イエス様とともに力強く生きるには?

 ところで、私たちの信仰のスタート地点はどこでしょうか?

十字架

 イエス様が、私たちの罪のために十字架で苦しみ、命を捨てて

くださったことをそのまま受け入れることにあります。


 しかし、ガラテヤ2:20でパウロは次のように言っています。


私はキリストとともに十字架につけられました。

 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに

生きておられるのです
」。

私は死んだ

 つまり、十字架を見上げると、イエス様だけではなく、自分自身も

イエス様と共に十字架につけられているのです!


 ですから、私たちの人生の中で、イエス様の十字架を心の中に

受け入れるだけでなく、自分自身の人生を十字架につけることが

できるように、主に祈らなければならないのです
(ガラテヤ5:24)。


 なぜなら、Ⅱコリント4:10には次のように記されているからです。

「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスの

いのちが私たちの身において明らかに示されるためです」

十字架と復活

 つまり、イエス様の十字架に私たちの人生を釘打てば、イエス様の

よみがえりが私たちに臨む
ということです。

 “イエス様の死”は“私の死”!

 “イエス様のよみがえり“は“私のよみがえり“であるからです。

 ですから、イエス様の死、十字架の死を私が担うということは、

イエス様の死を自分自身の死として受け入れる
ということです。

天国の川

 すると、イエス様のいのちも私たちにに流れてくるのです。

 よい行いは信仰の成長によって付いて来るので、心配ありません。

 大切なことは、イエス様のよみがえりのいのちを自分自身で

体験することです。

 ですから、イエス様の死は私の死”。

“イエス様のよみがえり”は“私のよみがえり”と認めることなのです。

 イエス様の死を私たちが負わなければならないのです!

 遠ざけてはならないのです。

 Ⅱコリント4:11に「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に

渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体に

おいて明らかに示されるためなのです
」とある通りです。

 イエス様を信じるゆえに、私たちがこの世で受ける様々な苦しみと

死が臨めば、イエスのよみがえりのいのちも必ず付いて来る


ということです。

ルカ22:43

 イエス様の死が臨むところには、イエス様のいのちも付いて来る

からです。

 ですから、私たちクリスチャンが、キリストの信仰ゆえに受ける様々な

試練と患難と苦痛と死の苦しみが臨めば、それから守ってくださる

イエス様のいのちも必ず付いて来るのです。


「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に

対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい

 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。

 むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ

また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。」(ローマ6:11~14)


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