先週末は宮古市で開催された、磯鶏ミニバスさん主催の「宮古交流大会」に参加してまいりました。

 参加チームは、沿岸宮古市周辺のチームが主体ですが、南は水沢みなみミニバスさんとか飛鷹ミニバスさん、北は...葛巻ミニバスさん...久慈ミニバスさんか。盛岡からは上田ミニバスさん、北上からは黒北ミニバスさんとウチ、黒西ミニバス、その他大勢(いっぱいあって忘れた)の参加する交流会です。

 でも、とても雰囲気はアットホームで、メンバーが10人に満たなくても基本的にOK、チームの特色次第では、例えば

「ウチは6年生1人しかいなくて、でもその6年生が捻挫して出られないんだけど...しかも、主力が4年生になっちゃうんだよね(汗」

「了解、じゃあ、ウチらも4年生中心で出すよ。5・6年生は1と2だけにするから。」

みたいな、お互い事情を隠さずに本音で?ゲームができます。あとは...

「対ゾーンディフェンスの練習させてもらえる?」

「いいよ!」

とか、本当に“練習”試合になりますね。

 とは言っても...ゲームになればソコはソレ。当たり前ですが子供たちはどうしてもそのへんの「大人の事情」は忘れてしまいます。でもまあ、お互い真剣になるからこそ練習になるわけで、そう考えても、本当に参加する意義の大きい交流会だと思います。

 2日間で...4ゲーム。結果は3勝1敗。でも、組み合わせは磯鶏ミニバスさんがだいたいのレベルのチーム同士を組んでくれているので、どこが強いとかはあまり関係ないです。なので、結果というよりは内容が問題になります。

 で、内容はというと、んーん、どうでしょう...評価が難しい(実は簡単なのですが)。

 それこそ4年生組はまあ及第点をあげることができますが、5、6年生は届いていないですね。厳しい言い方をすると、今のままでは県大会は無理。

 「練習の成果が出てないなあ」

という声も聞きましたが、そういえば私はこの「練習の成果が出ていない」というフレーズには疑問を持っていて、それはないだろうと思っています。成果は常に出ているだろうと。

 勝った時の話はいいとして、要は負けたときですよね。でも、成果が出ていないから負けたのではなくて、「負けるような練習(或いは練習に対する姿勢、心構え)をしていたから、または勝つための練習量(努力)が足りていなくて、だからその結果負けたのだ。」と、そう考えています。

 仮に、「今回は練習の成果を出せなかった」というフレーズは正しいとすると、負けたのにそれまでの練習内容は正しかったということなります。そして、成果が出せるかどうかはその時の運次第ってことになりますが...でも、それはおかしくないですか?
 練習の成果を出せないのではない、常に出しているんです。出せているんです。ただ、結果に至るまでの過程が間違っているから、だから望んだ結果が出ない。

 だから、負けたときに反省するわけです。「勝つためにはどうしたらいいか」と。そして、より良い(と思われる)方法に変えていくわけですよ、練習とかを。

 運命などというものは無いです。絶対に無いです。あるのは「結果」です。我々が行動した「結果」だけです、あるのは。もし、運命なんてものがあるのなら、努力する意味はありません。でも、実際は努力次第で人生は切り開くことができる。だから、運命なんてものは無いんです。無いと考えましょう。
鵜飼い・鵜飼・鵜養(うかい)は、鵜(ウ)を使ってアユなどを獲る漁法のひとつ。(フリー百科事典Wikipedia:「鵜飼い」より)


 盆と正月、その他入学式や卒業式、運動会、陸上の大会などまで、ウチの子供たちが祖父さん(まあ、自分の父親だ)に挨拶に行く機会は多い。

 挨拶に、と言うとなんだが、要は、孫がじいちゃんにおねだりというか、その...なんだ、現金というよりは何かしらのモノを買ってもらったりと、そういう機会のことを意味する。

 我が家では、コレ(そういった機会にじいちゃんに娘たちが何かを買ってもらうこと)を、

 鵜飼い

 と呼んで、それは我が家の行事の非常に重要な位置を占める。

 もちろん鵜匠は自分や嫁であり、娘たちが 「鵜」 なのは言うまでもない。

 親バカで恐縮だが、ウチの「鵜」は結構高性能だと言える。孫としては男よりは女の方が可愛いのはいうまでも無かろうが、学校の成績やら陸上の成績などは、「鵜」にしておくのがもったいないほどのレベルであり、そのうち「鵜」の方から、

 「もっとレベルの高い鵜匠の元にトレードさせて下さい」

 などと言われぬよう、鵜匠として親として日々の研鑽は忘れぬように心がけている。もちろん、日々のウエイトトレーニングもその一環だ。

 今週末は上は陸上の県新人戦大会、下は学習発表会、その後も様々な大会、記録会が続く。「鵜匠」としても腕の見せ所が続くわけで、まさに文字通り、「腕が鳴る」

 
 昨日弊社の取引先の銀行の方が(様子見に)弊社に来られて、まあ急に寒くなりましたね、とか、だいぶ忙しいようですね、などという至極当たり障りの無い会話を我々は楽しんだのだけれど、会話をしながらいろいろと考えてしまったわけで、それが何を考えたのかというと、建設業(或いは建設産業)における公共投資の乗数効果が近年は昔ほどではないよね?などというちょっと小難しい話であった、という話。

 乗数効果などという専門用語を持ち出したわりにはそれなりの統計をそれなりに分析したわけでもないのだけれど、被災地である岩手で(でも内陸に会社があって)必死に毎日を生きている中小というよりは零細に分類される我が社の経営しながら、ここ数年の経済の移り変わりをたいしてケアもしていない凸凹になってしまった自分の“肌”で感じ取ったという...「単なる実感」としての考えを行員さんにぶつけてみたわけであって...まあ、結局はこれもまた、他愛も無い会話のうちだと思えばそうだといえる。

 結局どんな話なの?というと、例えば...

①被災地に復旧復興の予算がガッツリつきましたよ

②地元の業者が鬼のように忙しくなりましたよ

③資材の単価や労務単価が短期間で上昇していますよ

④でも発注単価もそれなりにスライドしてくれる(ハズ)なので、それなりに利益は確保できますよ

⑤沿岸の企業(それか積極的に沿岸に打って出ている企業)は絶好調←今ココ

 建設業を中心として、忙しいし売上も確保できているし利益もそれなり...のはずなのだけれど、例えば建設業従事者が、まあ、忙しいから時間外の分や単価上昇分などで可処分所得が増えたとして、それをどこで消費するか?という話。

 昔であれば地元の商店や地元のスーパーで日常の買い物をして、そして地元の飲食店で外食したりしたわけで...これがそれらの商店や飲食店の収入に寄与すると、今度はそれらの方々もまた消費行動を変化させたり設備投資したり...そういった波及効果を見込んだわけだ、建設投資ってのは。

 でも、今は実際はどうなってるのか?というと...日常の買い物は専ら某大手スーパーで済ませて、日用雑貨や薬品なんかも大手チェーンのドラッグストアがあって...ちょっと小洒落た買い物は足を伸ばして...この辺なら盛岡や仙台まで...なんて具合なわけで、なかなか地元の商店にお金が落ちるかと言うと、そうでもない気がする。

 なんか...産業間の断絶が...断絶と言っていいかどうかはわからないのだけれど、そういうモノによって、せっかくの地元の総可処分所得(というか建設業従事者所得)が地元経済に活かされない、とか、そんな気がするわけで、そんな話になったわけだ。

 話し相手の某行員さん...実は政府系金融機関なんだけれども、日頃地元優先を謳いながらも経営の効率化を強く訴えている手前、素直に「そうですよね」とも言い辛いのはわかるが、こっちとしては、「でも明らかじゃん」としか言えないわけで、そう考えてみると、地元建設業が生き残ることと、地元の中小商店街が生き残ることは、セットで考えなきゃならんのかなあ...なんて思ったりして、最後は二人して「ムムム...」と唸って終了となったわけである。

 だれかこんな部分の研究とか...学生の卒業研究レベルでもいいのだけれど、してないかなあ...ないか。