すっかり 望みが なくなったときには、
 人間は 奇蹟を祈ることが できるわ。
 哀れな者には 奇蹟は起こるんでしょう?
 あたしは 哀れな女だったのよ。


 

 

   「コース たのしんで やってます?」

 12年前 ACIMを 学んでいるひとたちの 

 とある集まりで あるひとに そう聞かれ 困惑した。

 たのしげに 話しかけてきた そのひとの 

 つるんと光る がらんどうの目は 休憩中 ひとり

 ぼうっと 考え事をしていた 私に 許しの口実 を  見つけたらしい。

 

 そのひとの 身に 起こった  

 いわゆる奇 跡ミラクルな 話の数々が
 みるみるうちに 彼女と私の間に 積み上がっていく

 

    Oh  My  God.

 

 どうやら 「私」は 許されなくてはならない 彼女の 自我エゴ と 見なされたらしい。

 

 

私は 彼が 本当に真理を愛する人だという 先入観を もっていたけれども、

また 例の愛という言葉が出ると、彼の真理に対する愛も どんなに たくさんの

欲望に 分裂しているかが、はっきりしすぎるほど はっきりした。

 

 

 

 

ACIMの 決めゼリフで 畳みかける 

その気づかれないとふんだ  つよ気のシナリオ通り

 

  アナタは シアワセ ジャナイ。
  アナタは トテモ クルシンデイル。


愛に目のないひとの 「ない」と見なす  善行 だ。


トウゼン「ない」に 決まっている。

あっても「ない」に される。眼中にさえ「ない」

 

    ワタシは ヨのヒカリ。

    ワタシは スピリット。

     ワタシは ジユウだ。

 

 

カイ狎らした 

うるわしの 感動場面クライマックスは かくして 

「シアワセな ワタシが アナタを アイしてアゲる。」

 

お決まりの     大団円ワンパターン に  帰結する。

 

 

 

 

私が アセンションについて 初めて 知ったのは、
師匠の講義からです。ただし、使っている言葉は 別のものでした。

 

師匠は、最新の精神世界の情報を チェックしているわけではなく、
インターネットも やっていない。

師匠は よく、「次元が変動する」 と 表現していました。
昭和40年代から 既に 始まっている…と。


時代の変わり目は、霊的なエネルギーも よく動きます。


明治維新のときも、きっとそうだったと思います。


 新しい時代を 切り開くエネルギー。
 それに抵抗する 旧体制のエネルギー。
 両者の戦い。


 

  

 


師匠によれば、この地球で 生きる資格にも 直結するのが、
次元変動の影響らしいです。

仮に 地球を脱出することに成功しても、自分のカルマは 付いて回る。
どこに行こうとも、自分自身からは 逃げられない。

そういう意味で、「選別」 とも言える 
この流れは、非常に厳しいと。人間としての 輪廻の停止 を 意味すると。

しかし、人間として 積んできたカルマは 清算されていない。

次の生も 人間として やり直す必要があるのに、
そのチャンスが もう無いそういう人が 激増している。

霊界の存在にとっても、非常事態 に なっていると。


 

 

 

ひとは みな 自分ののぞむものしか   みとめない「よい」イキもの であるから


恐れなき 自らの「よい」言葉に  のぼせ上がる

「よい」ひとの顔、「よい」文体が  どんどん 単一の記号 に なっていく

 

そのハンエイを 目の当たりにする  イけない自分 を   正当化 したくも なろう。

 

 

 生まれつきの傷に対する償い、権力欲、気の毒な みにくさに

 つきまとわれた顔が、決して肉体的な欲情を 起こさせないために

 ますます強まる 崇拝されたい欲求。

 

ああ。誰しも  おのれの  無自覚な 自己愛ナルシシズム を 嗤えまい。

 

反知性の防衛。

いきものの本能。

馬鹿が馬鹿をみると 分かってはいても

腹はへる。認められたい。愛されたい。性交したい。 …寝たい。

 

 

   いけないジブンを ユルシましょう。

   シアワセな ワタシと ともに ユルシあいマショウ。

 

 

「よくしたい」「よくなりたい」欲求を 正当化するのに

神仏や真理、覚醒なる教えは  実に 都合がよい。ツカえる「万能」だ。

 

壊れた鏡が元のように

物を映しはしない世界で ひとつの夢を見得る

しあわせなひとの まったき現実には むげんの贄が ムゲンに「必要」だ。

 

 

   父を愛スルことは、父のコをアイすることでアル。

 

 目の前のエモノを 犯し すべて

 くい尽くす「よい」捕食者の愛も 恐れ多い父の愛だ。

 

いぶかる私の相づちさえ 

余さず 私の存在ごと 丸のみ 一体化を図る

「ワンネス」愛らしいワタシたちは みな 罪なきなき神の子と 崇められよう。

 

私は ひととして超えてはならない一線を 越えていた  コの  事実 に 気づいた。

 

 

 

 

私は当初、師匠の話が とても荒唐無稽に 聞こえました。
しかし、ある時期から、それが 真実だ ということに 気付いてしまった。

 

 

某ヒーリング教室の指導者が 10数年前に、

   「 これから先、 獣の唸り声を発する人間が 急増する 」 と 述べていました。

 

そしてその後、一年も経たないうちに、それが 現実 になった。

 

 

私の知人でもある霊能者達が、口を揃えたように

   「 人間たちの 魂の叫びが
       不気味になってきている 」
と 言い始めました。

 

 


 

私には それが分からなかったのですが、

ハートチャクラが 完全に 塞がれた人が 増えてきたなぁ、
という感覚は ありました。

更に 霊的洞察を深めてみると、
やはり 獣の絶叫 のようなものを 感じるのです。


今回の生が 最後のチャンスといっても、
それすら 気付かず、
相変わらず 魂を傷付ける 生き様を 続けている。

自らチャンスを 踏みにじってしまった。

 

 

 


わかちあいとされる場では さまざまな体験が 語られる。
 

語られる体験 より むしろ 
語られなかった体験の視座・・・・・・・・・・・・ から それらを観たとき


話すひとの 「よい」自意識 や 

 無意識の心中 が  かいまみえて  非常に 興味深い。

 

 

彼が  いびつな鏡と 美化する鏡とのことを しゃべっているとき、

私は  彼が 年頃になってから 今日までの年月、

鏡をみては 自分の頭の向き一つで  その鏡をいびつに 映させず 

美化させようと骨折ったことが  幾度か あったことかと 考えていたので、

いったい 何の話をしているのか 忘れてしまった。

 

 

1日 24時間365日  ×  自分が 生きてきた年数
膨大な体験、知識、経験を 有しているにもかかわらず

なぜ( その 事 象 ヒト・モノ・コト )を あえて 語り
      ( その 事 象 ヒト・モノ・コト )を  よく わかちあおうとするのだろう?

ナゼ ( その 事 象 ヒト・モノ・コト )を 沢山の ひとと わかちあいたいのか?

 

何故 ( その 事 象 ヒト・モノ・コト )を  わかちあわなければならないのだ?

                何ゆえに

語りは   語ることがらの 是非よしあしより  むしろ
そのひとのいる 次元いちスタンス を あらわにする 「はっきりと」

 

 

夢がトラウマになる… 映画『ドリーム・シナリオ』予告編

 

 

しかし、こういう人間が多い中、
本気で 進もうとする人に 与えられるチャンスが、物凄いことになってきた。

以前 何度か 話した 
超法規的措置 です。

たった 一つのカルマを 解消するだけで、
芋づる式に 10個・20個と、複数のカルマまで 解消される。
そういう時代に 入ったと。

波動感覚が 優れている人でも、
アセンションの波に 飲み込まれてしまっている人は、その事実を 感知できない。


宇宙の波に 乗ることは大切ですが、飲み込まれるならば  話は です。


完全に その波動と 同化 しており、事実が 見えなくなる。

幽界に 住んでいる 霊的存在と 同じ
周囲の環境と 自分が 同化 してしまっているため、

 

必要な気付きを 得ることができない。

 

 

 

 

   そのひとが  語るもの は 饒舌だ。
   そのひとを  語るモノ は「じつに」饒舌だ。
 

嗚呼、饒舌で あればあるほど ソコに 周到なトリックが 伏在する。

 

 

  彼が 神経質に、「一週に一時間。
 非常に あなたにはお役に立つでしょう」と 言ったとき、
  それは 小さな頼みのように 思われたので、
  私は思った、
  私には いま 時間は まるごと残ってるんだわ。
 本も 読めるし、映画も見られる、
それなのに 私は文字も 読まないし、見た映画だって 忘れてしまう。
 自分のこと、
自分のみじめさが、
私の耳に 太鼓を鳴らし、私の眼を ふさぐのだ。
ほんのしばらく、今日の午後は それを忘れた。
 

 

 

感覚が 鈍くても、
自己観察 を ベースに生きている人は、

必要な気付き・理解 が 得られるようになっています。


隠されてきたものが どんどん 浮上しているため、
自分で ブロックしない限り、気付くのが  容易に なってきたわけです。

その意味で、悟りに至る者、覚醒に至る者が 
 出やすい時代 なのかもしれません。

以前なら、アストラル次元のカルマを 癒すだけでも、
現象化を ストップ、ないし 軽減することが 出来た。

しかし、現在は、それを超えた スピリチュアル体のカルマまで
ダイレクトに 浮上するように なっています。

 

 


 

現象化が 早い早い。
 
宇宙の時間が 加速しているのでしょう。

 

ただし、勘違いしてほしくないです。
 我々は カルマ解消のために 生きているわけではありません。

人間は 本来、
ハートの求める体験 を 積むために 生まれてきた。

 

    その障害となる カルマを積んでしまったことが、

    悲劇の始まり だったのです。

 

 

 

 

私は その顔に手を 触れたい、

その傷に まけないほど  いつまでも 消えない

愛の言葉で 慰めたいという、とても 大きな欲求を感じた。

 

 

そのひとが そのひと自身で「いる」ために


「ある」 特定のひと、

     特定のもの、

     特定のことに 紐づけた 

「よい」感情、「よい」選択、「よい」行動をとる。

その おおかたが ソの通り・・・・

       「ありのまま」

       「あるがまま」 

       「そのまま」と イイ続けて よく ヤっていよう。

 

 

故に、「ハートが求める体験」
   「カルマ解消」を 両立させなければならない。


主体になるのは 前者であり、
その障害因子を 浄化するために、カルマ解消を すれば良いのです。

 

スピリチュアルや
精神世界に関する知識を いくら増やしても 無駄です。

本ブログの記事も、知識欲を満たす目的ならば、何の役にも立ちません。
むしろ 障害になるでしょう。


宇宙が どの様に変化しても、その世界で生きるのは 貴方自身。

 
 

 

 
なぜ スピリチュアル、精神世界、ACIMが  必要だろう?
    「愛」があるから? 「正しい」から?「真実」だからか ?

ナゼ  そうだと「わかる」のだ?

     何が「愛」で 何が「正しい」 何が「真実」か 「わかる」?     

 

何故   全て そうだと 断言できるのか?   

    本当に 「全て」わかって ヤっているのか? 

  

    いうだけなら、子供でも  オウム鳥でも  AIでも できるコトだろう。

 
 
 「 あなたは 幸福を 信じていらっしゃいますの? 」
 「 僕は どんな 絶対的なものも 信じません 」
 
彼が これまでに得た 唯一の幸福は これなのだと思った―
 ひとを慰め、助言し、助けることができるという考え、
自分がひとの役に立つという考え。
 
 
 
 
   カルマを1個 解消すれば、
   芋づる式に 100個のカルマが 解消されるかもしれませんが、

   そこには 一つの 前提 が あるわけです。

「 最初に、その一個のカルマを
  解消しなければ、他のカルマも 消えない」
のです。


 
貴方自身が 
動かなければ 意味がない。

貴方の 今までの人生は、貴方自身が 積み上げてきたものです。

全ては 貴方が 貴方自身の生き様を 選択する しかない。
 

 

 

 

  「 私は世の光 」 「 私はスピリット 」「 私は 自由だ 」

 

この言葉通り あらせられる  より「よい」神の子様 が  モッタイなくも
イケナイ人間を お救い下さる 上から目線の 『傲慢さ』

 

 

    「 私は 過去だけを見ている 」

    「 私の考えには 何の意味はない 」

    「 私は 何が 何のために あるのかを知らない 」

 

この言葉の通りに倣う  より「よい」神の使者様 が 同じ 

より「よい」ご兄弟と 同じ より「よい」罪悪感の絆 を ヨク深めあう『外 道』

 

 

「あなたとお話しして、ようございましたわ」と 私は 言った。 

「あなたは とても 私のこころを はっきりさせて下さいました 」 

彼に 与えることのできる慰めは これ一つだった 

 ― 彼の幻想に エサ を やること。 


  


  

 知識や思想、教えを 選択するのではなく

 「貴方自身じぶんを 選択する必要があります。

 そして、それこそが、

 真に 役立つ知を 選択できる エネルギー になります。

 矛盾した言い方ですが、
この意味を 理解していただきたいと思います。


                 R「CH」K 「アセンション・エナジー」2009-6-2

 

 

いん なうみね ぱあちりす ゑつ 
ひいりつ ゑつ すぴりつ さんち 

     あ  め  ん
 
私は 祈りたかった —
もし 彼の傷が なおるものならば、何か 
異常な犠牲を捧げたいと。
でも いまは 私には 捧げるべき犠牲は 何一つ 残っていなかった。


 

 

   To them God's teachers come, to represent another choice

   which they had forgotten. The simple presence of a teacher 

   of God is a reminder.  His thoughts ask for the right to question 

   what the patient has accepted as true.  (M-5.Ⅲ.2.1:3)




※ 文中の緑字は グレアム・グリーン「情事の終り」田中西二郎訳(新潮社)です♨