10月12日(祝)、「鉄道の日・西日本乗り放題きっぷ」を利用して、福知山から舞鶴へ。
福知山から、舞鶴線で、13時半頃に、東舞鶴駅へ到着しました。
此処から、バスで、先月28日にリニューアルオープンした、「舞鶴引揚記念館」を訪れました。
昭和20年(1945年)第二次世界大戦の終結に伴い、当時、海外に残されていた日本人は660万人以上とも言われ、これらの方々を速やかに帰国させなければならなくなりました。
此れを「引揚げ」と言います。
舞鶴港は、政府が指定した引揚港の一つとして、昭和20年10月7日の第一船の入港から、昭和33年(1958年)9月7日の最終船まで、実に13年間の長きに渡り、其の使命を果たしました。昭和25年以降は、唯一の引揚港として、舞鶴の名を全国に広げました。

「引揚記念館」は、昭和63年(1988年)、多くの引揚者が祖国への第一歩を踏みしめ、人生の再スタートを切った、舞鶴市平の地に、全国から寄付金を受けた舞鶴市が設立したものです。
館内には、シベリア抑留中に使用した、コートなどの防寒着をはじめ引揚證明書などの文書類など、全国から約1万2千点の貴重な資料が寄贈され、常設展示にて1000点を超える展示が行われています。

白樺日誌 シベリア抑留中に、紙の代わりに白樺の皮を使用し、空き缶を加工したペンで煤を水に溶かしてインクにして、日々の想いを和歌にしたためたもの。およそ200首もの和歌で構成され、家族や故郷への想いのほかに、抑留生活中のことが表現豊かに綴られています。度々あった収容所での所持品検査を始め、出港地のナホトカや舞鶴での所持品検査を潜り抜け、奇跡的に没収を免れました。作者は舞鶴市出身の瀬野修氏(1908~1995年)。樺太で終戦を迎え、その後シベリアへ連行され2年間の抑留生活を送りました。

舞鶴では、主として旧ソ連、中国などの大陸からの引揚者を迎え入れ、13年間に66万4,531人の引揚者と1万6269柱の遺骨を受け入れました。終戦時、大陸に残された日本人およそ57万人がソ連へ送られ、その内の約47万2千人がシベリア各地の他、コーカサス、北極圏等の収容所で長い年月、辛い抑留生活を強いられました。

引揚記念館から、15~20分程歩いた、舞鶴湾口に、引揚桟橋が復元されています。
大丹生沖の検疫錨地から、クレインブリッジ(下の画像、前方の白いつり橋)近くに着いた引揚船に、はしけが横付けされ、引揚者ははしけに乗船して、平桟橋に上陸しました。

70年前、戦争が終わっても帰らぬ息子の無事を信じて、港の岸壁で待ち続けた母。昭和29年にヒットした歌謡曲「岸壁の母」のモデルとなった、端野いせさんは、消息が分からなくなった息子の無事の帰りを待ち続け、昭和56年7月、81歳でその生涯を閉じました。
今から、70年前・・・。多くの方が、シベリア等、抑留され過酷な労働を強いられ、命がけで祖国へ。無事を信じて、待ち続けた、家族の想いが、此の桟橋に。
二度と、あの様な想いを、繰り返さない。此の桟橋から、平和へを願い、舞鶴を後にしました。