Again, I observed all the oppression that takes place under the sun. I saw the tears of the oppressed, with no one to comfort them. The oppressors have great power, and their victims are helpless.
王羲之「蘭亭序」八柱第三本
かえりの電車を 待っていたときの事だ。
ホームには 真新しいスーツ姿の青年たちで溢れる
4 月。 仲陽の その日は 夏を思わせる快晴で
目を眇めるほど すべてが しろく光り輝いていた。
勤めから ようやく解放される ウィークデイの 一番しあわせな時間
定刻通り ホームに入る
車体を 目の端に認めるやいなや
車両故障か、ドアは開かない。
しばらくして 構内にアナウンスが流れた。
「 人身事故の為、ただいま調査中です。しばらくお待ちください 」
しばらく待っても
しばらくどころでは 済まない事態である。
入口に殺到するだろう
人なみ にのまれぬよう 踵を返し 早々に 駅をあとにした。
抜けるような青い空 バス通りに向かって歩く。
人が 死ぬ。
無造作に。
救いようのない現実だ。
小石のように 砕けた
かのひとの 身体と 思いは
じき 綺麗に片づけられ 何事もなかったかのように
しあわせなにんげんは 幸いだ。
「 足止めを くらってさあ 」
「 死ぬなら 人に迷惑をかけないところで死ね 」
「 結局 すべて恐れ。自我。アナタが 引き寄せた事です 」
それで 済ませられる
しあわせなにんげんには この事故は ただのアンラッキー。
自分と 無関係な
他人事の不幸ゆえに ひと事の真実で すべてカタのつく
「奇跡」 しあわせなひとの
えっしーんよい
えっしーんよい
散り落ちた桜花で いっぱいの小みちを
急いで 通り抜ける。
恵 風。乗り遅れてはゆけない。
この日 私は 武内教授にねがい、ひとりの女体の解剖に たちあった。
― 大学病院の医学部は おとろしか。
ふとかマナ板のあるとじゃもん、
人間ば 料えるマナ板が あっとばい。
そういう漁婦 坂上ゆきの声。
いかなる死といえども、
ものいわれぬ死者、あるいは その死体はすでに 没個性的な資料である、と
わたくしは 想おうとしていた。
… インターネット上で
私見を 発信する様になって 今年で 9年になる。
欧陽詢「九成宮醴泉銘」(部分)
なにかをいい表す事は 解 剖 に 似ている。
バラした 自他の
「したい」が 目に見えて よく分かるが故に
誤魔化しが 効かない。
多感な頃 アート、音楽、文芸に通じ
「つくる」こと
「つくられた」ものごとについて ながく専心した。
専科に進み、師や学友に 多く恵まれた。
「つくる」楽しさを知った。
「つくられた」ものごとの成り立ちや 観照を学んだ。
私は その道には 結局 進まなかった。
才能が なかった事もある。
わたしには 言葉や色や音で
あれやこれや 何かと いい分け「つくる」コト
自己満足のための「つくられた」私の
イイ ( 行為、行動、
身・口・意 の 三つの行為 ) カルマ に 気づいたからだ。
おのれの業の深さが
それ相当に 執心できる物事を求める
イケナイ自分を 正当化する 愚行である事を 思い知った。
私のせいしんは 、 かなしいかな すでに
間に合わせの
ちいさなみどり色の鉛筆と
ちいさな手帳を 私は後ろ手ににぎりしめていた。
肋骨のま上から「恥骨上縁」まで 切りわけられて
解剖台におかれている女体は
そのあざやかな 厚い切断面に ゆたかな脂肪をたくわえていた。
両脇にむきあって放心しているような乳房や、
空へむかって漂いのぼるようにあふれ出ている小腸は、
無心さの極をあらわしていた。
おのれの現実 を 受け入れる余地のない
こころない チ者 が
イイのがれを 繰り返し続ける
その 「よい自分」に 気づくワケがない。
Ready to listen
Willing to learn
And able to do
ACIMのコトバを きき取り始めたヘレンとビルへ
イエスからの個人的な メッセージのひとつとされている。
このコトバに 何かしら 引かれるものがあり 私は
いつでも見られるよう タイポグラフィ(文字アート)のオブジェにして
家で よく 目に付くところに 掲げてある。
-死ねばうちも解剖さすとよ。
漁婦坂上ゆきの声。
私にとって
ACIMは 文字通り「A」Course
私を表する 「イチ」媒体手段の ひとつでしかない。
-こげな奇病にかかりさえせんば、
あげな都見物は せんでも済んだろて。
ACIMでは「愛」というものを ならい学ぶ。
だが、かんじんの「愛」というコトバ自体
もともと 日本には存在していなかった、文字も 意味も
輸入された借り物、「つくられた」
「神の教師」「赦し」
「聖霊」「神」の「愛」ナル まっこと 「よい」 その文言
すべて ノシをつけて お返ししよう マら「兄弟」共
ふらあ 餓鬼まーやヤ
しに 精の 口 正 しがヤル
ACIMの布教活動は もとより
しみったれた 自己耽溺のイイあい でしかない
スピリチュアル・精神世界の啓蒙啓発なんぞ 小生 興味はない。
何 故 スピリチュアル・精神世界の
事物を マダ 必要とし続ける 自分 であるか?
何某のご高説を説き
共感めいた体験談などを もの語る その自分 何様だ?
懐素「自叙帖」(部分)
フチトット―
フチトット―
フチトット―
ひとに 答えを 与え求める前に
その自分を生きている 自らに 問いたまえよ
エカシオマンル フチオマンル
「ない」という自分が トウゼン と
「ある」身体を通してカタられる 矛盾した その
死の瞬間から
死者は オブジェに、
自然に、土にかえるために、
急速な営みを はじめているはずであった。
病理学的解剖は、さらに死者にとって
その死が 意志的におこなう ひときわ苛烈な解体である。
その解体に立ち合うことは、わたくしにとって
水俣病の死者たちとの対話を 試みるための儀式であり、
死者たちの通路に 一歩 たちいることに ほかならないのである。
欠落 が あるから かく。
(満たされない)(ふしあわせ)だから、行う。行為する。
そうせざるを得ない
未だ ここに イ続ける イケナイ そのヨイ自分じゃないのか。
スピリチュアル・精神世界なしには いきられない
ここにいる 「私」たちは みな
死人に等しい アリ難い バケモノだ。
運命を 覆すことなのです。」 と 諭す ヒーラーが いた。
虫が 一匹死ぬだけで 傷付く人だった。
樹の葉っぱが 一枚 落ちただけで、魂が 傷付く人だったという。
Ra'iti et-kol-hama'asim shena'asu tachat hashamash,
vehineh hakol hevel ure'ut ruach.
心も身体も 尋常ならぬ 痛みに苛まれながらも
彼女は 残りの生命エネルギーを 縁ある人たちに注ぎ、
後を託し、肉体を離れた。
30代 美しいはるべの盛りに 亡くなった。
良寛筆「天上大風」
Hevel havalim amar Kohelet,
hevel havalim hakkol havel.
自分の欠落や ふしあわせから 逃げなかった彼女は
いきものの苦しみを その身に 負っていたからこその必然、
悲しみ多い おのれの道から 降りることなく
全うした 、 愛ふかき人間であった。
あゝ こころある
事実を事実として 受け入れ
肺臓は 暗赤色をして 重くたわたわと とり出されるのである。
彼女のすんなりとしている両肢は 少しひらきぎみに、
その
彼女は 底知れぬ放意を、その執刀医たちにゆだねていた。

青山杉雨「殷文鳥獣戯画」
私のかきものを 理解し、応じられるものは サイワイ だ。
今イジョウによくなる。
ますます シアワセに
さらにさらに ヨク なっていくだろう。
理解「わかる」とは 畢竟 同一「チ」による
引き寄せ、一致、鏡の法則に共通する 「ち」のカルマの所為だ。
膨大な 記憶や思念を蔵した
多重多元の階層からなる
ゲンザイの 精神・霊的な 「チ」に 呼応する。
ここは ジツに 魅力的な
日常とは コトなる イ空間だ。
のぞまない人や物事と 繋がらなくてよい
自分のシタイが かなう「
近しい 同一「チ」のみの交合が
猛暑、厳しい寒波、
記録的な豪雨、旱魃、氷河の減少、
大規模地震、最近では 熊害が 日常茶飯事になった。
分かち合えるモノが 増え 豊かになればなるほど
自然は その摂理を乱す イジョウな 人間を 排除するだろう。
環境汚染、パンデミック、
急激な 社会変化に伴う格差、治安の悪化、混迷する世界情勢
先の見えない将来に 生じる不安・緊張 危機感を
分かりあえるモノたちが ともなり 幸せになればなるほど
彼らの目のいかない周辺では ヒジョウに 不幸な事象が 発生している。
全「チ」 全「NO」なるニンゲン様の
全き ハートの共感、同感、カルマ情念の ヨイのまま
全て ヨクなる。ますます ヨクなっていくだろう。
愛らしい カミの お成り だ。
ヨネモリ例ノ ノウショケンハ ヨクコレデ
セイメイガタモテルト オモワレルホド荒廃シテイテ、
ダイノウハンキュウハ ― 大脳半球ハ アタカモハチノス状
ナイシ網状ヲテイシ、ジッシツハ ― 実質ハホトンド吸収サレテイタ。
ひとの心身は 危機を覚えると
鎮静、多幸感、高揚を促す 防御反応 が 表われる。
解消されなければ それイジョウの代替物を 求めずにはいられない
生きもの 習性 だ。
長のオーバードーズに 晒された
心身は 持ち主を 拒絶し その主体性を 奪われる。
ビョウリガクタケウチキョウジュノコトバ
「ビョウリガクハ死カラシュッパツスルノデスヨ」
高次、低次の
せいしん「ち」を 解することない
同一「チ」に懸想する アテびとらである。
純潔なる 近しん「チ」の
代々の宿業宿痾は ソのままに 受け継がれ 引き継ぐだろう
ワンネス神人合一 ゲテモノらの とうゲンキョウよ 常しえに。
今なお 生きている人たちよりも、すでに死んだ人たちを私はたたえる。
いや、その両者よりも 幸せなのは、まだ 生まれていない人たちである。
彼らは 太陽の下で行われる悪事を 見ないで済むのだから
あの日、かえりの電車に 身を投げたのは 年わかい学生だった。
イマ わたしが ここにいるのは
しあわせな私が 見過ごし 見殺してきた
彼のような みを投げる外なかった いのちに対する 贖罪のためだ。
さようなら。
いま 私が 此処にこうしてイるのは
ココにおとズレた しあわせな ヨイ貴方たちとの関わり
同一「チ」一切を 断ち切る為の行 である。
草書千字文巻(部分) 文徴明筆 明時代・嘉靖24年(1545) 東京国立博物館蔵
自分の体に 二本の足が ちゃんとついて、
その二本の足で ちゃんと体をささえて 踏んばって立って、
自分の腕で 櫓を漕いで、あをさを とりに行こうごたるばい。
あのヒ わたしが
もういっぺん ― 行こうごたる、海に。
あゝ かえろう。
ともに いこう「うみ」へ。
※本文中の緑字は 石牟礼道子「苦海浄土」講談社文庫
青の3つの斜字文は すべて「コヘレトの書」デス♨











