『飯田龍太』 | 出ベンゾ記

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『飯田龍太』(飯田龍太/春陽堂俳句文庫/1991.11.25初版)



昭和から平成にかけて、俳壇の最高峰として活躍した、飯田龍太の自選句集である。生涯を前中後の3期に分かち、それぞれ100句ずつを選んでいる。



龍太については、随筆集『思い浮かぶこと』にいたく感心させられたのを覚えている。平明達意の文章で、再読、三読に耐える名随筆だと思った。



さて、句だ。


前期「抱く吾子も梅雨の重みといふべしや」「春すでに高嶺未婚のつばくらめ」「極暑の夜父と隔たる広襖」「夏すでに海恍惚として不安」など、すでに格調高い秀句表現が並び、その才能はまぎれもない。


発想の切れ味は、ときに危うさにも近寄り「くさむらに少年の服春の坂」「山碧く冷えてころりと死ぬ故郷」といった世界にも踏み込む。しかし、このあたりが作家としての龍太の、つねに清新なイメージを作っているのだろう。


中期は乱調の時代と見える。1971年の句集『春の道』から始まるが、当時、俳壇・歌壇を席巻した前衛運動が、龍太のうえにも影を落としているのだろうか。「白菊に遠い空から雨がくる」「一月の川一月の谷の中」「雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし」といった句は、極端な単純化の中から物事の本質を掴もうとする意欲が見えるようだ。しかしこの道は、龍太の資質からはやや離れるようにも思う。


そして、この中期の乱調は、やがて次のような仰天ものの怪作を生むだろう。


「冬晴れのとある駅より印度人」


奇想天外というべきか。読めば読むほど可笑しみの増す句である。俳壇のほうの評価はどうなっているのだろうか。


後期「満目の草木汚さず薄暑くる」「文化の日鉄の屑籠雨の中」「ままかりの酢の香これまた小春かな」「大木に熊の爪跡青あらし」「走者一掃して冬の山冬の川」「落葉の夜歌仙これより恋の部へ」。


まさに自在の境地というべきか。中期の乱調を飲み込んで、もはや句は軽々と遊んでいるようだ。


巻末近く、次の句を見いだして目をみはった。


「小春日の猫に鯰のごとき顔」


うなぎ犬が読んだら何というだろうか(笑)。