続・年賀切手シリーズ 1981年 酉年 | PRAINSのブログ

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1981年(昭和56年)酉年  にわとり
 
 
さて、毎週火曜日のお約束「続・年賀切手シリーズ」ですが
今回は1986年(昭和56年)酉年を振り返ってみたいと思います
 
私事ではございますが1980年2月に高校を退学になった僕は1年と2ヶ月の社会勉強(笑)を経て
1981年4月に広島県立呉職業訓練高等学校美容科に入学し学生という身分に復帰しました
 
規則に縛られた高校を辞めれば晴れて自由の身になれ、更には働く事でお金も稼げると
甘~い考えをしていた僕は厳しい社会の現実を目の当たりにし再び学生に戻ったのです
 
1981年の同級生は高校3年生の年でしたが学歴もないハンパな10代のガキが高校を中退して
社会に出て働くとなれば汗水垂らして汚れて肉体労働するしかなかったんです
 
暴走族の延長として片足を突っ込みかけた裏の世界はとてもじゃないけど自分には無理だと思った
その世界から身を引くには学生に戻る事が最善の方法だとの考えに至った僕は
ひょんな事から出会った美容師という仕事に就くための学校に行くという事を理由に組織から逃げた
 
美容学校というのは思い付きであり本気で美容師になろうと思った訳ではなかったのだが・・・
 
そんな経緯で美容学校に入学した1981年はどんな年だったのか?
 
と、いう事でここからは1981年にヒット?(笑)した多岐川裕美さんの
「酸っぱい経験」を聴きながらご覧ください!
 
 
 
 
酸っぱい経験/多岐川裕美 1981
 
 
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1981年の世界の話題を独占したのはおそらく英王室チャールズ皇太子と
ダイアナさんの世紀の結婚だろう
 
民間から嫁がれたダイアナ妃はとにかく美しかった
この頃日本でもダイアナ妃のヘアースタイルを真似たダイアナカットが流行しましたからね~
 
この時チャールズ皇太子と結婚したダイアナ妃は誰もが幸せになると信じていた
 
ところが結婚以前からの付き合いのあったチャールズ皇太子の不倫相手である
カミラは目前から消えることはなかった
 
ダイアナ妃は1982年にウィリアム王子、1984年にヘンリー王子を出産するが
この1984年の時点ではもうチャールズとの仲は終わっていたんだそうだ
 
その後別居生活を経て1996年にチャールズと正式に離婚
そして翌年1997年にパリで事故死するのだが今でもその事故の真相は謎だとする説もある
 
う~ん 僕には事故の真相はよくわかりませんが
ダイアナさんが伝説の人になったのは間違いないでしょうな~
 
 
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1979年(昭和54年)にオープンしたブティック「竹の子」に端を発した奇抜な衣装を身に纏い
原宿のホコ天で流行のディスコミュージックに合せて踊る「竹の子族」は社会現象になった
 
しかし当時の流行の移り変わりは超早く竹の子族は1981年には下火になり
代ってホコ天に登場したのが革ジャンにリーゼント、ポニーテールにサーキュラースカートを履いた
「ローラー族」「ロックンロール族」と言われた若者たちだった
 
彼らはアメリカンオールディーズナンバーやロカビリー音楽に合せツイストやジルバを踊った
時代は第2次ロカビリーブームになりフィフティーズファッションも大流行した
 
 
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 そのブームの火付け役になったのが原宿を変えた男と言われる伝説の「山崎眞行」氏が手掛けた
「クリームソーダ」とフィフティーズファッションブランドの老舗の一つ「ペパーミント」だろう
 
 
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クリームソーダは全国的に大人気になり修学旅行で東京に行った全国の不良たちは
挙ってクリームソーダや系列店のガレージパラダイスに足を運びドクロマークの商品を買い漁った
 
ドクロマークの長財布、リーゼントコーム、キーをぶら下げるホルダーは三種の神器だった
 
 
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クリームソーダ人気に拍車をかけたのがクリームソーダ系列のお店のスタッフで結成された
ロカビリーバンドの「ブラックキャッツ」だった
 
デビューアルバム「クリームソーダ・プレゼンツ」、セカンドアルバム「ビビアン」
特に個人的には思い出深い
 
 
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僕は高校1年の途中で学校を退学になってるから高校の修学旅行には行ってないのだが(笑)
ウチの大明神様は高校の修学旅行で東京に行ってクリームソーダに訪れ
ブラックキャッツの今は亡きボーカルの「高田誠一」氏と記念写真まで撮っている
 
僕はと言えば当時はネットなんてなかったからカタログ請求をして通販で服や小物を買っていた
 
この年の秋に職業訓練校の修学旅行と称してカツジやGANちゃんと訪れた
京都にあったクリームソーダには行ったんですけどね
 
当時中国地方には山口県にクリームソーダがありましたね
 
 
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方やコブラのマークが印象的なペパーミントはロカビリースタイルファッションのニュアンスが高かった
クリームソーダに対しフィフティーズのニュアンスが高いファッションブランドだった
 
1981年当時、広島の三川町にペパーミントがオープンしたとあって
美容学校生だった僕は先輩のヒサシ君に連れられ足蹴よく通った
 
 
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そんなペパーミントに衣装協力されていたのが1981年に「キッスは目にして」
大ヒットしたロックンロールバンド「ザ・ヴィーナス」だった
 
「キッスは目にして」が収録されている「ラブ・ポーションNO1」というアルバムは今でもたまに聴くが
収録されている「恋のHIGH WAY RABBIT」を聴くと今でも切なくなる 笑!
 
 
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僕達は広島のペパーミントに出入りしていた事もあり年が明けた1982年2月に
山口県岩国市で行われたザ・ヴィーナスのコンサートに広島ペパーミントのチラシを持って足を運んだ
 
↑のコニーさんが持っているチケットの半券はその時のコンサートチケットの半券だ
 
コニーさんとは縁あって何度かお会いし話もしたし昨年秋に僕達呉オールドモータースクラブが主催した
COOLSのライブパーティーにスペシャルゲストで往年のヒット曲も歌って頂いた
 
 
と、まあ当時の若者にとって1981年はこんな年だったという事ですね!
 
 
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1981年は全国的に不良中高生がピークに達した年でもあり全国の中高生の
「校内暴力」が全国的に社会問題になった年でもありました
 
後に尾崎豊が歌った「卒業」の歌詞にも出て来るような
校舎の窓ガラスを割って回るって事がリアルに起こり始めた年だった
 
校内暴力は高校生より中学生に多く見られた傾向で中でも暴力は
生徒間の対立より教師に向けられる事が多かった
その後校内暴力は必然的に家庭内暴力へと繋がっていく
 
この時代の世相は数年後には「不良少女とよばれて」「積み木崩し」などでドラマ化もされた
 
不登校や校内暴力、家庭内暴力、素行不良の子供達を更生させるための施設
「戸塚ヨットスクール」の存在が注目され始めたのもこの頃だった
 
1983年には訓練中に生徒が死亡したり行方不明になったりした
所謂「戸塚ヨットスクール事件」が話題になる
 
いつの世も「ヤンチャ」をする類の人種はいるが僕が思うに当時は
ヤンチャをする事が流行りになったような気がしますね
 
しかし当時はヤンチャは高校生までというのが普通だったように思いますが
現代においては成人式を迎える二十歳になっても馬鹿な事をやる輩が目に付く
そんな輩に選挙権を与えるってのもいかがな物なんだろう・・・? 笑!
 
しかしそれより現代において問題なのは悪質・陰湿な「いじめ問題」でしょうな~
当時はヤンチャをする類の人種はひと目見てそれとわかるような恰好や言動をしていたが
昨今は「こいつが・・・」って言うような所謂フツ~に見える輩が事件を起こす、根深い問題ですな~・・・
 
 
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さて、1980年代に入り校内暴力や暴走族、ローラー族と若者ヤンチャ系の社会問題は
深刻化されますが世の中の時代性は来たるバブル時代に向けて大きく変わり始めていた
 
そんな時代の申し子とも言えそうな車が1981年にデビューしたトヨタ・ソアラだった
バブル時代の夜明けがすぐそこまで来てた1981年に登場したソアラは当時話題になった
 
日本の高級パーソナルカー市場ではすでに前年日産「レパード」を発売していたが
性能でレパードを上まるソアラは高級パーソナルクーペ市場でのセールスでは一人勝ちとなった
 
ソアラの成功でそれまでトヨタの最高級2ドア車だったクラウンHTは生産を終えた
 
当時18歳になった僕にはまだまだ現実味のない車でしたが
インパクトがあった車として今でもよく覚えていますね
 
 
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そんな高級パーソナルカーの登場もありましたが「トールボーイ」と呼ばれるユニークな背の高い
3ドアハッチバックのコンパクトカー「ホンダ シティ」が登場し大人気になったのも1981年だった
 
ソアラと違い低価格だったシティは若者を中心に大人気になった
 
シティにオプションで付随された原付のモトコンポも話題性に拍車をかけたし
テレビCMも時代を先取りした感じでインパクトがあった
 
シティにボルク辺りのアルミホイールを入れてピレリーP7の50扁平タイヤを入れ
クラリオンシティーコネクションのコンポを取り付けるのが最先端だった
 
昭和56年、まだまだ時代は暴走族の時代だったが確実に時代は変わりつつあった
 
暴走族が下火になりチーマーと言われた愚連隊や
シティーボーイの時代が来るにはもう少し時間が必要だった
 
 
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そんな当時のホンダは2輪においても革命をもたらした
 
1979年にライバルだったカワサキがDOHC4気筒のFXを登場させて大人気になった事を受け
FXに続けとヤマハXJスズキGSXと各メーカーは4気筒ミドルクラスマルチをリリースする
 
1972年にCB350FOUR、1974年にCB400FOURとミドルクラスマルチをリリースした
4気筒元祖のホンダは各メーカーに遅れはしたが満を持してCBX400Fをリリースする
 
1974年発売のCB400FOURは生産コストの問題もありミドルクラスなら4気筒より2気筒の方が
速く効率がよいとの理論に基づいてホンダはホークシリーズをリリースした
 
しかしユーザーや販売サイドからも4気筒車投入の声を強く求められた事もあり
ホンダは効率優先をアピールした2気筒エンジンでの市場回復は難しいと判断し
一度は廃止した400ccクラス4気筒車の開発に再び着手した
 
カワサキ・Z400FX以降のミドルクラス4気筒ブームにおいて最後発となる事から
最高出力も当時最高の48psとされたほか一部はオートバイで世界初となる各種の新機構を採用した
 
まあ1981年は僕達の同級生は18歳になるという事でバイクを降りて4輪に移行した年だったから
僕の周りの同級生でCBXを買ったって奴は僕には記憶がない
 
後輩が乗っていたCBXを借りた事はあったが嘗ての僕の愛車だったCB400FOURとは
比べ物にならないほど高性能であるという事は強く感じた
 
現在の中古市場でCBXはCB400FOURを凌ぐほどの高価格になっているようだが
個人的には世代的な事もありCBXには何の魅力も感じない 笑!
 
 
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さて、お次は1981年の日本芸能界事情だ
 
1976年にデビューを飾り社会現象になるなど大人気を誇ったピンクレディーだが
アメリカでの活動を主軸に置いた1979年秋から急速に人気の低下が顕著になった
 
アメリカのショービジネスの世界へ進出して日本のマーケットを省みなかった事が
結果として人気に悪影響を与えてしまい負の遺産を背負い込む事になった
これはフィンガー5と同じような経路を辿ったとも言えるんではなかろうか?
 
そして1980年9月ピンク・レディーは二人揃って解散を発表
そして翌年1981年3月に後楽園球場解散コンサートを行った
 
しかしそのコンサート当日は悪天候の影響もあってか空席が目立ったスタンドに象徴されるように
絶頂期の面影は殆ど無く社会現象にもなったピンクレディーにとっては寂しい幕切れだった
 
何かと比較され活動期間もどちらも約4年半だったキャンディーズの解散コンサートが
超満員だったのとは対照的な終わり方でしたね~
 
ま、この頃僕はもうピンクレディーにはまったく興味がなかったから
他人事みたいな目で見てましたがね 笑!
 
 
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1970年代に全盛を誇ったアイドルたちが消えて行ったり方向転換を
余儀なくされるようになった1980年代は松田聖子さんや中森明菜さんなどを筆頭に
第2次アイドルブームと言われる新しいアイドルが雨後の筍のように出現した時代だった
 
70年代を牽引した郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎の新御三家も御多分に漏れず
彼らに代って時代の寵児に登り詰めたのがドラマ「金八先生」への出演でブレークした
田原俊彦・近藤真彦、野村義男「たのきん」だった
 
1981年2月にはマッチのデビュー作として映画「スニーカーブルース」が封切られた
ちなみにマッチは同タイトルの曲で歌手デビューも果たした
 
僕的にはこの時代から「歌の下手な歌手でも売れる」という時代になったような気がしてならない
まあ聖子さんや明菜さんなんかは歌は上手かったですけどキョンキョンはね~・・・ 笑!
 
彼・彼女たちはルックスが良ければ歌が下手でも歌手になり芝居が下手でも俳優・女優になった
 
中でも僕はマッチが主演を務めた映画「ハイティーン・ブギ」には幻滅した
原作ではリーゼントカワサキZⅡに乗るマッチ演じた「翔」アイドルパーマCBX400に乗った
当時個人的には「翔」を演じるのは銀蝿一家紅麗威甦杉本哲太が適任だと思ったんですがね~ 笑!
 
 
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1981年は今でも語られる「漫才ブーム」が起きた年でもあった
今ではお笑い界の大御所と言われる人達が次々とブレークした時代だった
 
そんな”時の人”達が大集合して大人気になった伝説のお笑いバラエティー番組
「オレたちひょうきん族」が始まったのも1981年の事だった
 
ビートたけし、明石家さんま、島田紳助、片岡鶴太郎、山田邦子・・・
 
現代のワンパターンな事しか出来ないマンネリお笑い芸人と違って彼らには豊かな発想と業があった
もちろんそこには時代性もあったとは思う
 
確かに現代でも才能がある人もいるとは思うが未だ以てテレビ界にひょうきんメンバーが君臨してるのは
彼らには現代のお笑い芸人にはない「何か」があったような気がしてならない
 
個人的には「オレたちひょうきん族」の登場はそれまでのお笑い番組の象徴だった
「ドリフ」「欽ちゃん」時代の終焉を感じたしお茶の間が求める笑いの質をも変えたような気がする
 
そう言った意味でも1981年は時代の変革期になった年とも言えるんではなかろうか・・・
 
 
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80年代アイドルがどんどん映画に出るようになって個人的には邦画には殆ど
興味がなくなった僕だったが話題になった洋画は時々観に行ったりもしてた
 
1981年に公開された「エレファント・マン」もそんな映画の一つだった
 
エレファント・マンは19世紀末のロンドンを舞台に生まれながらの奇型ゆえ
「エレファント・マン」と呼ばれ人間扱いされなかった実在の人物ジョン・ノリックの
数奇な運命と彼をとりまく人間たちとの触れ合いが描かれた作品だった
 
僕はとうぜん↑の「スニーカーブルース」などの作品は観ていないが同じ時代の映画作品として
同列で語られるレベルの作品ではない事は皆さんもお分かりになるのではなかろうか? 笑!
 
 
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ここで改めて皆さんにお断りしておかなければならない事として
シリーズ「続・年賀切手シーリーズ」の内容に関してはどうしても僕目線での視点に基づいた
当時の世相や思い出話しになってしまうという事です
 
当時僕もそれなりに成長してるわけで興味がある事柄も年齢によって変化するのは当然です
 
1981年には当時週刊少年ジャンプに連載されていた「Drスランプ」を原作にした
「Drスランプアラレちゃん」がアニメ化され大人気になりましたが僕は殆ど興味がなかった 
 
アラレちゃん人気にあやかって世にはアラレちゃんのようなメガネをかけて「んちゃ!」って言う
奇妙な人種の女性芸能人や一般女子も現われた 笑!
 
 
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それは週刊少年サンデーに連載されアニメ化された「うる星やつら」にも同じ事が言える
 
この年に18歳で美容学校生だった僕は確かに「ジャンプ」「マガジン」「サンデー」「チャンピオン」
一通りの少年漫画は週刊、月刊、別冊と何でも読んではいました
 
が、それらは念仏のように聞こえるつまらない授業の時間を消化させるために
誰かが学校に持ってきた本を授業中に皆で回し読みしてた物だった
 
夜な夜な遊び回るんですからテレビアニメなんて物も殆ど観ていない
 
この時代に少年だった人にはこれらの作品に思入れがある人も多いと思いますが
僕は世代的にもラムちゃんより、不二子ちゃんでありキューティー・ハニーなわけです! 笑!
 
 
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さて、1981年の日本歌謡界ですが前記したようにこの時代から年間ヒットチャートも
どんどん80年代アイドルと言われた人達の活躍が目に付くようになります
 
そんな1981年で僕が思い浮かべるアーティスとは前記した「ブラックキャッツ」「ヴィーナス」
「シャネルズ」、クールスから独立した「水口晴幸」さんなどのジャンルになるんですよね
 
そんな中で歌謡曲と言えば寺尾聰さんの「ルビーの指輪」、御本人自体はあまり好きではなかったけど
松山千春さんの「長い夜」、五輪真弓さんの「恋人よ」、松田聖子さんの「チェリー・ブラッサム」
「白いパラソル」、ユーミン「守ってあげたい」辺りが思い出深い曲ですかね~
 
しかし僕的には最も当時を思い出させる歌謡曲は年間チャートには入ってはいませんが
意外にも多岐川裕美さんの「酸っぱい経験」なんですよね
僕の人生も1981年は酸っぱい経験ですしね 笑!
 
いや~ この記事を書くのにYOU TUBEを検索して久しぶりに「酸っぱい経験」を聴きましたが
多岐川裕美さんてこんなに歌が下手だったんですね~ 驚きましたよ 笑!
 
 
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と、僕にとってはこんな1981年でしたが苦肉の策で入学した
呉職業高等学校は想像以上に楽しかった 笑!
 
同じ美容科には先輩のヒサシ君がいたし、理容科にはカツジ、機械科にはマルちゃん
板金科にはGANちゃん、シンヤと同級生の気の合う仲間が大勢いた事も楽しい要因だった
 
職訓に入学した時僕はまだ17歳でありながら無免許でローレルを買って乗っていた
 
学校に乗っていって昼休みに事故を起こし2年の免許取り消し処分にもなりましたが
その事も結果論ではありますが僕のその後の美容師人生に大きくプラスに働く結果にもなった
まあ親には多大な迷惑をかけた事は大いに反省しなければならない事ですがね
 
てか、写真の人って日曜日に見た器物破損で指名手配されてる
モンタージュ写真の男に似てるような・・・ 爆!
 
 
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そして僕達はこの年、アキースボーイズクラブを結成し
それから35年の月日が流れましたが今でも僕達は深い絆で結ばれている
 
職訓の卒業式には覆面パトカーが学校に迎えに来るという職訓始まって以来の
前代未聞の事件もありながら(笑)僕達は何とか卒業して社会に巣立って行ったのです
 
と、いう事で今日はこれまで!次回は1982年(昭和57年)戌年やります
乞うご期待!ジャンジャン!!
 
 
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