昨日、SNSで見かけた台湾の地震の映像に、2011年の東日本大震災の記憶が呼び起こされ、胸が締め付けられるようだった。
あの震災は、我が家がアメリカ移住を決断する直接の契機となったので、忘れたくとも忘れられない、まさに私の人生の転機となった日。
15年近い歳月が経った今なお、私自身がこれほどまでに揺さぶられるのだから、大切な方を亡くされたご遺族の心労はいかばかりかと拝察してやまない。
記憶に曖昧な部分は残るものの、当時の歩みをここに書き留めておきたいと思う。
まず、震災から遡ること約2年、リーマン・ショックによる金融危機が起きた時、金融業界のヘッドハンティングを主業としていた夫の事業は大きな打撃を受け、当時イギリスの大学に在学中だった娘は、学費の工面が困難となり帰国を余儀なくされた。
それから2年半後、あの震災が起きた。
娘は24歳、10歳年下の息子はまだ中学生という多感な時期。
震災当日、私たち夫婦は自宅にいました。
二度目の大きな揺れに見舞われた際、私たちは互いに、さようなら、と言葉を交わすほど本能的に死を覚悟するほどの恐怖でした。
東京都心でさえこれほどの衝撃であったことを考えれば、被災地に近い地域にいらした方々の衝撃や恐怖は、想像を絶するものだったに違いありません。
息子は当時、調布にあるアメリカンスクールに通っていて、渋谷の自宅からはスクールバスで通学していました。
通常であれば首都高速を利用して40分ほどの道のり。
地震が発生したのは、ちょうど放課後のことで、息子がバスへ向かおうとした際、スクールのエントランス付近の屋根が崩落し、間一髪で恐怖を味わったそうです。
なんとかバスに乗り込み校門を出たものの、携帯電話は不通となり、首都高速も閉鎖。
一般道は大混乱に陥り、その日のうちに帰宅できる保証はどこにもありませんでした。
そのような極限状態にありながら、バスの車内は比較的穏やかだったと聞きました。
園児から高校生までが共に過ごすなか、幼い子供たちにとって、その状況は恐怖以外の何物でもなかったはず。
トイレ休憩で立ち寄ったコンビニでは、高校生たちが自ら進んで自腹を切って、スナックや飲み物を買い求め、年下の子供たちに分け与えてくれたというのです。
結局、息子が帰宅できたのは8時間後、夜11時過ぎでした。長時間バスに閉じ込められながらも、慈愛に満ちた機転によって守られたのだと思うと、胸が熱くなり言葉もありません。
思い出が尽きなく、続きは改めてにしようと思います。読み進めてくださった皆さまに感謝です💝💖🙏