( ̄~ ̄;)まず知るコトから始めたい

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欲しいと思うのは、身体がソレを求めているから。だから、欲しいモノを素直に食べたり飲んだりするのが、いちばん健康に良いんだよ。

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生物学的に性別を決定する要素には、遺伝子、内分泌、外性器などの異なった次元がある。だが自然界にある性別には、どのレベルでも連続性があり、男/女のような二項対立にはできていない。遺伝子ではX遺伝子とY遺伝子の組み合わせが性別を決定すると言われているが、現実にはXXX(超女性)XYY(超男性)のような組み合わせも存在する。X遺伝子とY遺伝子の二項的な組み合わせからなる遺伝子上の性差でさえ、二種類以上の組み合わせによる連続体を構成している。

内分泌の次元でみると、自然的性差の連続性はもっとはっきりする。胎発生時の胎児はすべて女性の身体的機能をもっているが、発生の途中で特定のホルモンのシャワーをあびて、男性機能を分化していくと言われている。発生学的にみれば、男性は「第二の性」なのだ。「女性ホルモン」「男性ホルモン」と便宜上呼ばれているこのふたつのホルモンは、その後の第二次性徴や更年期などにはたらいて、性機能を変化させる。内分泌学的にいえば、男性と女性のちがいは、このホルモンのバランスのちがいにすぎず、それも一生をつうじて、また性周期をつうじても変化する。ホルモンの連続性からいえば、世の中には「より男性的」もしくは「より女性的」なホルモン分布をもった個体、または状態があるにすぎない。

外性器についても同じことがいえる。出生時の性別の判定は、外性器の形状から判断されるが、これには間違いがしばしば発生する。発生の途中で、何らかの事情で男児の外性器が矮小化したり、女児の外性器が肥大したりすることがある。まれには半陰陽といって男女の外性器をともにそなえて生まれてくる場合もある。万一外性器に異常があっても、もし遺伝子やホルモンが性差を決定するならば、患者たちは周囲の性別誤認にかかわらず、自然に「男性的」もしくは「女性的」な心理的特長を発達させていたはずだ。しかし、生物学的性別判定の誤認があきらかになるのは、ふつう第二次性徴期を迎えた時だ。

性差は、解剖学的にも生理学的にも否定しようのないかたちでそこにある。だが、遺伝子、内分泌、外性器のどれをとっても、自然界には性差の連続性があるのに対し、文化的な性差は中間項の存在をゆるさない。個々の人間が男または女として生きることを決定づけるのは、生物学的な性差(セックス)ではない。それは、社会的・文化的な性差(ジェンダー)だ。

性転換症(TS)の臨床が示すのは、身体的性別とまったく独立に性自認が成立すること。すなわち第一にセックスとジェンダーは端的にべつのものであること、セックスとジェンダーが連続しているのではなく、切断されていること、第二に、ジェンダーの規制力のほうが大きいことをTS臨床は明らかにしている。生物学的性差の基盤のうえに、心理学的性差、社会学的性差、文化的性差が積み上げられるという考え方を否定し、人間にとって性別とはセックスではなくジェンダーであることを、明瞭に示している。人間においては、遺伝子やホルモンが考える、のではない。言語が考える、のだ。

「性自認」は二歳から三歳ごろまでの言語獲得期に形成される。心理学的な性差研究にはおびただしい蓄積があり、幼児の時から、男児は空間能力にすぐれ、女児は言語能力にすぐれているといった調査結果があるが、被験者が調査に応じられるようになるまでには、「性自認」は形成されてしまっていることになる。したがって言語によっておこなわれるあらゆる心理学的性差研究は、一種の「予言の自己成就」、すなわち言語によって形成された性差を言語によって追認するという作業になる。

性自認の理論であきらかなように、言語のなかにジェンダーが組みこまれているとするならば、人は「ジェンダー化された言語の外に出ることはできない」。ジェンダーは人間のアイデンティティにおいて核心的であり、かつ文化と社会のなかでジェンダーがつくられる。わたしたちは言語の外に出ることはできないが、どのような言語の内にいるかを、知ることはできる。

男/女の二項は、男でなければ女、女でなければ男、というたんなる排他的な二項関係ではない。この二項は非対称的につくられていて、その実、項のあいだに互換性はない。男もしくは女という「ふたつのジェンダー」なのではない。「ひとつのジェンダー」、すなわち差異化という実践そのものだ。言語は中立的な乗り物ではない。

理論はたんなる「机上の空論」ではない。現実を解釈し、実践的な帰結を導くものだ。近代以降に再編された「男であること」「女であること」の社会・歴史的な構築性を考察すれば「欲求」「感情の表現方法」などの性差を理解できる。性別役割分業意識の違いも、日常的な男と女のすれ違いに大きく影響している。その「主体的」な行為のなかに微視的な規範がはたらいている。