どうして聖書が神のことばであると言えるのか(3)?

 聖書は神様の啓示の書物であり、神様の権威を持った神のことばです。

 今日は実験的証拠から示します。

(3)実験的証拠

 聖書が神の救いについての啓示の書であり、神の権威ある書で

あるという証拠は、聖書の中に記されていることを、自分自身に

適用してみることによって分かります。

 様々な宗教は「よい行い」をすれば救われる、と言います。

 しかし、いくら「良い行い」をしても、厳しい修行をしても、

人間の本質は変わりません。

 なぜなら、仏教等は一種の哲学に過ぎないからです!

卵焼き

 別の言い方をすれば、次のようなことです。

 10個の卵を割って、卵焼きを作ったとしても、たった

1つ腐った卵があると、全部が台無しになるように、罪が

1つあるだけで身体全体が汚れてしまうからです。

 しかし、人が聖書のことばに触れていくと、罪を示され、

聖められていくのです。

わたし(キリスト)があなたがたに話したことばは、

霊であり、またいのち
」だからです(ヨハネ6:63)

 ここで一例として挙げるのは、明治時代に強盗、殺人、

性的罪を犯した放火犯で、監獄からの脱走を繰り返した

好地由太郎(こうちよしたろう)という人物です。

 好地由太郎は、1865年房総半島の金田で、貧しい家庭に

生まれました。

火事

 17才の時に日本橋のある商店に奉公に出されましたが、

奉公先で性的罪を犯し、それを隠すために女主人を殺害、

金を奪い、証拠を消すために放火し、死刑を宣告されます。

 しかし、未成年のために無期懲役刑になり、北海道は

空知の監獄(北海道旭川)に入れられます。

 しかも獄中でさえも、彼は脱走を繰り返し、その度に

逮捕され、少しも反省の色もないために看守からひどく

忌み嫌われていました。

 ところが、ある日のこと、見知らぬ牧師が刑務所を訪問し、

彼に一冊の聖書が差し入れられます。

聖書

 これは好地由太郎の義母からの差し入れでした。

 しかし教育を受けていない彼には一言もその内容を

知ることはできません。

 もっともたとえ字が読めたとしても、その時の彼には聖書など

読むような考えはなかったでしょう。

 ある日のことです。好地由太郎は不思議な夢をみました。

 天使のような輝いた顔の少年が現われて「この本を

食べなさい。

 これは永遠の生命を与える神の道です。」と彼に告げた

というのです。

 それはきっと義母から差し入れのあった本(聖書)のことだ

と気づいた好地由太郎は、看守長から片仮名と平仮名を学び、

聖書を一生懸命に読み始めました。

 聖書を読むにつれ、彼は自分が全く人生に値しないような

生き方をしてきたことを痛感するようになり、変わっていきました。

 酒もたばこもやめ、人がいやがる便所掃除を率先してやるように

なり、病気の囚人には心をこめて介護し、自分の魂を救った福音を

他の囚人たちにも伝えました。

好地由太郎

 イエス様の御言葉に触れ、彼は新しい人生を歩み始めたのです。

 一転して模範囚となった好地由太郎は、明治天皇の特別な恩赦に

より釈放されました。

 また天皇の特別な計らいにより戸籍から犯罪歴が抹消された

とも言います。

 23年の監獄生活でした。

 監獄を出た好地由太郎は、もはや以前の彼ではありませんでした。

 彼はキリストの愛と赦しを知って、真に生まれ変わって

いたのです。

 彼の行動には、そのことが隅々にまであふれていました。

 やがて彼の存在は、その周囲に大きな影響を

与えていきました。

 ある時彼は、一家六人が心中しようとするところに駆けつけ、

神の測り知れない知恵と力と愛によって彼らを救出しました。

 また、その後、彼らの親類までも導かれて、キリストを

信じるようになりました。

 ある時は、娼婦のために楼主(ろうしゅ)(娼婦の館の主人)と

かけあい、やくざに囲まれた中で、ついにその娼婦を無傷で

救出しました。

祈り

 また、彼が重病人のために祈ると、その人が奇跡的に

いやされるということもありました。

 またある時は、監獄に伝道に行くと、刑務所長が感激し、

涙を流して紹介の言葉を述べてくれました。

 彼の話に聞き入った囚人の多くが悔い改め、中には当日脱走を

企てていた者がいて、自首して出たのです。

 好地は、キリストを信じることは「自分に死ぬこと」であること、

そして「キリストの命に生きることである」こと
を、よく知っていました。

 彼という一人の人間は、じつにあの獄中の大回心のときに、

死んだのです。

 そしてキリストにあって、「新しい人」に生まれ変わった

のでした。

 彼は自分の生命を、すでにキリストに全く捧げていました。

 もはや彼の命は、彼のものではなく、キリストの御手に

ありました。

好地由太郎1

 彼はホーリネス教団伝道者として、多くの重罪人を救いに導き、

神学校(東洋宣教会の柏木聖書学院)の教師となり、全国の監獄を

巡回する伝道者となった
のです。

 聖書は一体どのようなものなのでしょうか?

 聖書こそは強盗、殺人、性的罪を犯した放火犯をも、新しく再創造し、

伝道者、牧師を養成する神学校の教師へと変えるほど力ある書物なのです!


神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、

たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心の

いろいろな考えやはかりごとを判別することができます
」(ヘブル4:12)


天の御国は、からし種のようなものです。

 それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、

生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、

その枝に巣を作るほどの木になります。
」(マタイ13:31~32)


『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』

ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。

 私はその罪人のかしら(最大の罪人)です。
」(第一テモテ1:15)


 このブログをお読みくださり、ありがとうございます。もし、よろしかったら一日一回クリックしていただけると励まされます^^

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村