「イエス・キリストの福音」           

    マルコ1:1~8

序)

 ハレルヤ!皆さん!マルコとはどんな人物でしょうか?マルコは宣教旅行の最初の地で、真っ先に逃げてしまった意気地のない人物でした。しかし、後には「もうこんな奴はだめだ!」と言っていた使徒パウロから、「彼は役に立つ人物だ」と評価されました。また、誰よりも早く福音書を世に著すことができたのです。なぜでしょうか?落ちこぼれだったマルコが大きく変えられたからでした。ハレルヤ!ですから、福音とは「失敗者のための福音」なのです。福音は失敗者、罪人、病人に対しての驚くべきグッド・ニュースであるのです。

 

 今日はそのマルコが書いた福音書に入りたいと思います。聖書を読んだことのない方に、私たちは「新約聖書から、福音書から読んでみてください」とお薦めします。けれども、マタイの福音書は最初から系図がずら~と続いていて、これは「まいったなあ。嫌になっちゃうなあ」と思ってしまいます。けれども、福音書の中でも、このマルコは最も分量が短いです。本当にコンパクトにまとまっていて、一番読みやすい書物だと思います。ですから、これから、マルコの福音書を、順を追いつつ、学んでいきたいと思います。それで、今日のテーマは何かというと、1:1の「イエス・キリストの福音」です。ですから、今日はイエスキリストの福音とはいったいどのような意味であるのかをご一緒に探りたいと思うのです。

 

1、 イエス・キリストは神の子、メサイアである!

 皆さん!マルコの福音書は1章から16章までありますが、この中でマルコが一番訴えたかったこと、結論は何でしょうか?それは最初に記されていることが多いのです。創世記の主題は1:1「初めに神が天と地を創造された」です。つまり、創世記の主題は神様による天と地の創造です。では、伝道者の書の主題は何でしょうか?1:2には「空の空、伝道者は言う。空の空。すべては空。」と記されています。つまり、ソロモンというイスラエルにおいて最高に繁栄した時代の王様、何でも自分の欲しいものは手に入れ、シバの女王が遠くから謁見に来たほど名声を世界にとどろかせた王様の、この地上人生の結論がこの伝道者の書の最初の部分に書かれているのです。それは「この地上ですべての欲しいものを得たけれど、その結論は空の空。空の空だ。この地上には本当の意味で良いもの、祝福と言えるものは何もない。みなむなしく過ぎ去ってしまうものばかりだ」と言っているのです。

 

 つまり、聖書66巻の1つの書物の結論と言える主題が一番先頭に出て来ることが多いのです。では、このマルコの福音書の結論は何でしょうか?1:1を皆さんでお読みしましょう。「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」とあります。つまり、その意味は福音とは何か?というならば、福音とはイエス・キリストこそ神の子、メサイアである、ということなのです。マルコは最初から、このように結論付けているのです。

 

 それは他の方法でもわかるでしょうか?はい、分かります。マルコはノンクリスチャンのローマの百人隊長にそれを告白させているのです。では、15:37~39を読みましょう。「しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。『この方は本当に神の子であった』」。つまり、マルコは最初と最後を通して、イエス・キリストは神の子なのだと訴えかけているのです。

 

 では、神の子とは一体どういう意味でしょうか?1:11を見ると、「すると、天から声がした。『あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。』」と書いてあります。まさに、天のお父様がイエス様のことを直々に「わたしの愛する子」とおっしゃっています。ですから、イエス様はまさに天地万物を創造された全能なる神様のひとり子であるのです。では、このように、天の父なる神様のひとり子であるとは、いったいどのような意味があるのでしょうか?

 

 14:61~65を開いてください。「しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。『あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。』そこでイエスは言われた。『わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。』すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。『これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。』すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、『言い当ててみろ』などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。」。

 

 イエス様はゲッセマネの園という場所で、夜中に弟子たちと共にお祈りされていました。すると、イエス様をねたむ宗教家たちに遣わされた者たちがイエス様を捕らえ、宗教家たちの集まる会議、サンヘドリン会議に引き出され、そして尋問されました。そのときに、こう問われたのです!「あなたは、ほむべき方の子=神の子、キリストですか。」。つまり、神の子=キリストということなのです。キリストという意味はヘブライ語ではメシア、英語ではメサイア、人類の罪に対する救い主という意味なのです。大祭司による尋問は「あなたは神の子であるのか?」という意味は「あなたはメサイア、つまり、人類が待ち続けているあの救い主であるのか?」という意味でした。

 

 その時、イエス様は「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」と仰いました。これは一体どういう意味でしょうか?これは旧約聖書のダニエル書にある預言のことです。つまり、イエス様は「預言者によって預言されているキリスト=メサイア=世の救い主はわたしのことだ」とはっきりと仰ったのです。ですから、これを普通の人間が言うならば、神様を冒涜しているということになり、そこにいた議員たち、宗教家たちが顔を真っ赤にして怒りだし、イエス様に唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴りつけ、平手打ちにしたのでした。そして、最後はイエス様を十字架にかけて殺したのです。

 

 ですから、マルコ1:1にある最初のことば。「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」ということばは、マルコの命がけのことばなのです。つまり、宗教家たちにとっては、神聖冒とく罪として、死刑に値する大罪なの意味があるからです。また、イスラエルの国は当時、ローマ帝国の支配下にあり、ローマ皇帝は自分のことを「神の子」と宣言していたのですから、「イエス様が神の子である」とはローマ帝国にも反旗を翻すということなのです。つまり、「イエス様が神の子である」と宣言することは、この2つの世の勢力に対するマルコの恐るべき挑戦、命がけの宣言なのです。

 

2、 罪の赦しと聖め

 2~3節預言者イザヤの書にこのように書かれている。『見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。荒野で叫ぶ者の声がする【主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ】』」。ここでは旧約聖書イザヤ書が引用されています。つまり、イエス様がこの地上に来られることは、イエス様が来られる700年前から預言されていたということです。皆さん!聖書の預言がどのくらい驚くべきものでしょうか?イエス様が来られる1500年前に書かれた創世記から旧約聖書全体を通して、イエス様がこの地上に来られることが約350回も預言されているのです。このように神様は人類に歴史を通して、メサイア=人類を救う救い主キリストが来られることを予告され、人々にキリストを迎える心備えをされてきたのです。

 

 けれども、ただ予告だけでは本当の準備にはなりません。まず、ここで「わたし」とは父なる神様です。そして「あなた」とは神のひとり子のイエス様のことです。そして「わたしの使い」と言われているのが、バプテスマのヨハネ=洗礼ヨハネと言われている人なのです。つまり、天のお父様はただイエス様だけを準備されたのではなく、洗礼ヨハネ、バプテスマのヨハネをイエス様が来られる先駆けとして準備されたのでした。皆さん!神様のご計画がどれほど壮大であるのか、少しお分かりいただけたでしょうか?この「荒野で叫ぶ者の声」と預言されている人物こそがバプテスマのヨハネでした。彼はエルサレムから30キロほど離れたヨルダン川の荒野で、一体何を叫んだのでしょうか?それは罪に対する警告でした。「今、まさにメサイア=救い主キリストがお出でになる。しかし、あなた方はこのままでは永遠に滅びる。悔い改めよ。」と荒野で叫んでいたのです。そして、ユダヤ全域100キロ、200キロ、300キロ離れた場所から、人々はこのヨハネが叫んでいる荒野に出てきたのです。

 

 ヨハネはなぜ荒野で叫んでいたのでしょうか?なぜ都会の便利な街ではないのですか?その理由は、荒野には偶像がないからです!実はイスラエルの民は神を捨てて偶像礼拝に走り、その結果、最終的にはBC586年にバビロンによって滅ぼされ、彼らはバビロンに捕囚として連れて行かれ、エルサレムの都は火の海として廃墟となってしまったのでした。荒野、それは全く偶像のないところ、偶像に頼ることのできない場所です。では偶像と何でしょうか?それは、単に仏像を拝み、神棚を拝むということだけではありません。偶像とは神様よりも大切にするもの、そのすべてが偶像です。それは多くの場合、人間関係かもしれません。自分の健康かもしれません。お金かもしれません。プライドかもしれません。ご主人や奥さん、子どもかもしれません。けれども、どんなものでも過ぎ去ってしまいます。どんなものでも永遠の土台になることはできません。ただ、神様だけが私たちの土台となるお方なのです。そこで、ヨハネは荒野で叫んでいたのです。そして、自分自身の罪、つまり、神様を第一として来なかった者たちが続々とヨハネのいる荒野にやって来たのでした。その数はどのくらいでしょうか?4節を見ると、「ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民みな」であると書かれています。みな自分自身は罪人であることを認め、罪を告白して、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けているのです。

 

 私は、かつて罪という意味が分からなくて、自分は罪とは無関係だというように考えていました。しかし、そんな私のために教会の兄姉が祈ってくださっていました。ある時、職場からアパートのようなところに戻り、部屋の電気をつけた瞬間、子どもの頃のことから小学生の頃、学生代から現代に至るまでの自分の姿が走馬灯のように、次々と現れてきたのです。まだ幼稚園の頃だったでしょうか?名店会館という建物の地下に食品コーナーがあって、私はそこでチョコレートか飴の小さな包み2つか3つをわしづかみにして、自分のポケットに入れたこと、こんなことはその時から20年以上忘れていたことでした。そして、母親に食事の文句を言ったこと、弟をさんざんいじめたこと、それでいて小学校では何事もないような顔をして、平静を装っていたこと、中学校のときは勉強ばかりする友だちをいじめたこと、その他、高校時代はキセルをして不正乗車をうまくやったこと。数々の全く忘れていた事柄が次々と示されて、私はことばではいいことを言っているけれど、内側は劣等感や嫉妬心や高慢やプライド、その他、心が薄汚れていて、神様の前に絶対出れないものであることを示され、私は部屋の片隅で、涙を流しながら、また鼻水をすすりつつ、「私はこうこうこういう者です。」と主の御前に、1つ1つの罪の赦しを乞いました。その時間は1時間くらいであったと思います。自分が思い浮かぶ罪といえるものを全部告白した後、いまだかつて体験したことのない喜びが私を満たしたのです。それは今まで覆われていた黒い雲が取り去られて、まぶしい太陽に照らされたようでもあり、山から急に清い流れが押し寄せてきたような気持でした。道を歩けば、たんぽぽやすみれに感動し、街路樹に感動し、空を仰ぐと、イエス様がにっこり微笑んでいる姿が見えました。私は嬉しくて、嬉しくて仕方がありませんでした。それで、いろいろ失敗挫折もありましたが、あの時、イエス様に出会い、信仰をいただき、「本当によかったなあ」と思っているのです。そして、ほとんど笑ったことのなく、いかめしい顔をしていた私が今、笑ってばかりいるのです。これはただ主の憐みでしかありません。本当に感謝以外の何物でもないのです。

 

 では、「罪」のということばの深い意味は何でしょうか?その一番大きなことは、神様は人間をご自身の子として造ってくださったにもかかわらず、私たちが親である神様、造り主に対して、「あなたのことは全く知らないです」と親を親と思わないこと。親なんかいなくても、自分の力で生きていけると過信していることです。2000年前にイエス様が来られたことを初臨と言います。そして今、イエス様はもう一度来られようとされています。これを再臨と言います。今、まさに終末です。皆さんの準備はいかがでしょうか?主の御前に出られるでしょうか?罪の告白は済んでいるでしょうか?

 

3、 聖霊のバプテスマのプレゼント

 イエス・キリストの福音とは何であるのか?それは、イエス様こそ旧約聖書で昔から預言されてきた人類の救い主、メサイアであるということです。しかし、頭だけで理解し、それで終わってはいけないですね^^。この福音、グッド・ニュースを受け取るには、私たちが主の御前に自分の罪を告白し、悔い改めること、そして悔い改めのしるしとして水のバプテスマを受けることでした。しかし、イエス・キリストの福音はそれだけではありません。8節を見ると、「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、このお方=イエス様は聖霊によってバプテスマをお授けになります」と約束されているからです。

 

 では、聖霊のバプテスマとは一体何でしょうか?そのことを考える前に、バプテスマということばの意味をご説明いたします。バプテスマとは浸すこと、という意味です。つまり洗礼の原型はなんであるかというと、ヨルダン川でなされ、全身が水面下に沈み、完全に水に浸されることを意味します。つまり、バプテスマとは古い自分は水面下に沈んで死んでしまったという意味であり、また、水面下に沈んで死んだ古い自分が水面下から上がることを通して、死からよみがえることを意味します。つまり一言でいうならば、バプテスマとは古い自分がイエス様とともに十字架で死に、新しい自分としてイエス様とともに復活したということを意味しているのです。

 

 ですから、聖霊のバプテスマとは神の霊である聖霊様に完全に浸されること、支配されることの最初の経験を意味するのです。ですから、水のバプテスマだけの方はまだまだ力が足りないのです。なぜなら、聖霊が臨まれると力を受けます、と約束されているからです。実は、私もこの聖霊様に支配される、聖霊様に浸される体験をする前は力がなったのですが、この聖霊のバプテスマを受けて、さらに大きく変えられたのです。この聖霊のバプテスマを受けると、聖霊様の持っておられる賜物が臨まれます。

 

  私は、信徒となって3年くらいたって聖霊のバプテスマを受けました。すると、力が違うのです。聖書を読むとすぐに理解できるようになりました。そして牧師先生が他の教会に行かれ、不在のとき、他に信仰歴の10年以上の方々のおられる中で、水曜日の祈祷会のメッセージを信徒となって3、4年の私が頼まれたのでした。これは私にとってあり得ない大きな体験でした。そして、聖霊のバプテスマを受けてから、聖書を読むのが楽しくなり、お祈りが楽しくなったのです。そして、人前で話すのが大の苦手な私が外の方々に向けて、大胆に話すようにもなりました。聖霊のバプテスマとは、私にとって本当に素晴らしいもので、劇的な体験だったのです。なぜならば、自我から全く解放されるからです。そして、この聖霊のバプテスマは求めるものに与えられるのです!

 

 イエス・キリストの福音とは何でしょうか?それは1、 イエス・キリストは神の子、メサイアである!ということです。2、 罪の告白による罪の赦しと聖め!ということです。そして3、 聖霊のバプテスマのプレゼントということです。まだ聖霊のバプテスマを受けていない方々はぜひ祈り求めましょう!

 

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