![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190724/17/prains/f0/c5/j/o0800060014511508273.jpg?caw=800)
それは1本の電話から始まった
今年11月初旬に「同輩からの贈り物」というタイトルの記事を書いた
僕が昔書いた「祖父からの手紙」というタイトルの祖父の軍事履歴の記事を読んで
コメントを頂き「ポツダム少尉 ~68年ぶりのご挨拶~ 呉の奇蹟」という自費出版の本を
贈って下さった茨木県在住のMさんからの電話だった
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190724/17/prains/9e/13/j/o0800060014511508278.jpg?caw=800)
12月の4日、5日の両日に「ポツダム少尉」の本の中で紹介している戦時中に
広工廠に従事していた徳島在住の春藤さんという方が四国放送の
テレビクルーと一緒にテレビ番組の制作で呉を訪れるから協力してもらえないかと
どういう流れになるかはわからないが僕と母に会って話をして欲しいという事だったので
僕は出来る範囲の事なら喜んで協力しますと返事をした
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190724/17/prains/87/91/j/o0657058214511508284.jpg?caw=800)
で、先日の12月4日の朝に四国放送の方から電話をいただいた
現在徳島から呉に向かっているのだが時間を作って頂けないかと言われ
夕方の5時以降だったら大丈夫ですがと返事をした
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190724/17/prains/cf/2c/j/o0800060014511508288.jpg?caw=800)
その夜6時に取材は始まった
四国放送のクルーが3人と春藤さんがウチの実家の方に来られた
僕は取材だったら気の利いたカフェでどうですかと提案したのだが
テレビ的に生活感がある家にお邪魔したいという事だった
それぞれが自己紹介を済ませ話は本題に入っていく
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190724/17/prains/b1/37/j/o0800060014511508294.jpg?caw=800)
取材は戦中戦後の母の思い出の記憶や当時の祖父の事から始まった
祖父の軍事履歴書を見ながら母は古い記憶を呼び戻す
しかし母は11歳で戦後を迎えてるし、呉空襲が盛んに行われた戦争終盤には
田舎に疎開していたから実際に空襲は体験していない
疎開先の寺の空を飛ぶB29の編隊が呉の方行に向かってると
手を合わせ家族の無事を祈っていたそうだ
そして終戦を迎え久しぶりに長浜に帰った母は荒廃した景色を見て愕然とし
違う場所に帰って来たんじゃないかと思ったそうだ
ウチの実家は広工廠の真ん前だ、空襲も相当酷かったんだろうと思う
町は焼け野原になっていたが親兄弟は幸いにも全員無事だった
これぞ正しく、リアル「この世界の片隅に」なのだ
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190724/17/prains/bc/e6/j/o0800064614511508297.jpg?caw=800)
僕への質疑応答は祖父との思い出から始まった
祖父は幼かった僕たち孫に戦争の事を一度も話してくれた事がなかった
子供の頃はそんな事も何とも思わなかった僕だが大人になり
戦争の事や呉の歴史を知る度に僕はその事を疑問に思うようになっていた
しかし辛かった事を思い出したくなかったのだろうと安易に思っていたが
「ポツダム少尉」の筆者Mさんがその答えを出してくれた
何と祖父は人間魚雷「回天」の製造に関わっていたらしいのだ
出撃したら二度と生きて生還できない特攻兵器「回天」
その事実を知り僕は全てを悟った
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190724/17/prains/d9/ec/j/o0800075714511508298.jpg?caw=800)
14歳で海軍に入隊し呉空襲を体験された春藤さんは
祖父の気持ちが痛い程わかるとおっしゃった
春藤さんは戦争体験の語り部として全国で公演活動もされてるそうだが
戦争という過去の事実を伝えなければならないという使命がある反面
全国には戦争の事を思い出したくない、語りたくないっていう方も大勢いるとおっしゃった
写真2枚目に春藤さんの戦争体験が記されているが
春藤さんはそれらの事もご自身の口から語って下さった
戦争を知らない世代の僕は春藤さんの言葉の意味や内容を頭では理解できるが
春藤さんの体験談は、まるで映画の中の世界のように思えてしまう
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190724/17/prains/61/85/j/o0796080014511508302.jpg?caw=800)
昭和20年5月5日、ウチの前の広工廠があった黄幡山で空襲に見舞われた春藤さんは
居合わせた大人たちの計らいで何とか防空壕に逃げ込んだ
若い者が先に入れと言われたそうだ
しかし防空壕に入れなかったその大人たちは
目の前で空襲に遭い死んでしまったそうだ
ある日長浜湾で伝馬船を漕ぎ倉庫に材料を取りに行ってる時に
遠くの空に黒い物体が現れたそうだ
その物体はあっという間に近づいて来たそうで物体の正体は敵戦闘機グラマンだった
伝馬船を発見したグラマンは機銃掃射を行った、水面に水しぶきが上がる
運良く弾が当たらなく九死に一生を得たそうだがグラマンを操縦してた
パイロットの米兵の笑っている笑顔が今でも脳裏に焼き付いてるそうだ
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190724/17/prains/62/25/j/o0800060014511508308.jpg?caw=800)
僕たちへの質疑応答や昔話が番組にどれだけ役立ったかはわからない
番組は昨日の12月8日の開戦日に合わせ四国地方で放送されたそうだ
生憎呉では放送がないそうだがDVDに焼いて送ってくれるとテレビ局の人が言っていた
春藤さんは昭和6年の生まれだとおっしゃってた
ウチの母は春藤さんより3歳年下の昭和9年生まれだ
もちろん当時は面識はないのだが、あの時代の戦争を同じ呉で体験した者として
お互いに通じるものが確かにあったように見えた
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190724/17/prains/03/0b/j/o0800055414511508309.jpg?caw=800)
「お互い元気に長生きしましょう・・・」
二人は固い握手をして取材は終わった
戦争を知らず今を生きる僕たちは平和を唱えるのなら
過去の過ちや失敗を知らなければ話にならない
もし今祖父が生きていたら聞きたい事が本当に山ほどある
しかし今回こうしたお話が聞けたのも春藤さんのおかげでもあるし
取材を推挙してくれたMさんとの出会いがあったからこそだと思う
その元を辿れば祖父の軍事履歴書を申請したからだしSNSに公開したからだ
今の時代、どこに、どんな縁があるかはわからない
人の縁を大事にしなければと思いましたね ジャンジャン!!
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20190724/17/prains/23/5b/p/o0357033614511508315.png?caw=800)