対話篇の難しさ | 初瀬蒼嗣の保守言論

初瀬蒼嗣の保守言論

保守の立場から政治思想を中心に意見を述べていきたいと思っています。

2018年12月02日
対話篇の難しさ

対話形式で論じられている言論とは、古今東西問わず多数存在するが、私たちが対話篇の在り方を論じる場合、彼の思想の是非はともかくも、そのあり方についてはプラトンの作品群が、重要なテキストとしての役割を担っている。

対話篇では、まったく異なる人格および価値観・方法論を持った人間が行うものであり、対話形式の文章を書く場合、書き手である彼自身以外の人格および価値観・方法論についての深い理解や洞察というものが必要となってくる。

プラトン以外にも、イギリス経験論におけるジョージ・バークリーやデイヴィッド・ヒュームなど、認識論にあって新しい境地を切り開いた偉人達にとっては、そこに明確な方法論的な違いがあったが故に、必ずしも心理分析的感覚にあって、必ずしも天才的な嗅覚は必要なかったのではないかと思われる。そこにあるのは人格的な違いである以上に、方法論的な違いだからである。

現在もあまり多くは行われていないが、対話形式の言論はある程度の頻度で見出すことができる。対話篇の難しさは、大抵の場合、対話者の明確な違いが際立っていなければ、おおむね意味をなさない。

この点に関しては高橋昌一郎の限界シリーズは既存の考え方の違いを利用すること、つまり哲学者やイデオローグの代弁者という人格を利用することによって、うまく対話者の人格や方法論の違いを浮かび上がらせている。ある意味では彼自身の創作が全く見られないために、プラトンやバークリー、ヒュームの対話篇と較べると、独創性には欠ける。

どこぞの大学教授とその生徒程度の人格的差異あるいは方法論的差異ではなんら対話篇としての魅力も感じない。概ね単に権威付けにしかならない。

私は西部邁の対話篇も幾度か読んできたが、彼は大学教授や知識人に対して、なんとか魅力的な一般庶民を導き出そうと試みたが、最終的には知識人の欺瞞的言論を転覆させるだけの、つまりプラトンが演出するソクラテスのような凄みはやはり出し切れなかったようである。

実際に、庶民の中からソクラテスを見出すのは難しいわけではあるが、しかしながらある意味で、対話篇にあっては、その重要な役割を演じる聞き手は、知識人の人格・方法論・世界観を転覆させるだけの、あるいは反転させるだけの、鬼気迫る存在であることが対話篇の対話篇たる魅力の一つでもある。

大抵の場合、この役割を聞き手に与えられないが故に、プラトンやバークリー、ヒュームのような魅力ある対話篇を作り出すことはできない。対話篇にあって魅力ある作品を作り出すことができる才能があれば、恐らく普通の散文なども容易に演出できるに違いない。

文学的才能を見極める一つの文章の形式として確かに対話篇は魅力があるが、相槌を打つだけの対話者なんぞを使用したところでは、魅力的な対話篇など描きようもあるまい。