私たちは、むなしさから逃れるために、多くの気を紛らすことをする。
パンセ(パスカル)には、沢山の例があるが、いくつかをあげてみます。

 

そして、死についても、気を紛らすこととして

「死というものは、それについて考えないで、それを受ける方が、その危険なしにそれを考えるよりも、容易である。(断章166)」

「人間は、死と不幸と無知とを癒やすことができなかったので、幸福になるために、それらのことについて考えないことにした。(断章168)」

 

はたして、気晴らしなどをして考えないようにすることで、死と倦怠を越えられるのでしょうか。
われわれの惨めさを慰めてくれるただ1つのものは、気を紛らすことである。しかしこれこそ、われわれの惨めさの最大なものである。なぜなら、われわれが自分自身について考えるのを妨げ、われわれを知らず知らずのうちに滅びに至らせるものは、まさにそれだからである。(断章171)

            

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オプジーボによる化学療法が始まって2巡目です。3週間毎に通院点滴する事になっています。

 

昨年の11月に「来年のサクラは見られない。」と、宣告されていた
森永卓郎さん。家族と花見をされて、「みてやったぜ!」って。
生きている不思議 死んで行く不思議ですね

 私たちは、本当は悟りの世界にいるのに、


あくせく迷っているのが、

 

私たちの姿。
 

しっかりと
 

一生懸命に迷う。

 

手のひらの上の 愛
 

 

わたしは手術から1年が経過しました
日常の健康状態をチェックする表を作成して
簡単な表計算の関数を忘れているのに気が付きました
仕事で使わなくなってから10年も経つのですから仕方ありません
ただ、タッチタイピングは元通りにできる様になりました
 

防湿庫に入れっぱなしのカメラ
サクラが呼んでいるのですが

カメラの妄想が頭の中を駆けて行きます

サクラは散っているところ

風や小川に流されて行く花びらの美しさを

NDフィルターを付けて撮って見たいと思っては数年経過

ことしは行けるか

 

自省録 マルクス・アウレリウスから

「まもなく君は、灰と骨になる。せいぜい名前だけになるか、

あるいは名前ですらなくなる

 

。」

ひと月前のこと、「わたしは今を生きている」を書いて、自分の命との折り合いを付けていたように思っていました。しかし、私自身がどこかづっと緊張し続けていていることに気が付きました。

「死というものは、それについて考えないで、それを受ける方が、その危険なしにそれを考えるよりも、容易である。パンセ断片166」

「考えが人間の偉大さをつくる。」と言うパスカルが、死への思いの辛さから逃げるには、死を考えないようにする事だ。というのだからその辛さは何と大きいことでしょうか。

 

体よりも、心の方がまいっている。