、ダビデは私たちに教えているのです。

 

「自分は羊のように弱い存在であるから、羊飼いであるイエス様が私を助け、導いてくださいます」という絶対的信頼であり、信仰告白です。皆さん!この羊である人間の弱さを一言で言うと何でしょうか?それは自己中心であるということです。世界は私のため^^とは思っていないはずなのですが、自分中心の世界で毎日動き回っていることが多々あります。もちろん、子どものため、家族のため、でもあるでしょう。けれども、自己中心であり、神中心と中々ならないのです;^^

 

 第一ペテロ1:2には「イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ」と記されています。私たちはイエス様の血なしには生きられない存在なのです。ですから、具体的にはどうすることでしょうか?「礼拝」の原語とはプロスクネオだと申し上げました。この意味は主の御前にひざまずき、ひれ伏し、主の御足に口づけするという意味でした。ですから、イエス様の十字架で打たれた打ち傷のある御足に口づけすることです。礼拝の生活とはまさにここから1日をスタートするということなのです。神様を賛美し、主に愛の信仰告白をしてスタートするのです。ハレルヤ!

 

2)主の御声を聞いて生きる!

 イエス様にならう生き方とは何でしょうか?創世記1:1「はじめに神が天と地を創造された。」「初めに自分があります!」ではないのです;^^。テレビを付けたり、インターネットニュースを見たりするのではなく、神様から始めるのです。神様から始めるとは何でしょうか?マルコ1:35をご覧ください。「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。」。イエス様にならう生き方とはまず、「神の国と神の義とを求める」生き方なのです(マタイ6:33。

 

 皆さん!朝起きて、顔を洗わず、鏡も見ず、一日をスタートしますか?その一日はあまり恵まれないでしょうね;^^。私たちは顔を洗い、鏡を見て、それからスタートしますね。この鏡が聖書です。みことばとは神様の目なのです(へブル4:12~13)。この神様の目で、私たちの心の中をチェックしていただき、軌道修正していただくのです。「幸いな人」5月号の中に、こんな証がありました。ある兄弟は学生時代、高校の先生になろうと準備していました。しかし、大学4年生の時に、みことばをいただいたのです。それがマタイ25:40でした。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」それで高校の先生になることをやめて、学校に行けない不登校の児童のためにフリースクールを始めるビジョンが与えられたのです。

 

 そして、彼は27歳の時、同じ志を持つ親友と2人でフリースクールを始めました。経済的には厳しい状態でしたが、生徒も与えられ、充実した毎日を送っていました。けれども、5年後に試練にぶつかりました。それは彼の親友と意見が食い違うようになってしまったのです。しばらくの葛藤を経て、彼はフリースクールを離れましたが、ずっと人間不信になったっまでした。それでいろいろな所に転職を重ねましたが、ある時、「『自立援助ホーム』で、働きませんか?」とのお誘いがありました。その時もまた同じみことばをイエス様から示されたのでした。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」。

 

 彼は「もう2度と人のために働くことはしない」と決め、そのような働きをしないと決断していたのですが、そんな彼にイエス様は再び、同じみことばで語り掛けてくださったのです。そして彼は今、「自立援助ホーム」の中心的なリーダーになっているのです。このように、私たちは主の御言葉を一番にして生きていくように、神様によって造られているのです。ハレルヤ!神にならう生き方とはみことばを一番にし、それに従っていく生き方なのです。

 

 今日のみことばをまとめます。「神にならう生き方」とは何でしょうか?➀人間とは神=イエス様の似姿であるということです。ですから、このことを自覚し、自分がイエス様からどのような点で異なっているのかを主に探っていただくことです。②私たちの生き方は「神にならう生き方」です。それはまず1)自分の弱さを自覚して生きる!ということ。羊である自覚をするということです。そして2)主の御声を聞いて生きる!ということです。今日は聖餐式です!お祈りしましょう!

 

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