シリーズ「自分のルーツを辿ってみる」、2014年3月9日の記事の続きになります
若干二十歳だった1984年(昭和59年)の秋に僕は当時勤めていたコアフュール宮西の
社員研修の一環で霧の都ロンドンのヴィダルサッスーンに美容留学しました
ロンドン入りする前に花の都パリを見学して その後ロンドンに入り
いよいよ約2週間に及ぶ学園生活がスタートしました
当時の僕と言えばミヤニシに入社して約2年と半年というキャリアで
やっと学生のお客様のカットに入らせてもらい始めたという時期でした
ですから正直言ってヴィダルサッスーンの高度なテクニックを見てもよくわからない
でもテクニックはわかりませんでしたが、その中で僕が感じた事は
「自由な発想と思い切りの良さ」
という事でしたね
その時感じた事はその後の僕の美容師としての考え方の根底になるのですが
当の本人はその時はそんな事など露ほども思ってもいませんでしたね
ヴィダルサッスーンスクールには沢山の講師がいましたね~
髪にターバン巻いてる人は先生の一人ですが名前を知らなかったので
僕達はアン・ルイスって勝手に名前付けて呼んでましたね~ 笑
手前の黒髪の人は通訳の人だったと記憶しています
僕がモデルをカットしたのを通訳を介してアドバイスくれてる所だと思います
当時の日本の美容事情は松田聖子さんと中森明菜さんが大人気と言う事もあって
来る日も来る日も「聖子ちゃんカット」と言われたハイレイヤーと
「明菜ちゃんカット」のロングレイヤーばかり切っていた
現代と違い当時は日本人女性は超保守的で前髪が1cm短くなったら泣いていた
そんな時代に終止符を打つように小泉今日子さんがベリーショートにして刈り上げ
前髪を短くするショートバングで眉を出すのはもう少し後になってからの事でしたね
そんな時代にロンドンのサッスーンではすでに女性が大胆にツーブロックで刈り上げたり
今で言う所のディスコネクションというブロックごとにまったく繋がりのない
エッジの効いたバランスのスタイルを普通にやっていた
またそれらのスタイルを平然と受け入れるお客様も凄いと感じましたね
当時僕は「いかにキレイに繋げるか」という事を一生懸命勉強していたのが
「バランスさえ取れれば繋げなくてもいいんだ・・・」
って、あくまで僕の当時のレベルですが目から鱗のような気がしました
右と左の長さが違うぞ!・・・
って店では指摘されてたけど右と左を同じにしなくてもいいんだ・・・
って事も学びました、今でいう所のアシンメトリーですよね
当時のサッスーンのデモスタイルは次回ご紹介しようと思いますが
日本の「○○しなければならない、○○してはならない」
って発想が僕的には遅れてると感じましたね
まあそれもあくまで基本の上に成り立ってる事ではあるんですが・・・
これは国の文化による所も大きかったのかもしれませんね~
それだけ当時の日本の美容界や国民の気質は欧米に後れを取っていたという事だと思います
前回も写真を載せましたが、この美人でキュートな先生に僕は淡い恋心を抱きましたね~ 笑
当時好きだったオリビア・ニュートンジョンに似てたんですよね
でもどうやら彼女は先生の中でも人気が高かったようで↑(一つ上)の写真の男性講師
左のキース(なぜか彼の名前は覚えている)と右の野口五郎(僕達はそう呼んでいた 笑)が
彼女を取り合っているような雰囲気がありましたね~ 笑
ー僕も英語が話せたら・・・-
って思いましたが東洋人の二十歳のガキなんて子供扱いだったでしょうな~ 笑
当時のヴィダルサッスーンスクールにはいろんな国の美容師が研修に来てましたね
僕の記憶では彼女達はルーマニアだったような記憶がありますね~
グレーの羊みたいな彼女がコマネチに似てたのでそう記憶してたのか・・・?
まあどちらにせよ彼女達はティーンエイジャーだったと思いますね
ちなみに真ん中の人は肌の色は黒いけどカンボジア人じゃありませんぞ!
今じゃ日本を代表するカリスマ美容師の僕が尊敬してる城戸大先輩です 笑
16歳だった香港ボーイのルイ・ワン君
短い期間でしたが僕は彼と大変仲良くなって彼も僕を兄のように接してくれた
学校が休みの時に僕を単身彼の姉や友人達で借りていたロンドン郊外の
コンドミニアム?に招待してくれてお姉さんの手料理を御馳走してくれたりもした
香港人の彼は英語が堪能で僕の拙い英語とで何とかコミニュケーションが取れていた
彼と二人きりの時僕はレスラーのような黒人とチューブ(地下鉄)の中でトラブルになりかけたんですが
彼の堪能な英語力のおかげで事無きを得た、本当に危なかった! 笑
研修が終わった日に「いつか絶対また会おう・・・」って堅い約束をしたのだが・・・
しかし帰国後に彼から家に手紙が届いたのだが返事を書けなかった
てか、その頃は公私とも忙しくて返事を書かなかった
今にして思えば本当に悪い事をしたと思うし
こうして写真を見ると現在どうしてるのかな~・・・って思いますね~・・・
日本から単身で来ていた女の子もいた、たしか千葉県だって言ってたような記憶があります
まあ彼女も一人で寂しかったんでしょうな~
言葉が通じるからみんなと仲良くなって僕達のホテルにも遊びに来るようになった
あっ、決して僕は変な事はしてませんよ! ネッ!先輩方! 爆!
彼女はヘアーではなくメイクの勉強でロンドンに来ていた京都の女の子だった
京都弁が可愛かったな~・・・
僕より2~3歳上だったと記憶してますが僕達と同じホテルに滞在してたという事もあり
仲良くなってよく部屋を行き来しましたな~ ネッ!先輩方! 爆×2!
まあ学校の方もそれなりには楽しかったけど 若干二十歳の僕は遊びたい盛りであり
初めての異国と言う事もあって夜な夜な遊び回りましたな~
危ない橋も渡りましたが ここでは披露出来ませんな~ ネッ!先輩方! 笑
そんな事ばっかりやってるから昼間の授業は眠い眠い・・・
それでも夕方に授業が終わって街に繰り出しホテルに帰ってまた夜の街に繰り出す・・・
ロンドンは時期的な事もあるのでしょうが夜8時過ぎても明るかったですからな~
授業が終わってキングスロードに行くと当時ロンドンで流行っていた
パンクの若者が大勢いましたね~
当時日本でも「ザ・モッズ」あたりのパンクロックが流行ってましたが
やはり本物のパンクはカッコ良かった!
「観光パンクス」と言われる観光客相手に写真を撮らせてお金を取る輩もいたけど
彼等だって仕事がないから それで収入を得てる本物のパンクなんですよ
彼等はお金がないからTシャツすら買えない
だから破れたTシャツを安全ピンで留めて着ていた
そこがパンクファッションの原点なんです
対して日本のパンクは言うなればコスプレの延長ですよ
日本人は表面的なファッションだけ真似てパンクだと言っていた
だからわざわざ新しいTシャツを自分で破って安全ピンで留める
で、家に帰って母の手料理を食べて豪勢に暮らしてる 笑
ロンドンでパンクと言うのは「Life」なんですよね
対して日本のパンクは「ファッション」のジャンルなんですよ
バックボーンが違うよね~
まあそれが別に悪いって事じゃないんですよ
それこそ、そこがお国柄の事情であり文化である訳ですからね
日本で本当のパンクは住所不定のホームレスの方達でしょうな~
僕はそう思いますがね~・・・
ま、何はともあれパンクと言ったらセックスピストルズでしょうな~
Anarchy in the UK 当時大好きな曲でしたね!
ロンドンは婦人警官もカッコいい!
いろいろあったロンドン研修ですが本当にいい経験をしたと思いますね!
次回は当時のヴィダルサッスーンの作品集を中心に記事を書こうと思っています
美容師の方、要必見ですぞ!
と、言う事で今日はこれまで!次回を乞うご期待!ジャンジャン!!