適応主義と技術革新 | 初瀬蒼嗣の保守言論

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保守の立場から政治思想を中心に意見を述べていきたいと思っています。

2019年01月09日
適応主義と技術革新

適応主義という概念は、人間あるいは生物が如何に外的環境に適応するのかという問題と関わるものである。

従って「環境」という人間の外的存在あるいは外的状況をどういったものとして認識するのかによって、人間あるいは生物の環境に対する「適応」の是非もまた変わった結論が導き出されるものである。

私はマクロ的次元において人間は外的環境により適応した方がよい、という立場であるが、一方でミクロ的次元において人間は外的環境に必ずしも適応しなくてもよいという立場に立つ。

この立場は少々解りにくいかもしれないが、たとえば一個人の社会人が、会社において極度のストレスを感じ、生活に支障をきたすほどであるとする。この場合、私の立場ではミクロ的適応主義への批判から、必ずしも、その会社に我慢してしがみ付く必要性もないし、場合によってはそれでも我慢するのも個人の判断であるという立場にたつ。

一方でマクロ的適応主義とはどういったものを指すと私が考えるかと言えば、より文化人類学的あるいはより生物進化論的立場から、それを捉えるというものである。

簡単に言えば、現在の人類はおそらく総合的に見て、狩猟採集の時代よりも現代の方がストレスが大きく、本来、高度に発達した社会には必ずしも十分に適応しえる存在ではないという立場となる。おそらく人類はそれ相応に狩猟採集の時代にも、現代社会にも、適応できている性向と、適応できていない性向とを有しているが、どちらかと言えば、本来的に、その遺伝的特性から見れば、狩猟採集時代により適応するに違いないという立場となる。

言い換えるならば、人類が高度に技術革新を展開していくことによって、人類は遺伝的特性に従って、次第に外的環境への適応の度合いを落としていく、外敵環境への不適応の度合いが高まっていくに違いないという立場である。

私は日本の保守派の中では珍しく、科学技術礼賛者ではないし、技術立国日本なるものを神聖視もしないし、理想的な立場だとも思わない。革新的な態度あるいは技術の向上は同時に人類の滅亡への性急な接近である可能性を否定しない立場に立つのである。

私は私自身においてそれ相応に知的活動を好む性癖もないわけでもないし、知りたいという欲求に対してそれを満たしたいという欲求に対して抗えない自分がいることを発見もする。しかしながら、私も含めた人類の知的活動の向かうベクトルについて全く楽観視していない立場である。この点がいわゆる技術屋と呼ばれる人たちと私を隔てる立場の大きな違いである。

私は人間存在の進歩について悲観的立場を崩すつもりはない。当然に、そうは言っても人間の進歩に対して極度の抵抗運動をしようという気持ちがあるわけでもないし、人類は技術革新をやめて、狩猟採集の時代に戻るべきだというつもりも全くない。

言い換えるならば、そのどちらが人類の滅亡への接近の度合いが大きいかに拘わらず、人類は好んで滅亡の道へと歩んでゆくのだろうということを信じずにはいられないのだが、私はこのことについての抵抗運動をかならずしもする気がないのである。

しかしながら、一方で、人類が急速な環境の変化を押し通す革新と進歩の思想について、批判的立場を表明し続けることについては決して否定するものではない。

人類は技術革新と知的活動によって自らの破滅を近づけている可能性がないとは言えず、強いて言えば技術革新によって、特定の時代の特定の人々が、何らかの特権を得ることがあり、そのことによって人類はその特権と技術革新という共同幻想によって締め付けられ、その負荷が人類にとって耐えがたいものとなった時に、人類は人類が想像しえた地獄的世界を現実体験する可能性がないとは言えないのではないか。

私は以前よりこの立場に立っているが、私の保守論の根底にはこのような考えが基礎となっている。

人類は自己を認識し、自己の認識を再認識するなど、多角的に自己を覗き込む能力があるが故に、知的な活動の内に宗教的共同幻想を見出さずにはおれず、その共同幻想の中で酔わないわけにはいかなかったのかもしれない。『ルバイヤート』ではないが、人類は酔わなければやっていけないというのは、当然に進歩主義や知性主義、近代主義それ自体も、「酔い」の一種と考えることもできる。人類は自己において必ずしも理想的な形で自己の感情や気分を制御できるわけではなかったし、同時に私たちにとっての環境の保全、あるいは環境の理想化を実現できたわけでもなかった。

従って、そういった現実を直視しないためにも、私たちは思想に、宗教に、神に、学問に、異性に、人間に、貨幣に、名声や地位に酔わなければならないのかもしれない。

目の前を飛び交う刹那的生命の小さな虫のように、現実世界を生きているとさえ言えそうな人間は、どうにもならない自己の環境不適合性によって、自らの生命環境を常に破壊してきたと、もし仮に認めるとしたならば、私たちはその目の前を飛び交う刹那的生命の虫よりも、環境保全的、あるいは環境適応的意味において、遥かに下種な種かもしれない。しかしながら、現代人はそんなことを自ら問うことなど当然にせずに、あるいは自らそんなことを解いても意味がないが故に、日々の生活なるものに追われて生きていくに違いない。