「真」と「正」は似たようなものでありしばしば混同されるが、本質的には異なるものである。どちらもある提言(=命題)に対する一致をあらわす言葉であるが、「真」は恒久かつ文脈に依存しない命題に対する一致を述べるものであるのに対して、「正」は一時的かつ文脈に依存する命題に対する一致を述べる。(「真」は「真理」のことで、英語にするとtruth。「正」は「正義」、「公正」のことで英語にするとrightとなる。)
「真」であるものの例としては、「2に1を加えると3になる」「ニュートン力学においては地上の落体の加速度は、抵抗を無視すればあらゆる物体において等しい」「英語と日本語は動詞の位置が異なることに加えて、修飾を行う際の語順も異なる。英語は主に内容の中心軸を先に述べるのに対し、日本語は内容の詳細から述べることになる」といったものがある。これらは話される人、時期、社会状況に応じてその真偽は変化しないものと見なされる。
注)真偽における真と、この記事での主題である「正」に対する「真」は異なることに注意。またこの後すぐ述べるように、文脈に依存する命題が真であることは「正」であると表現される。これら「真」と「正」の差異は命題そのものの文脈依存性によって区別されると考えられる。
「正」であるものの例として、「成功者たるものは優れた資質を持ち、それは例えば肉体的、精神的に頑強であり、自らの目指す目的において高い能力を発揮することができる」「人間は生まれながらにして平等である」「減量の為には運動を行うのが最もリスクが少なく、かつ確実である」などであろう。これら1番目と2番目については価値観に依存し、3番目については現状の医学的見地によって「正」であるとされる。いずれの場合も、命題的には真であり、論理学で考証することができる。
以上のように、「真」と「正」は異なる意味を持つことが分かるが、これらを厳密に区別できない場合というものもある。例えば「宇宙の初めにはビッグバンが生じた」「人間の精神は電気信号によって決定されている」といったあたりだろうか(あまり良い例では無いかも知れないが、いずれにしても哲学的考究の範疇においてよく起こりうることと思われる)。
これらの違いの混同によって、様々な問題が生じることがあると考えられる。普段の生活に関連する具体的な例を挙げて行こうと思う。
1) 学問の社会的価値についての問題から始めよう。いわゆる学問とは、「真」なるものの探求を本分としており、「正」であるかどうかに関わりなく追求されるべきものである。これらを混同することによって、例えば「学問は社会に何の貢献もしていない以上、その価値は無い」「学問は役に立たない」といった主張がまかり通ることになる。社会的価値、および役に立つかどうかは「正」であるかどうかといった論理であり、これらの主張は的はずれである。また、ある学問に価値を見いだすことも「正」における議論である。従って、ある学問の考察対象がどのように用いられるかを考えることは、学問とは異なる根拠をもち、それは技術と呼ばれるものであろう。
2) 自己啓発について考える。世の中に出回っている自己啓発の本は、主に成功を目指す人の為のガイドとなる。よく読むと分かるのだが、自己啓発書の根拠は、主に歴史的な事実を元にしている。すなわち、ある成功者についての考察を行い、その特徴を明らかにすることで後学のためにするといった具合である。これについては「真」ではなく、「正」についての議論であることはあり得ないことは明らかであろう。従って、文脈を考慮せずに自己啓発書の内容をそのまま利用することは、あまり適切ではない。一方で、自分の置かれた文脈に適した形でもって利用できれば、非常に高い効果をあげられると期待される。
3) 科学(自然科学、社会科学、人文科学など)は、「正」なるものを積み重ねることで文脈依存からの脱却を図り、「真」なるものに向かうことを目指す(帰納のこと)。従ってその途上では、かならず「正」であるが「真」ではない状態というものが存在する。主に気象、地震予知、医療、宇宙論についてこの差異はよく観察されるが、科学一般についてもこれは同様である。科学についての議論において、「正」と「真」を誤解することは良くあることで、十分注意しなければならない。例えば「原子は原子核を中心として電子が公転するような構造を持っている」という命題を考えると、これは人によって真という人もあれば、真ではないという人もあることが分かる(後者は量子力学を学んだ人と推定される)。すなわち、科学的知見は常に変化しており、基本的には全て「正」であって「真」ではないと考えておいて良いと思われる。
数学はこの点において科学ではない。数学の対象となるものは「真」であるもののみであるためである。哲学は「真」なるものと「正」なるものがいかに異なるか考察したり(この記事のように)、またどのようにすれば「正」なるものを「真」なるものに近づけることができるかといったことを考える点において、科学とは異なる。私見だが、このような特徴から、自然科学と社会科学との間の差異は、自然科学と数学との間の差異よりも小さいように思える。
まとめ
「正」は文脈に依存し、様々な形に登場する。社会において高い価値を見いだすものは「正」なるものであって、「真」なるものではない。目の前にいる人間に対して、「真」なるものを訥々と語ったところで、理解が得られると考えることは、一種の誤謬であるので十分注意したい。生きていく上では、1+1=2を考えるよりも、今自分は何をすべきかを考えることのほうが重要である。
自らの文脈における「正」とは何かをじっくり考えることは非常に大切である。しかし、その中で「真」なるものによって良い面でも悪い面でも影響を受けるというのも確かである。良い面では、「真」によって論理的に確実になり、予測の精度が高まるといった効果がある。一方で悪い面では、「真」は「教義」とされ、絶対に逆らうことのできない鉄の掟となってしまうことにある。このような面が出ると、物事の上達は見込めない(仕事の上達のためにはレシピ、マニュアルは捨てなければならない)。これらの影響を考慮しつつ、自分の人生を「正」なるものにしていこうではないか。
参考文献
この記事の発端は、アリストテレスのニコマコス倫理学の5巻(文庫では上巻に収録)によるが、この本は色々な効果があって面白いのでおすすめ。本記事の論考の仕方はこの本によく似ていると思われるだろう。
ニコマコス倫理学は人間の目指す目標として、最高善を「幸福」と定義し、それについて論述している。幸福論ではあるが、非常に論理的なレトリックで書かれた文章なので、レトリックの学習にも参考になると思う。
