いや、違うんですよ。
タイトルは内容がスンごいマジメだってことじゃなくてね。
最近の日々が割に真面目だってことです。
なんだかね~
まあ博士最終学年でもう後がないっていうのはある。
にもかかわらず、書いても書いても描き切れていない
というか
全然まだまだ全体に近づかないちいさな森を少しずつ作ってるかんじっていうの?
だからって森ばっかした見て歩いて
ヘンゼルとグレーテル的にお菓子のおうちをみつけたりってわけでもなくて
気づいたら友達と遊び歩いてもいる。
このあたりはある意味
予防的健全性とでもいう。
なんというか
基本的に
虫になりきれない学生なので
虫になりきろうとすると
本とかの世界に入り込んじゃって
あとで現実に戻ってくるときに凄い負荷がかかるため
少しずつ論文っぽいことや
仕事とかしすぎないように
ため込みすぎないように
少しずつ地球の重力になれながら
自分の星で生きてるとかそんな感じですかね。
だってさ
この秋だけで
3回も箱根に行くって相当なアクティブさですよ。
このあたりも含めて真面目な気がしてるw
しかも友達とひるごはんもいったりとか
そこにおいてガスを抜いてもらったりとか
ある意味あれだね
本格的に
宇宙旅行だね。
ゆえの、
地球の重力に慣らしつつの暮らしだね。
今日はスンごい急にゼミがお休みになったので
ふとあいた月曜日。
こういうふとあく時間がなければ
何かを書きつけることが最近できない。
こういうのってどうなんだろう。
論文を書かねばならぬ時間を作るために
できるだけよそでは書かないようにしてると
人間マジで書けなくなるのね。
文章って。
あ、気楽なやつね。
こんな感じになる。
以下大学関連のブックレビューで
先日みたディカプリオのギャッツビーについて書いた文章。
めっちゃしゃちほこばった文章。
一部転載。
☆☆☆☆☆☆☆
今から20年前の大学生時代(学部生時代)に初めてJack Clayton監督の The Great Gatsbyを見て感じたのは、文字が伝えるイメージをそのまま映像にしてしまうと、映像の方がなんだか古臭く感じてしまうということだった。それは、Fitzgeraldの書いたThe Great Gatsbyを読んだ時に感じたあの世界の中で共有できた感覚が、映画の中では、消えてしまったような気がしたからかもしれない。
小説The Great Gatsbyを読むと、まるで夏目漱石の『こころ』の登場人物たちの心の火傷が飛び火して、数日気分の落ち込みを迎える、そんな激情と焦燥と失意に包まれるような、現代に生きる読者を一気に100年前に連れて行ってしまう読書体験が発生する。『こころ』にしてもThe Great Gatsbyにしても、100年という時間の隔たりを感じさせない語りの強さと近代に生きる人間の物語の持つ普遍性が、時間や状況を超えて読者を作品世界へと誘い込む。
1974年制作の映画The Great Gatsbyは、そこに描かれている内容は、小説原作と同様でありながら、まだ幼かった私の心には、物語の魂が届かなかった。確かにその映画は、フィッツジェラルドの書いた内容を忠実に映像化していたが、同じ話を別の伝達者から、また聞きした時に生じる、驚きの無さ、内容は既に知っているのに、二度目にその話を聞く時に、その語りに意外性がなければ、その話の内容すら、そもそも面白い話だったのか分からなくなる感覚が発生していた。
☆☆☆☆☆☆☆
その続きも読みたい方は、
http://www.wanderingbooks-tur.com/ レビュー/2014年10月のレビュー/8-the-great-gatsby/
こちらへ~。
ほらほら、硬いでしょう。
これも、仕事・研究の合間の、ほんの隙間に書いたので
もっと軽くとかもっと面白くとか考えるひまなく
ひたすら打ってしまうとこうなると。
しかしさ。
アメブロのこの個人ブログにおける私の口調での文章ってほとんど最近書いていないわけですよ。
たとえば、
Facebookとかmixiとか(←後者はほとんどホッといたままであるですけど)
における文章って
ゆるさやゆるみが発生しにくいのね。
やっぱどっかで落ちをつけようとする自分がいる。
どんなに内容的にゆるゆるしていても、
短い言葉のなかにオチつきで
何かを収めたり
もしくは完全な日常のメモだったり。
ツイッターはある意味ゆるい。
しかし私の様な冗長な人間にとっては
あの文字制限はきつい。
むしろタイトな風情すら出てしまう。
となるとアメブロの意義は
たまに書いてみて
ああわたしまだちゃんと
ゆる文かけるじゃんっていう
安心確認なんですかね。
別にさ
論文第一でそこにおける文章が自分の最高のもんだとかそんなのではないんだけど
最近少しだけ考えてしまうのは
40年これまで生きてきて
意外にスンごい早かった。
ということはこれからもきっとあっという間なんだと思うと
ゾクっとする。
よくいう限られた時間のなかではぐくまれるとかそういう云々カンヌンもあるけどそれとは別に
タンに
俺のやりてーこと
まだできてねーよ
っていう意味において
焦る。
それは論文って世界においてもだけど
こういう
ゆる文が発生するための自分の時間そのものって意味でも。
あ、女としてこれからとかそういう
中央公論の雑誌みたいなイメージじゃなくて
なんだろな~
自分がカブトムシだとすると
まだあの木の樹液も吸いたいし
まだあの木にも登りたいし
あ。
結局どん欲汁なんだけど・・・w
そうそう
年をとるとね
どん欲さが減るのかと期待してたんだけど
物そのものだったり
人に対してだったりではないのよね。
結局自分に対する要求?貪欲がすごくて
自分がバカだなあってすごく笑う。
そもそもそんなにあれこれできるタイプでもないし
こつこつちいさなことを積み上げてくタイプなのに
まだあんたはそれでもあれこれしたいのか?
と思ってしまうけど
本質的に
物凄い
欲しがり屋なのかもしれない。
あ、小さいころから
スンごいガーリーな服も
これどういうこと?ってくらい
少年な服も両方着せられて育った感覚がまだ続いてる。
私って一個人は
どうやったって
一人の人生の枠内で生きていくしかないのだけど
今現在の自分のクロゼット(このワードが出てくるとやたらフェミニズムっぽいけどさ)
にある服のあまりの絞り切れなさ(着れなさ)を見てると
もう少しいろんなことを取捨選択して生きていかねばなと思う。
実は、論文を書いたりする世界で私は生きていけるのだろうかと常々思っていて
まだもしかして逃げ道を用意しているのかもしれませんが
(やっかいなことに、無意識にw)
それは置いといて
だからといって
たまにこうやって書いてみると
びっくりするほど
まとまりもなく
冗長で
そして
文章そのものがどん欲さにあふれている・・・・・。
ああ。
風情は枯れてるんだけど
どうしてわき出るこの変なあれこれチャレンジしたいみたいなアホみたいな
まあ高校生みたいな感覚は続くのか。
これがねもう少し落ち着くといろんな意味で
バランスいいとおもうんだよね。
まあしょうがないよな~。
でも最近
お洋服ね、ちょっといいかなって思ってる。
いや、結構買ってはいるけど
前ほど着ない服は買わない気がする。
着たいから買うというより
今は
これがあれば
そんなに変な人に見えないんじゃないかという
だいぶ穏健的不純な欲求で服を買ってる。
ダメだよね。
もっと挑戦しなきゃと思いつつ
でも、挑戦服を買う時間がない。
そうだね。
そこだね。
結構あれこれやってるんだけど
本気で自分自身がすごくワイルドに挑戦ではなく
論文のなかで随分もう消耗してるから
最近
服・化粧品において
全く挑戦がない。
スンごいマジメじゃん?
そういうわけです。