アメリカとロシアという生け贄 ― ユースタス・マリンズ | 初瀬蒼嗣の保守言論

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2019年01月14日
引用 アメリカとロシアという生け贄 ― ユースタス・マリンズ


1952年に1通の文書が西側自由主義諸国に到着した。その文章は、非ユダヤ人に対する独裁権の確立という彼らにお馴染みの計画を早急に推し進めようと、ユダヤが躍起になっている様子を伝えていた。それは、「1952年の1月12日にハンガリーのブダペストで開かれた欧州ラビ緊急会議にて講演」と記された、ラビ=エマニュエル・ラビノヴィッチの次のような演説の筆記録であった。

<中略>

「第二次世界大戦でわが同胞の一部をあえてヒトラーの悪党どもに生け贄として捧げざるをえなかった、あのつらい日々を、われわれはふたたび繰り返さねばならぬかもしれない。

なぜなら、やがてわわわれが和平を命令したのちに、アメリカとロシアの指導者を戦争犯罪人として裁判にかけて処刑することになるが、そのとき、われわれが法的に正当であることを証明する十分な記録と証拠を残すためにである。

私は、諸君がそうした義務を果たすための覚悟をいささかも必要としないと確信する。なぜなら、生け贄は常にわが民族の合い言葉だったのであり、世界の主導権と引き換えに数千人のユダヤ人を犠牲にすることは、むしろささやかな代償にすぎないからである。」

                   ユースタス・マリンズ 『真のユダヤ史』

 




【コメント】

ここでマリンズが紹介している文章が偽物ではなく、本物であると仮定して言うが、ラビノヴィッチの使用する「生け贄」の概念が、ユダヤ系フランス人のジャック・アタリのいう「カニバリスムの秩序」と極めてよく重なる。

アブラハムの宗教はしばしば絶対神のことばかりに着目されるが、私たちが看過しやすいユダヤ教において私たちが着目すべき概念の一つは「生け贄」である。古代のタナハ(旧約聖書)限らず、現代のユダヤ思想にも「生け贄」は重要な意味を持っているというのが、一般的な非ユダヤ人に隠されていることである。

あくまでもこのことに関する多くの証拠や文面の多くが事実であるという前提での話である。以後もこの前提に従って話を進める。

ユダヤ教のラビの中には、アメリカとロシアが再びユダヤ人を迫害する可能性を否定せずに、この迫害によってアメリカとロシアの指導者が戦争犯罪者としていわゆる「法」によって裁かれ、この判決の後に、ユダヤ人が「法」的に世界の指導者としての役割を手中に収めるという展望を持っていた人間もいたようだが、そのような未来がいつ来るのか分からないという意味では、それは21世紀の現代にあっても可能性がないとはいえないのだろう。

ここで、私は、現在において反ディープステートの立場を表明しているアメリカのトランプ政権とロシアのプーチン政権の友好的な関係に、このラビが予感した未来を重ねないこともない。

未だに、トランプもプーチンもディープステートの側の人間であり、反ユダヤを意図的に煽っているなどとも言われているが、確かに懐疑主義的な立場に立つならば、このような仮説も否定し難い部分も存在する。そして実際にそのように考えている人は存在している。

第一次世界大戦前後において、実際にアメリカとロシアが生け贄となり、第二次世界大戦においてはドイツと日本とが生け贄となった。現在、ディープステートが推進してきたグローバリズムもしくはコスモポリタニズムは、ここにきてアメリカとロシアを中心にヨーロッパや日本や新興国などにおいても明確に攻撃の対象となりつつある。

それでも今なお、ヨーロッパおよびアメリカのグローバリストの言論は徹底した反ナショナリズム言論を展開し、ユダヤ的思考に基づくグローバリズムはそれでも世界において、重きを置かれている。シオニストのジャック・アタリから、反シオニズムの様相をもったチョムスキーに至るまで、実際に痛烈な反ナショナリズムが展開されている。

このような状況においても、ユダヤ人はユダヤ人自身を生け贄として神に捧げる覚悟を持っていると考えるべきだろう。生け贄は一貫してユダヤ教の重要な要素であり続けた以上、今後も大きな意味を持ち続けることだろう。

現在の日本においてはだいぶ廃れてしまったが、日本文化における例えば「仁義」のようなもの以上に、ユダヤ文化において「生け贄」は欠かすことのできない概念である可能性が実際には存在する。

日本文化が「仁義」によって社会の秩序を構築しようとしたのと同じように、ユダヤ文化は「生け贄」によって社会の秩序を構築しようとしている文化なのだろう。そういった社会の秩序がロンドン・シティの秩序を、ウォール街の秩序を生み出したということなのだろう。