犠牲の力

 1853年、ペリー総督の率いる4隻の黒船が来航することにより、

1600年から続いた江戸幕藩体制は急速に衰退していきます。

 1867年の大政奉還後、旧幕軍は1868年の鳥羽伏見の戦いで

破れた後も、幕臣たちはこれを不満とし、上野戦争、会津戦争等

激しく抵抗したものの、いずれも敗北しました。

榎本

 しかし、榎本武揚は幕府が保有していた軍艦を率い、各地で

敗残した幕府側の勢力を集め、函館の五稜郭に立てこもり、

最後まで新政府に抵抗したのです。

 しかし、戦費の枯渇、相次ぐ自軍兵士の逃亡、新政府軍工作員による

破壊工作等により、1869年5月、榎本はついに降伏します。

 そこで、この榎本武揚にどのような処分を下すべきか、

薩長の首脳たちが集まり会談が行われました。

黒田

 官軍司令官の黒田清隆は榎本の才覚を惜しみ、「降伏した者は

許してやればよい」と主張し、同郷の西郷隆盛もこれを支持します。

 ところが長州の木戸孝允は首を縦に振りませんでした。

 そして、こう言い張りました。

「賊の巨魁を罰せずしては、秩序が立たぬ。王政維新のはじめにあって、

刑罰は厳しく、正しく行われなければならない。それに、榎本ごとき

危険人物を野に放っては、いつ、何を企むか・・・」

 黒田は榎本助命を強く要求し続け、厳罰を求める者と長い間

対立し続けます。

 しかし、説得に行き詰った黒田は、西郷の下に再び相談に行きます。

 西郷曰く「お前が死なずに、 人を動かすことが出来るか!」と。

黒田1

 その言葉に背中を押された黒田は榎本のために丸坊主になり、

必死に厳罰派の説得に当たり、ついに榎本の命は救われたのです!


 彼は明治政府においては明治18年(1885年)の内閣制度の成立後、

能力を買われ6つの内閣で逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を

歴任します。

 また明治23年(1890年)には子爵に叙される栄誉にも与るのです。

 本来、処刑されてしかるべき者がいのちを生かしてもらえたばかりか、

国の重要人物となり、子爵とせられたのです。


創造主

 イエス・キリストは天地万物を創造されたまことの神です。

 それにもかかわらず、世を愛し、罪を愛し、神様に抵抗し続ける

私たちのために、ののしられ、唾を吐きかけられ、

ひどく殴られたので、人間の姿には見えないほどになられました。

 イエス・キリストは39の鞭を打たれた後、手足に釘を打ち込まれ、

十字架刑について、私たちの身代わりに罪の刑罰を受けてくださいました!



その(キリストの)顔だちは、そこなわれて人のようではなく、

その姿も人の子らとは違っていた
」(イザヤ52:14)

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。

それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

(第二コリント5:21)

 罪人として永遠に滅びるべき私たちのいのちを救うために、

これほどまでに犠牲を払ってくださった方がおられるでしょうか?



神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、

私たちがこの方にあって神の義となるためです。

(第二コリント5:20~21)

 ここに犠牲の力が100%現わされているのです!

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