あのね
うそをついたら
かおにかいてあるの
かおのけっかんでかいてあるの
おとなによめて
こどもによめないの
 
      「うそ」すぎたにかおる(4才) 

 

 
振り返ると いま此処にいる 「私」の
ターニングポイント になった かきものがある。
 
旧ブログ初期に 公開したエセー
 「 2014 奇跡のコース「特別性」についてのレス。 」(2017.7.23)  
  
今から12年前 
ACIMの とある学習者の集いで 発表した このブログの 原点オリジン だ。
 
話をするのは 好きじゃない。
かきものは もともと嫌いだった。
 
 
「秋津島 大和の国は 神からと 言挙げせぬ国」
  と詠んだ にんげんなら 理解してくれるだろうか。
 
  「そのもの」を 言葉に 貶める 過ちを犯してまで
   「 然れども 我は言挙げす 」と 
 言葉に遺さずにはいられない にんげんの無明おろかさ を。
 

  あのねせんせい

  ぼくわ

  ゆめをひとりでみるからこわいの

 

            「ゆめ」みねまつ たけし(4才)

 

 

 

 

そのブログの 原点オリジン には

今とは 若干 違うスタンス が いくつか ある。 

 
例えば ACIMで 多用される「聖霊」という概念ことば

現在の私は  殆ど 使わない。
「聖霊」にまつわる学課を 学び終え、もう この御守は 要らない
なくていい、過去 の ものになった。
 
  ACIM学習者に よくある
  「赦し」なしには いられない 切迫感・渇望感 
  「自我」による 負い目・引け目 
も あまりかんじない

 私にとって ACIMに 関する概念、用語は 既に 死語 に近い。

 

 

 

 

ぼく

うまれなかったらよかった

だってしぬのがいやだから

 

            「ぼく」みねまつ たけし(4才)

 

 

スピリチュアル、

精神世界にかかわるものならば  ひとより

ものごとを せいかくに 慎重に 発話しなければならない

 

何かを言葉にする行為は「embody」 方 便でっちあげ だ。

 

うそをつく事と同じ

 

「ある」ものを 言葉に 

とどめておくために 作られた 絵空事つくりごと だ。

 

いつわりごとを成した 

言挙げの責任は 当然 行為者ぼく に 求められ、問われる。

 

 

 

 

爾為言挙而詔、是化白猪者、其神之使者。

雖今不殺、還時将殺而騰坐。於是零大氷雨、打惑倭建命。

(此化白猪者、其神之使者、当其神之正身、因言挙見惑也。

 

 

「ある」ことを のぞみ、みとめ、

 ききとして それを 言葉にヨクする にんげんは 餓 鬼バけもの と化す

 

 自業自得のコトわり だ。 一筋縄ではいかない。

 

 言葉をあつかうものは 自動的に 

 各々の 言語の呪縛 による、多重の 因果律アイ・ぜん に 服する事になるから。

 

 神は 言葉を 理解しない。高次のものに ひとの言葉は 必要ない。

 

 

 

 

What you ask for you receive.(M-21.1:3)

 

  ソレ故 ここにしるされた言葉を 理解する必要はない。

  知る必要もない。

  共有も共感も 要らない。

  実相わたし は 言葉ではないのだ。

 

I will step back and let Him lead the way.(W-pI.155)

 

  私は ソレを 言葉にする

  必要じたい「なし」にする

  ことのはのはな、あなたをよみする 風月みち を 贈るとしよう。

 

 

 

 

・・・ I listen and hear and speak ・・・・・・

 

 

“ 今回 参加いたしました 奇跡のコースのセミナーで 

 ひどく 不快な気持ち になり 難儀しました。

 その気持ちを ことばで表わすなら
 いらだちのようであったり、怒り、きりきりとした切迫感、やましさ、
 そういったものが  ごちゃまぜになったような気持ちでした。

 私は  平常 感情的に安定しているせいか

 

 そのような 何とも 覚束ない状態が いやでいやで たまらなく
 そう思えば思うほど 混乱と困惑  を 感じざるを 得ませんでした

 

 

 

 

おおはたさんはかじくんがすきで

かじくんはおおはたさんがきらいで

かじくんはわたしがすきで

わたしはかじくんがきらいです

せんせい こういうとき

どうすればいいのかおしえてください

 

          「すきどうし」かわつ ゆう

 

     セミナーの後、私は いったい 「何に」反応したのか、

 
ひとつひとつ 思いを たどっていくうちに、
それが 「 何か 」解った ように思います。

エゴが使う 攻撃のなかで 最も微妙でわかりにくい
そして 最も強力で 油断のならないもの

それは「特別性」、「特別な関係」、
特別性のかたちの一つ 「特別な愛の関係」 ではなかったか、と。

 

 

特別性や 特別な愛の関係について 

ワプニク先生が とてもわかりやすく ご説明されていました。

 

コースにおいて 罪悪感を表わすもののひとつに
「何かが 不足していたり欠けていたり不完全で 何かもの足りない」といった感情 
これが 特別性や 特別な関係の 基盤に なっていると。

私たちは そういった 欠乏感をもっているために
それを満たす「ある」特定の
必要ヨイ を 求め、所有し続けなければ いられない 
 
自分を 神より 特別な  イイ大 神おおカミ に してしまいました。
 
 
特別な人、特別なもの、特別な慈善行為 
特別な愛情、特別な体験 ( 悟り、覚醒、万能感 )
 特別な一体性アイデンティティ、特別なコミュニティが  是非とも 必要 でしょう。
 
(特別な愛の関係)を 
わかりやすい 別の言葉でいうと「依存」だそうです。

 私は  自分の必要を満たすために あなたに 依存するようになり、
あなたも あなたの必要を満たすために 
     私に 依存するよう仕向けているのだ、と。
 

 

セミナーで 私は はっきりと ソレを 認識 しました。

 

 講師を 偶像の神のように 崇拝、あがめたてる ヨイご信者様な人

 自分で作った問題を ひとにマル投げ
 解決させようと 誰かに とりすがる 主体性のない 優柔不断な イイ人

 自分に 都合のいい人の言動を ダシにして
 コースをよく理解し 実践している いい自分に とりつかれたヨイ人

 自分の気持ちから 目をそらすため、テキストを 熱心に 通読読解、
 ワークを 何周も繰り返して、コースの学習会、シェア会に 欠かさず参加する
 「いい生徒」でいられる よい自分に 逃げるイイ人

 自覚していない 恐れを見くびり
 じしんの成功体験を 絶対視した 「投影」「あなたは わかっていない」などと 
 いい自分の 知覚認識カチかん で イけない人に マウンティングし続ける お幸せなヨイ人


    

 

ソレよりも コースそのものから
何ナニを「超える」といった 手垢のついた アリふれた ことば で 

私を縛り上げ  愛らしい 特別な 聖なる神の御子に 作り替えようとする

 

イジョウの過ぎる カミの 妄執 を かんじました。
 

    こもちししゃもをたべました 

    ぼくのおなかのなかで 

    ししゃもがうまれないかしんぱいでした

 

                 「こもちししゃも」しまだ いっぺい

 

 

「私」は 私が 大切にしているもの 

     コースを学んでいる人たちを そんな風に 見たくはなかった。

でも 「私」は そんな 魅力的な 罪深いヨイを 切望 していた。

そのような 無明の「私」に 罰を要求する罪悪感、

犯した過ちを転嫁できる イイ身代わりを  必要 として イましたから。


  

 

そのとき 本当に 苦しくて辛かった…
その思いを 手放せない自分が 憎くて憎くて 許せなかった……

聖霊に この思いを 手放せるよう 私は 助けを 求めました。
ですが 彼は答えません。
 
当然です。 そのときの「私」は 助けなんて 本当は 望んでいなかった。

感じていた 憎しみは
間違った見方を 私が 選択したただの反映 に すぎません。

 

 

     よるそらをみると 

     かみさまがみえるようだ

 

                    「よる」 ひわ ゆきこ

 


 

 

自分の ヨイ行いの原因(誤った選択)を 黙殺 して、
生じた結果(苦しさ、辛さ、憎しみ)だけ を 取り除く助け は

 

     まったくの  本 末 転 倒 。

 

誤りを 温存させてしまうばかりか、

 一時的な かりそめの 幸福ヨイに かまけ 事態を さらに 悪化させてしまう。

じしんの原因そのものに 対処しない限り、
罪悪感は かたちを変え 同じことを 何度も何度も 繰り返す。カルマ。

 

 終生、ソの  ムシかえし に おわれましょう。

 

      私たちは、まさに 今この瞬間も

     イイ自分というモノを 作り、保存し
    そのイイ自分と 同じモノを 増やそうと 懸命に

「この自分」を 守ろう、イきようと いまココに いるではありませんか。

 

 

 

 

  ぼくは

  がっこうがきらいなのに

  おんがくかいのよびかけのとき

「がっこうはたのしいね」

  っていうかかりに

  なりました

 

          「よびかけ」くぼ かつよし

 

 

この「自分」だと

信じていえる この言葉じたい エゴのものです。


 エゴと 一体化 している 私たちは 誰しも 

 自分自身や 

 自分の行いを「ありのまま」

 ただしく「みる」ことなど 出来やしません。


 

 

「神」「愛」

「光」「幸せ」という言葉で

 「本当の自分」と 正当化したがる

 そんな ヨイ自分の 誠意や 決意など 私は 要らない。


自分を  美辞麗句イイナリで  誤魔化さない。教理 ドグマ 思想 に  逃げない。

 

 

  隠さず、偽らず、アリのまま

 その原因である 自分という この 信念アイ・ぜん

 私は たち向かいたい。
 

       間違っていい。

       繰り返し 、繰り返し、

  何度でも。乞えばいい。求めればいい。


  「私は 何もわからない、教えてほしい」と

 

私は あなたに 助けを求めたい。

 

 

 

それが コースのいう
狂っていきている この
自分エゴが できる   唯一のこと。

でも 私たちは すぐに イのままになる

身綺麗なエゴを 自分だとみなして、忘れてしまう。

 

・・・ほんとうに どうしようもありません。

聖霊は それでも 

こんな愚かな私たちの 選択や求めも、 受けとめているみたい。


「どんなアナタであっても  わたしは 貴方を 見捨てない。」 
 

荒れ狂う感情 の中 

あの時
そう私に 伝えているような

やわらかい

穏やかな沈黙 「あなた」を 私は 確かに この裡に 感じていたから。

 

 

 

 

セミナーに 参加する前、

聖霊に 私は ある「お願い」を していました。
 

「 これから 会う人たちを 

 特別な思いをもたず、知ることができますように 」って。

 今思うと 私は 

 このセミナーに 参加すると 決めた時、

「 このレッスンを 引き受けます 」と 暗黙のうちに 了解したのでしょう。

 それゆえ 聖霊は、私が 隠し持っていた

 様々な 特別な思い(罪悪感)を 取り除けるよう

 セミナーに 参加していた人たちを通して 私に ソレを 見せたのかもしれない。

 私自身の 
障壁とくべつを 通り抜け わたしの本懐を 果たすため にも。

 


 

 

おつきさまは

わたしがうごいたらうごいているでしょう

わたしがとまっているままで

ほかのひとがあるいていると

わたしのおつきさまはとまるけど

ひとのおつきさまはうごいてる

おつきさまはひとつしかないのに

 

         「おつきさま」うちだ ようこ

 

 

みなさんが「奇跡のコース」と出会い、

コースを学ぶに 至った経緯は  ひとそれぞれ、理由も 様々でしょう。


 ・・・・・・私は  知りたいと 思ったんです。

 

   「 私は いったい 何なんだろう 」って。

 

 

 

それが 知りたくて、私は コースを 学んでいます。

ですから 私は「自我だ」という 思いや意識

     私は「神の子だ」という 言葉やイメージで 

 

  「 私」を 使いたくない。

   そんな たくさんの イイ名札 は 要りません。

  でも、今 こうして「ここ」にいる以上、
   私は 「ここ」に ある 誤りというモノを ただすため


    「ココ」で 「この私」を 使いましょう

いまここを 始めたものを 終わらせる。

  これが あなたの与えたレッスンへの 私の応えです。

 

 

 

 

※ 文中の詩は「一年一組せんせいあのね それから」鹿島和夫編(理論社)より

  すべて 小学生以下の子の詩デス♡(現在は ぜんいん 立派なオッサンオバハンになってますWWW)