自分が無力であると考えている君へ 意識の傍観者である私から | 初瀬蒼嗣の保守言論

初瀬蒼嗣の保守言論

保守の立場から政治思想を中心に意見を述べていきたいと思っています。

2018年12月03日
何もできまい そうじゃない

何かをするとかしないのかと言う前に、まず、今までの日本人が得ていたニュースがフェイクニュースであり、日本人が学んできた歴史がフェイクヒストリーであり、日本人が学んできた論理がフェイクロジックであったというだけの話である。

この点を歴史的事実を元に分析して本当のニュースを、本当のヒストリーを、本当のロジックを見出す必要があるが、何ができるかどうか以前に、既存のニュース、既存の歴史、既存の論理を捨てようぜ、というだけの話である。

これを私は団塊世代やしらけ世代、バブル世代にいうつもりはない。彼らはもう日本の将来の担い手ではないからね。何も私は期待しない。彼らがフェイクニュースに踊らされようと、フェイクヒストリーに騙されようと、フェイクロジックで世界を眺めようともどうだっていい。もう、時代にはついてこれない人間ばかりだろう。

そうではなく、私は40代・30代・20代・10代の人間が少しでも、今私たちが見ているニュースがフェイクであり、学んできた歴史がフェイクであり、頼りにしてきたロジックがフェイクであるという単にこれだけのことに気がつくように導けばいいだけなのだ。それだけのことで実は大したことではない。

そしてmy日本のようなSNS以外では実際に僅かばかりだが、日本人の中に大きな変化が起こっている。もしかするとほんの数パーセントの日本人かもしれないが、この数パーセントの人間の心を動かすということが重要なのである。

私がやろうとしていることは、私以外の私に意見が近い人たちが、おおむね同じような行動をとっている。特異点に至るまでのハードルは確かに高いが、これが実は容易に特異点に達するものなのである。

私が10代の頃は保守論など一切存在しなかった。私が保守論を開始して以来、私の保守論の役割は小さなものだったかもしれないが、実際に保守言論は私が望んだものとは幾分違ってはいたが、確かに特異点に到達した。私は当時保守論が多数派になるとは思っていなかったが、実際に、その様態はともかくも変わったのである。

私はこういった現象がまた起こり得ると思っている。私が願うということは、私以外の私に近い考えを持った人たちが、私と同じように願っているという同時並行的な現象を抱えている。私はこの流れに期待している。実際に代わり得る。私が成しえることは小さなことかもしれないが、分布範囲という概念を論理の中に導入すれば、案外に変わり得ないと思えることが、実は変わり得るのである。

私が諦めれば、私に近い考えの人たちも諦める可能性がある。が、私が諦めなければ、私に近い考えの人たちもきっと諦めないだろうと思えるし、実際に諦めない人間が多い可能性がある。

私が諦めれば、私に近い考えの人が諦める確率はかなり大雑把な見立てだが50パーセント~100パーセントとなり、私が諦めなければ、私に近い考えの人が諦めない確率も、これも大雑把な見立てだが、50パーセント~100パーセントに及ぶことになるかもしれない。

君にはこういった仮説はくだらないことだろうと思うかもしれないが、私は多くの人間が保守言論を展開する以前から保守とは何かということを考え続け学んできた人間である。実際に私は延々と保守言論を調べてきたが、私と同時並行で、私と考えを近くする人々もまた、同時にこのような活動を、わたしとは幾分ことなる形でしてきたのである。

あなたは簡単に諦めることを選択するが、それはあなたが諦めているのではなく、あなたは諦めるように、周囲の環境、ムードから感じ取っているだけにすぎない。それはあなたの選択ではない。あなたは自分で諦めたと思っているが、それは違う。あなたは空気によって諦めているだけである。

何もできない。何もできない。何もできない。何もできない。何もできない。何もできない。何もできない。何もできない。何もできない。何もできない。何もできない。何もできない。

あなたはこのように繰り返し繰り返し、このような言説を聞き続けてきた結果として何もできないと思っているだけである。これは錯覚だし、実際にそうコントロールしようと試みている人間が存在するんだよ。このことを見抜かないといけないけれど、私はすぐにあなたがこの洗脳から脱却できるとは思っていない。しかしながら、私はこういったことを繰り返し説明することを試み続けるだろう。

それが私たちに本当に必要なことなのだから。

実際にアメリカでは多くの人々が目覚つつある。一度隠された世界が見えてきたら、そこからは堰を切ったように世界が開けるものだ。2018年現在ロシア革命から101年経過しているが、少しずつ、本当の歴史が暴露されつつある。このような真実が明るみになることはそう簡単には不可逆的には人はその事実を忘れることはない。人類が何か物事について知るという行為は、必ずしも不可逆的なことであるとは思わないが、それでも一定の不可逆的作用を持っている。

世界は私が変えるわけでもなく、あなたが変えるわけでもない。粒子や波動と同じような周期的な波間における動乱と和平の歴史の中にあって、私たちはどこかしら傍観者であり続けるものである。私があなたに認知上の情報を提示し、逆にあなたは私に別の情報を提示する。それはある意味で私の意志とは言えないかもしれないし、あなたの意志ともいえないものかもしれない。

世界が変わるのか変わらないのかは、あなたが決めることではないし、当然に私が決めることでもない。ただただ結果として変わったか、変わらなかったかという事実のみが後々わかるだけである。

繰り返すが世界が変わるのか変わらないのかは私が決めることでも、あなたが決めることでもないのだ。諦めることも諦めないことも、実際は私が決めていることでもないかもしれないし、あなたが決めていることでもないのかもしれない。あなたも私も単なるあなたすら、あるいは私すら操作できない傍観者なのかもしれない。

だからこそ、ある意味で私が言っていることは、私の意志に基づくものとは言えない可能性がある。私は生来の自由意志論者でもないし、決定論者でもない。私は何らかの操作不能性の世界の中で、ほぼオートマチックに御託を並べているだけかもしれないが、それでも構わない。私はそれでも世界は変わり得るという、私が導き出したのか、私が与えられたのか分からないような信念に基づいて今後も言い続けるだろう。

世界は変わり得る。

世界は変わる。

こういっているのは私の意志だろうか。分からない。しかし、それが私の現在の生きているうえでの重要な役割だと思っている。私はこの役割を私が選択したのかどうかすら知らない。

そしてあなたはこのような私の声を聴きに来ている。そう。あなたは私の声を聴かざるをえないよね。知っているよ。

たとえ煩わしくともね。