銭湯入ったことある?

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう

番台におばちゃんが座っている、王道銭湯は、10年近く前かな?友人のお宅に遊びに行った際、お風呂は銭湯にいってみようと、行ったのが最後、条例で何歳未満までは男児は女性の方に入っていい、というのが自治体ごとに決まっていたらしく、ちょうどクリアする年齢で良かった、という覚えがあります。
 

今、だれもがスタートを待っている。周囲の人々が“意義ある仕事”に邁進する中、心に深傷を負い、無気力な中年になったみのり。実家に届く不審な手紙、不登校になった甥の手で祖父の過去がひもとかれるとき、みのりの心は、予想外の道へと走りはじめる―。

これ、久しぶりの当たり読書でした。文庫化を待ってました。

中年になったみのりは、私-6歳という設定。18歳で故郷を出て東京に。大学生の時にボランティアサークルに所属、その時の同期たちが、それぞれの道を見つけ、進んでいる中、何も成し遂げていない、気持ちで過ごしているみのり。

わかるなあ、その気持ち、と思いながら読んだ。今週末、同窓会があるんです。5年前、出た時、「あ、私、何もしていない、何がしたいのか見つけられていない」と思ったあの時の気持ち。子供いない、夫いない、別に偉くなっていない…自分だけが何もしていない感じがして、ちょっと辛いところもあった。人間にとって神様から与えられたタラント(才能、賜物)は何なのか。

で、5年たっても、子供いない、夫もいない、別に偉くなっていないけど、今年も行く。すごく特別なことじゃなくても、私ができていること、続けていること、地味でも、なんでもよいなあ、とここ数年、軸が定まった感じがして。

40が不惑というが、ようやく50になるときにこんな気持ちになるとは。

で、論語は

子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。

私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった。

ちょうど、タラント、使命を知る年と実年齢の乖離がなくなった、のかもしれない。

 

あと、この本で、ボランティア活動や海外の支援活動などが描かれていて。偽善だとか、使命感だとか、同じ行動を行ったとしても、見る人、見る角度によって感じ方は異なる。

同じ風景をみて、違うものを見ている、という一文が文中にあるが、それでいいのかもしれない。自分が見たいものをみて、感じ、自分の価値観で行動することが大事、これはボランティアに限らず、すべての行動においても言えることだと思いました。