いすゞの車が走ってた頃 | PRAINSのブログ

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今ではトラックメーカーとして日本でも有数の、いすゞ自動車

嘗て昭和の時代には数々の個性的な乗用車を世に送り出していた

なぜ、当時のいすゞ車のデザインはあんなにもステキだったのか?

 

トラックやバスなどの製造が主流だったいすゞにとって

乗用車部門というのはあくまでも傍流でした

しかし傍流だったからこそデザインに拘る事が出来たそだそう

個性をもって良しとする少品種精鋭生産ができるメーカーだったのだ

 

販売チャネルは他社のように複数持てなかったものの

もともと格式があり老舗メーカーとして誇り高いいすゞが目指したのは

トヨタや日産とは違った良さだったのだと思います

 

 

1961年(昭和36年) 乗用車「ベレル」発表

 

イギリスのルーツ・グループとの技術提携で国産化したいすゞ・ヒルマンミンクスの

提携期限切れを前に、いすゞ初の自社開発乗用車として開発された

 

いや~ さすがに僕も生まれる前のベレルの事はよく知らない

トヨペット・クラウンやニッサン・セドリック、プリンス・グロリアをライバルとして

タクシー業界への販売を有利にする6人乗りになったそう

 

しかし、設計、生産、品質、デザイン、販売の各方面で根深い欠点・問題を抱えており

早くから不人気モデルに陥って、1世代で生産を終えた

 

 

1963年(昭和38年) 乗用車「ベレット」発表

 

技術者主導で設計製作が行われ当時としては数々の新機軸を盛り込んだ

1960年代の日本車を代表する車種の1つ

 

外観は卵の殻をモチーフにスタイリングされた

丸みの強いコンパクトなものとなっている

 

1 tを切る軽い車体重量を生かしてモータースポーツでも活躍し

スカイライン台頭以前はサーキットを席巻した

 

ベレットも、ヒルマンの経験とオースチンヒーレーなどのスポーツマインドを

盛り込んだ、まさに英国車をお手本とした車だった

 

 

1967年(昭和42年) 乗用車「フロ-リアン」発表

 

フローリアンは既存モデルの大衆車であるベレットの

やや上級の中型車として企画されたファミリーカー

 

実質的な前身車種にあたるベレル程ではなかったものの

営業力の弱さと個性的なデザインがユーザー受けしなかった

 

更に開発費の不足からモデルチェンジの機会を逸し

根本的な改良のないまま15年間の長期にわたって生産されたことから

商業的には不成功なモデルであった

 

 

1968年(昭和43年) 乗用車「117ク-ペ」発表

 

流麗なデザインを備えた4座クーペで1970年代の

日本車を代表する傑作の一つに数えられる

 

1968年に発売されて以来、長期にわたり生産され

長くいすゞのフラグシップを務めた

 

コンセプト、デザイン、パッケージ、スタイリングはカロッツェリア・ギアに委託され

当時のチーフデザイナーであったジョルジェット・ジウジアーロが担当した

初期型は少量限定生産車であったことからと通称される

 

 

1974年(昭和49年) GM社との共同開発乗用車「ジェミニ」発表

 

1974年の初代「PF型」は、提携先のGMのグローバルカー構想に基づき

オペル・カデットをベースに開発された

 

ジェミニは、117クーペではなくベレットの方の系譜に連なる車

つまりファミリーセダンベースのコンパクトスポーツ

 

ただしベレットは英国車を規範としたのに対し、ジェミニはGMのオペル カデットを

ベースに開発された車ですから、非常にドイツ車的です

 

 

1981年(昭和56年) 乗用車「ピアッツァ」発表

 

1981年に絶版となった乗用車117クーペの後継モデル

117クーペの後継モデルを計画したいすゞ自動車はイタリアの

デザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロにそのデザインを再び依頼した

 

ジウジアーロは1980年代のボディラインとしてデザインカー

「アッソ・デ・フィオーリ」をジュネーヴショーに出展

 

そのデザインカーの寸法を拡大、細部にリファインを加えて

商品化されたクーペがピアッツァであった

 

結果として万人受けはしませんでしたが、量産車としては

当時のジウジアーロ流近未来デザインの究極形

内外装のすべてにわたる拘りは、いすゞならではの徹底レベルです

 

こんな個性的な車たちが普通に走ってた昭和の時代

いい時代でした! ジャンジャン!!