イエス様とともに力強く生きるには?
ところで、私たちの信仰のスタート地点はどこでしょうか?
![十字架](https://stat.ameba.jp/user_images/20150730/18/praise-the-lord/c1/cc/j/t02200146_0276018313381009985.jpg?caw=800)
イエス様が、私たちの罪のために十字架で苦しみ、命を捨てて
くださったことをそのまま受け入れることにあります。
しかし、ガラテヤ2:20でパウロは次のように言っています。
「私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに
生きておられるのです」。
![私は死んだ](https://stat.ameba.jp/user_images/20150730/18/praise-the-lord/f2/55/j/t02200151_0271018613381009988.jpg?caw=800)
つまり、十字架を見上げると、イエス様だけではなく、自分自身も
イエス様と共に十字架につけられているのです!
ですから、私たちの人生の中で、イエス様の十字架を心の中に
受け入れるだけでなく、自分自身の人生を十字架につけることが
できるように、主に祈らなければならないのです(ガラテヤ5:24)。
なぜなら、Ⅱコリント4:10には次のように記されているからです。
「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスの
いのちが私たちの身において明らかに示されるためです」
![十字架と復活](https://stat.ameba.jp/user_images/20150730/18/praise-the-lord/20/ad/j/t02200165_0259019413381009987.jpg?caw=800)
つまり、イエス様の十字架に私たちの人生を釘打てば、イエス様の
よみがえりが私たちに臨むということです。
“イエス様の死”は“私の死”!
“イエス様のよみがえり“は“私のよみがえり“であるからです。
ですから、イエス様の死、十字架の死を私が担うということは、
イエス様の死を自分自身の死として受け入れるということです。
![天国の川](https://stat.ameba.jp/user_images/20150730/18/praise-the-lord/84/83/j/t02200165_0259019413381009989.jpg?caw=800)
すると、イエス様のいのちも私たちにに流れてくるのです。
よい行いは信仰の成長によって付いて来るので、心配ありません。
大切なことは、イエス様のよみがえりのいのちを自分自身で
体験することです。
ですから、イエス様の死は私の死”。
“イエス様のよみがえり”は“私のよみがえり”と認めることなのです。
イエス様の死を私たちが負わなければならないのです!
遠ざけてはならないのです。
Ⅱコリント4:11に「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に
渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体に
おいて明らかに示されるためなのです」とある通りです。
イエス様を信じるゆえに、私たちがこの世で受ける様々な苦しみと
死が臨めば、イエスのよみがえりのいのちも必ず付いて来る
ということです。
![ルカ22:43](https://stat.ameba.jp/user_images/20150730/18/praise-the-lord/41/40/j/t01840274_0184027413381009986.jpg?caw=800)
イエス様の死が臨むところには、イエス様のいのちも付いて来る
からです。
ですから、私たちクリスチャンが、キリストの信仰ゆえに受ける様々な
試練と患難と苦痛と死の苦しみが臨めば、それから守ってくださる
イエス様のいのちも必ず付いて来るのです。
「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に
対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。
また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。
むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、
また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。」(ローマ6:11~14)
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イエス様が、私たちの罪のために十字架で苦しみ、命を捨てて
くださったことをそのまま受け入れることにあります。
しかし、ガラテヤ2:20でパウロは次のように言っています。
「私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに
生きておられるのです」。
![私は死んだ](https://stat.ameba.jp/user_images/20150730/18/praise-the-lord/f2/55/j/t02200151_0271018613381009988.jpg?caw=800)
つまり、十字架を見上げると、イエス様だけではなく、自分自身も
イエス様と共に十字架につけられているのです!
ですから、私たちの人生の中で、イエス様の十字架を心の中に
受け入れるだけでなく、自分自身の人生を十字架につけることが
できるように、主に祈らなければならないのです(ガラテヤ5:24)。
なぜなら、Ⅱコリント4:10には次のように記されているからです。
「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスの
いのちが私たちの身において明らかに示されるためです」
![十字架と復活](https://stat.ameba.jp/user_images/20150730/18/praise-the-lord/20/ad/j/t02200165_0259019413381009987.jpg?caw=800)
つまり、イエス様の十字架に私たちの人生を釘打てば、イエス様の
よみがえりが私たちに臨むということです。
“イエス様の死”は“私の死”!
“イエス様のよみがえり“は“私のよみがえり“であるからです。
ですから、イエス様の死、十字架の死を私が担うということは、
イエス様の死を自分自身の死として受け入れるということです。
![天国の川](https://stat.ameba.jp/user_images/20150730/18/praise-the-lord/84/83/j/t02200165_0259019413381009989.jpg?caw=800)
すると、イエス様のいのちも私たちにに流れてくるのです。
よい行いは信仰の成長によって付いて来るので、心配ありません。
大切なことは、イエス様のよみがえりのいのちを自分自身で
体験することです。
ですから、イエス様の死は私の死”。
“イエス様のよみがえり”は“私のよみがえり”と認めることなのです。
イエス様の死を私たちが負わなければならないのです!
遠ざけてはならないのです。
Ⅱコリント4:11に「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に
渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体に
おいて明らかに示されるためなのです」とある通りです。
イエス様を信じるゆえに、私たちがこの世で受ける様々な苦しみと
死が臨めば、イエスのよみがえりのいのちも必ず付いて来る
ということです。
![ルカ22:43](https://stat.ameba.jp/user_images/20150730/18/praise-the-lord/41/40/j/t01840274_0184027413381009986.jpg?caw=800)
イエス様の死が臨むところには、イエス様のいのちも付いて来る
からです。
ですから、私たちクリスチャンが、キリストの信仰ゆえに受ける様々な
試練と患難と苦痛と死の苦しみが臨めば、それから守ってくださる
イエス様のいのちも必ず付いて来るのです。
「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に
対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。
また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。
むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、
また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。」(ローマ6:11~14)
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