それぞれ違ってみんないいのではないかと、思うので備忘録として書きます。
これからご覧になる方は、読まずに。
観た方も、こういう考えもあるなあ、で、どうぞ。

カジモド役はそれぞれに解釈が異なるなあと思う点。ようやく昨日、雑誌ミュージカルが来たのでカジモド役のインタビュー観れました。
達郎カジモドは、体の不自由な感じが出ていて力持ちなイメージ。椅子の持ち上げ方も軽々に見えます。
海宝カジモドは、力持ちというイメージはなく身軽に動くイメージ。鐘をならしたり、ロープで滑り降りる時に俊敏。
障害の程度は
達郎カジモドは、知的障害も軽度あるが故の純粋さが最初から最後まで貫かれている印象。ただ最初は、狭い世界でフロローと鐘つき堂の中しか世界を知らないので、色々なものに心惑わされることはないけれど、道化の祭りに出かけてからは、心穏やかに過ごすことが出来なくなっていって「感情」というものを知っていくように。
体の不自由さは体を曲げていることもあるけれど、歌や台詞の合間に、「ふふ」、と「んんっ」とか、ちょっと音声が入ったり、自分をたたくシーンは頭をばしばしたたいて自罰的に。
フロローに対しても父というよりは、主人のような扱いで、フロローが椅子に座る前は必ず、座る場所を布で椅子をごしごししてる。
あとはエスメラルダの居場所を知らないと「嘘」をついたときに、フロローに背を向けて十字を切る、陽射しの中での歌の中でも十字を切っていました。フロローの教えに非常に忠実。
フィーバスに対しても嫌い!(御主人の手下でエスメラルダを捕まえる側の人だから)だけど、一緒に居場所を探しているうちに、友情が芽生えて、好きになっていると思うので、割と、好きか嫌いか2択の気持ちしかないような。フロローのこと衝動的なことで、茫然自失、幼子のような純粋なまま、エスメラルダを母をしたって寄り添うように抱きついてたんだろうなあ、と、思えます。
海宝カジモドは、知的障害はなく、狭い世界に住んでいるが故の経験不足による幼さが前半にはありますが、エスメラルダに出会ったころ、外部の世界に通じていくことで、メキメキといろんな「感情」を知っていくことに。成長していくカジモドだと思います。
不自由な体に、やはり手、指先の動きに目がいきます。
フロローに対しても、この人はこれくらいやったら叱られるかな?というのをある程度分かってそうなので、御主人と呼びつつも、ちょっとうるさい親を適度にあしらう方法は知っていそう。
エスメラルダと知り合うことで、恋に落ち、フィーバスと取り合うことになる中で、最初は嫌いなフィーバスですが、「自分のエスメラルダ」が一緒に寄り添っていきたいのが「フィーバス」と知り、辛かったと思うのですが、エスメラルダを亡くし、その亡骸を抱き上げることもできない「フィーバス」の頭をなでる姿は、自分の愛する人を愛した人も愛して受け入れるっていう、愛の深さがあると思います。
高浜虚子のお墓の周辺にたくさんの人のお墓が同じ方向、正面向きで建っているのですが、その中に、虚子の方向を向いて斜めになっているものがあるそうです。それが、虚子のお弟子さんの若くして亡くなった女性の方なのですけれど、その向きにわざわざ建てたのが、その女性の夫だったとか。自分の妻が虚子に強く心惹かれていたのを知っていたうえで、そういう事が出来る、愛することって、自分のものにすることだけではなくて、自分の愛したものが愛したものまで愛せるっていう大きいものなんだなあ、と思います。
フロロー、エスメラルダが亡くなってからの慟哭も自分のやってしまったことを悔いているような悲痛な慟哭。エスメラルダの亡骸は、カジモドが守るように抱きしめていたのではないか、と、思います。
毎回観るたびに、そんな自分さえよければいいやと思わない「愛」について感じ入るところがあり、とても好きな作品です。
結局、そういう気持ちを持って生きていれば、争いのない良い世界になるのに、とサムデイのテーマにもグッと来てます。
これからご覧になる方は、読まずに。
観た方も、こういう考えもあるなあ、で、どうぞ。

カジモド役はそれぞれに解釈が異なるなあと思う点。ようやく昨日、雑誌ミュージカルが来たのでカジモド役のインタビュー観れました。
達郎カジモドは、体の不自由な感じが出ていて力持ちなイメージ。椅子の持ち上げ方も軽々に見えます。
海宝カジモドは、力持ちというイメージはなく身軽に動くイメージ。鐘をならしたり、ロープで滑り降りる時に俊敏。
障害の程度は
達郎カジモドは、知的障害も軽度あるが故の純粋さが最初から最後まで貫かれている印象。ただ最初は、狭い世界でフロローと鐘つき堂の中しか世界を知らないので、色々なものに心惑わされることはないけれど、道化の祭りに出かけてからは、心穏やかに過ごすことが出来なくなっていって「感情」というものを知っていくように。
体の不自由さは体を曲げていることもあるけれど、歌や台詞の合間に、「ふふ」、と「んんっ」とか、ちょっと音声が入ったり、自分をたたくシーンは頭をばしばしたたいて自罰的に。
フロローに対しても父というよりは、主人のような扱いで、フロローが椅子に座る前は必ず、座る場所を布で椅子をごしごししてる。
あとはエスメラルダの居場所を知らないと「嘘」をついたときに、フロローに背を向けて十字を切る、陽射しの中での歌の中でも十字を切っていました。フロローの教えに非常に忠実。
フィーバスに対しても嫌い!(御主人の手下でエスメラルダを捕まえる側の人だから)だけど、一緒に居場所を探しているうちに、友情が芽生えて、好きになっていると思うので、割と、好きか嫌いか2択の気持ちしかないような。フロローのこと衝動的なことで、茫然自失、幼子のような純粋なまま、エスメラルダを母をしたって寄り添うように抱きついてたんだろうなあ、と、思えます。
海宝カジモドは、知的障害はなく、狭い世界に住んでいるが故の経験不足による幼さが前半にはありますが、エスメラルダに出会ったころ、外部の世界に通じていくことで、メキメキといろんな「感情」を知っていくことに。成長していくカジモドだと思います。
不自由な体に、やはり手、指先の動きに目がいきます。
フロローに対しても、この人はこれくらいやったら叱られるかな?というのをある程度分かってそうなので、御主人と呼びつつも、ちょっとうるさい親を適度にあしらう方法は知っていそう。
エスメラルダと知り合うことで、恋に落ち、フィーバスと取り合うことになる中で、最初は嫌いなフィーバスですが、「自分のエスメラルダ」が一緒に寄り添っていきたいのが「フィーバス」と知り、辛かったと思うのですが、エスメラルダを亡くし、その亡骸を抱き上げることもできない「フィーバス」の頭をなでる姿は、自分の愛する人を愛した人も愛して受け入れるっていう、愛の深さがあると思います。
高浜虚子のお墓の周辺にたくさんの人のお墓が同じ方向、正面向きで建っているのですが、その中に、虚子の方向を向いて斜めになっているものがあるそうです。それが、虚子のお弟子さんの若くして亡くなった女性の方なのですけれど、その向きにわざわざ建てたのが、その女性の夫だったとか。自分の妻が虚子に強く心惹かれていたのを知っていたうえで、そういう事が出来る、愛することって、自分のものにすることだけではなくて、自分の愛したものが愛したものまで愛せるっていう大きいものなんだなあ、と思います。
フロロー、エスメラルダが亡くなってからの慟哭も自分のやってしまったことを悔いているような悲痛な慟哭。エスメラルダの亡骸は、カジモドが守るように抱きしめていたのではないか、と、思います。
毎回観るたびに、そんな自分さえよければいいやと思わない「愛」について感じ入るところがあり、とても好きな作品です。
結局、そういう気持ちを持って生きていれば、争いのない良い世界になるのに、とサムデイのテーマにもグッと来てます。