震災後も毎日のように続く余震に、私たちは怯える日々のなか、
娘と、アパートをシェアしていた彼女の友人も一人でいるのは怖いと我が家に合流。
人間5人、ウサギ1羽、そして我が家のインコ6羽という、総勢12名の賑やかな共同生活が始まった(笑)
ある夜、大きな余震に見舞われた際には、あまりの怖さに全員が私たち夫婦の寝室に集まって来てそのまま眠ったこともありました(笑)
それほど必死でした。
また、被災地のような物理的な破壊は免れたものの、当時の東京では目に見えない放射能への不安も強かった。
今でこそ、福島原発事故の影響はチェルノブイリよりずっと小さかったと科学的に裏付けられていますが、当時は違いました。
テレビは連日、放射能の恐怖ばかりを報道。
楽観的な私と違い、健康意識の強かった夫は、自分のことよりも子供たちの未来に何かあったら、という不安に、日々さいなまれていました。
さて、震災から2週間の自宅待機を経て、息子はようやく学校へと向かいました。しかし、登校した彼から聞いたのは驚くべき状況。
生徒だけでなく、教員の半数までもが母国に帰国したまま、戻ってきていないというのです。
その後、徐々に学校へ戻る人は増えましたが、最終的には全生徒の約25%が日本を離れる決断をしたと聞きました。
そんな中、夫は、リーマンショック以来、ダイニングテーブルで頭を抱えて沈み込んでいることが増えていました。
このままでは彼が壊れてしまいそうな気がして、ある日、夫に、そんなに苦しい思いをするなら、もうやめちゃいなよ、と言ったら、
夫はハッとした顔で私を見つめ、本当にいいの?と、聞き返してきました。
いいよ、と言ったらその日から本当に仕事をしなくなって、今度は逆に私の方が不安になったと言う(笑)
一方で、アメリカの義妹が心配してメールや電話がひっきりなしにかかってくる。
アメリカで日本の震災がどのように報じられていたのか、当時の私には知る由もなく、しかし、義妹にとっての日本は「津波に飲み込まれてしまった小さな島国」であり、まるで世紀末が訪れたかのように映っていたようです。
彼女は兄である夫を、今すぐウィスコンシンに戻ってくるべきだと必死に説得し始めました。
自分たちが所有している家の一軒が、3月末で空くからそこへ住めばいいじゃないかと、
彼女はそう言い、私たちの避難先まで具体的に用意してくれたのです。
震災がもたらした放射能への尽きない不安、リーマンショックから続いた夫の事業不振、そして義妹からの温かいサポート。
これらすべての要因が重なり合い、私たちの家族はアメリカへの移住という決断をしました。
日本在住歴26年の夫は、家族の誰より悲しそうで、後ろ髪を引かれるようだと言った。
移住当日、成田空港へ向かうと、そこで息子の同級生家族二組に出会った。
言葉を交わすことができた一組の親子は、シアトルに移住すると教えてくれた。
息子が通っていた学校の生徒が激減していた現実を実感した瞬間でした。
こうした状況で不謹慎に聞こえてしまうかもしれないが、災害という非常事態は、皮肉にも家族の結束をより一層強めてくれた。
今、当時を振り返ってみても、不思議と辛く恐ろしい記憶より、皆で寄り添って食事を囲んだことや、一つの部屋に集まって眠ったことのほうが、より鮮やかに心に残っています。