宣教師ディーン・リーパー(1)―洞爺丸の手品師―

 
1954年(昭和29年)9月26日、鹿児島に上陸した台風15号は、

 

時速100キロという高速で、日本海から北海道西岸を1日で

 

駆け抜けていった。

 このまれに見る台風で、青函連絡船洞爺丸(4337トン)は

 

函館港で沈没。

 

 乗員乗客合わせて1155人の犠牲者を出す大惨事となった。


 これはあのタイタニック号(1912年、死者1513人)に次ぐ、史上

 

2番目の海難事故である。

洞爺丸
 この時アメリカ人宣教師ディーン・リーパーが洞爺丸に

 

乗り合わせていた。


 ディーンは恐怖におびえる乗客に、自慢の手品を披露、船室の空気を

 

和らげることにつとめた。 

 

 そしていよいよ沈没が避けられなくなった時、女性や子どもたちに

 

救命具を着せてやり、最後まで励ましのことばをかけながら

 

死んでいった。

手品師
 

 ディーンは1920年、アメリカのイリノイ州に生まれた。


 父親は農場経営者、キリスト教信仰を持つ敬虔な両親のもとで育った。


 ディーンは父の後を継ぐべき、イリノイ州立大学農学部に入学。

 

 また、大学内のYMCAに入会。

 

 そこでアジアから帰国した宣教師に感銘を受けたディーンは、家業を継ぐ

 

より、アジアに宣教師として遣わされることが神の導きなのでは――と

 

心が変わっていく。

 そのようなディーンを父親は激励した。

 

 ディーンは卒業後、海外宣教学生献身運動のリーダー、ワシントン州立

 

大学国際会館の責任者と、確実に宣教師への道に近づいていく。

 ところが、太平洋戦争が長期化し、ディーンにも海外から召集が来た。

 

 しかし、「武器は持ちたくない」との彼の希望が受け入れられ、戦場には

 

行かず、敵国日本を研究する一員としての任務が下った。


 これがディーンと日本を結び合わせたきっかけとなった。

 

 また、この日本研究の任務を通して、マージョリ・カービンスと出会い、

 

将来を誓い合った。

ディーン・リーパー家族
 
1945年、日本が降伏すると、アメリカは占領国として日本の復興に

 

力を注いだ。

 

 アメリカYMCAは、日本YMCAの指導者に28歳のディーンを推薦。


 ディーンは喜んで承諾する。

 

 妻マージョリ、長男スティーブンと日本へ出発した。

 東京に着いたディーンは、大半が焼土、食料をはじめあらゆる物資も

 

極度に欠乏し、いまだに防空壕に住む人々を目の当たりにし、

 

強い衝撃を受ける。

焼土東京
 

 ディーンはYMCAの再建に力を尽くす一方、自ら日本人に

 

なりきろうと努力した。

 

 そこで鉄道はいつも3等車に乗ることを決める(欧米人は

 

2等以上が常識であった)。


 また、できるだけ銭湯に顔を出し、日本人と背中を

 

流し合った(まさに裸の付き合い)。

 

 ディーンはプロ級の手品師でもあった。

 

 多くの人々を楽しませ、たちまち人気者になってしまう。

 4年の任期を終え、ディーンは家族とともに休暇のため一時

 

アメリカに帰ることになった。



人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は

 

だれも持っていません」(ヨハネ15:13)(明日に続く)

 

 

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