オリンピックが近い時期になると、強化費をどの程度国が出すべきかという話題が持ち上がることがあります。よく、日本の強化費は他国と比べて少ないことが問題となっています。適正な強化費がいくらかという問題については、未だに統一見解はありません。

 それでは、適正な強化費がいくらかということについて、私の見解を述べましょう。

「0円」です。

おかしいと思った人もいるかと思います。でも、私はごく当たり前のことを言っただけです。

 普通、何かの大会やコンクール出ようと思ったら、強化費や遠征費は自分でねん出するのは当たりまえの話です。ポケモンというテレビゲームでは毎年世界大会が開かれていますが、参加者は皆参加費を自分でねん出してます。国費から出してもらってる人なんていません。オリンピックについては特別扱いをする理由なんてありません。自分でお金をねん出できないのであれば、スポンサーに出してもらうべきであって、国費から出してもらうというのは間違っています。そんなことを言うと、

「マイナースポーツはどうするんだ。スポンサーなんて多分つかないぞ。」

という反論が返ってきそうです。

 そんなものは特に支援しなくていいです。

 先ほども言ったように、スポーツというのは本来娯楽にすぎないわけです。

「金を払ってでも、この人のプレイが見たい」

と思わせる人だけが、スポーツを仕事にして生きていくことができるのです。マイナースポーツというのは、注目度が低いものだからこそ、スポンサー集めに難儀するわけですが、そんなものを救済してなんの意味があるのでしょうか?売れない音楽家のことを税金で救済するなんてことはしません。自分の腕で客を集められない人には、音楽を仕事にして生きていく資格はありません。スポーツにしたって同じことではないでしょうか?

 以下、よくありがちな反論を挙げて、それに対する再反論を書きたいと思います。

私は、スポーツは国が維持育成しなければいけないものだと思っていませんし、国費を投入するなんてもっての他だと思っています。なぜかということを納得してもらうために、分かりやすい例を挙げて説明します。

 Aさんという日本人がいたとします。Aさんはテレビゲーム好きです。その中でも格闘ゲームが大好きです。Aさんはある時格闘ゲームの大会に出て見事に全国優勝を果たし、世界大会に出場することになりました。

 そして、そのことを知った総理大臣は

「A君は、日本の誇りだ」

と言って、大会があるアメリカへの遠征費を国費から出すといい始めました。それだけではなく、もしAさんが世界大会で優勝したら100万円の報奨金を出して国民栄誉賞を授与する、と言い始めました。

 以上の事例が現実に起きていたら、ほとんどの人は総理のことを批判するでしょう。

「たかが、遊びの大会に出るだけなのに、なんで強化費なんて出すんだ。自分の金で行くのが当たり前だろ。報奨金なんて出す必要ないし、国民栄誉賞なんて与える意味が無いよ。」

ということをほとんどの人が思うはずです。私も多分同じことを思うでしょう。

 でも一方で私はこんなことを思ってしまいます。

「もし、Aさんがスポーツ選手でスポーツの大会に出るという話だったらほとんどの人が異議を唱えなかっただろうな。スポーツだってただの娯楽なのに。」

 こんなこと言うと、反感を覚える人もいるでしょう。スポーツはただの娯楽でないと反論したくなる人もいるでしょう。でも、説得力がある反論ができる人は恐らくいないだろうなと思ってしまいます。

 考えてみてください。日常生活や仕事の中で、スポーツができなくて困ることが何かありますか?多分ほとんどの人が無いと答えるはずです。あったとしても、せいぜい草野球等に参加した時に楽しめないという程度でしょう。特定のスポーツでご飯を食べている人以外、特に困る人はいないはずです。そして、スポーツでご飯が食べられる人はほんの一握りしかいません。

 全国の高校球児の多くはプロ野球選手にあこがれていますが、夢を実現できる人はほとんどいません。なにせ、プロ野球選手になれる人は年間70人程度しかいませんから。甲子園で優勝する強豪校の部員だって、野球と関係ない職業につく人が大半なわけです。これが他のスポーツになるともっと悲惨です。なにせ、現役時代は野球選手よりも短いし、そもそも選手になっても報酬が低い場合が多いからです。プロボクサーなんて日本チャンピオンくらいでは、ボクシングだけでご飯を食べることは不可能らしいです。

 以上のように、ほとんどの人はスポーツの技能を仕事の役立てることは不可能です。せいぜい、

「休日にスポーツをやって楽しむ」

という程度の役立て方しかできません。そして、楽しむ程度の役立て方しかできない行為のことを一般的には娯楽といいます。つまり、ほとんどの人にとってはスポーツはただの娯楽なのです。一部の、

「金を払っててでも、この人のプレイが見たい」

と思わせる人だけがスポーツで生計を立てられるのです。その他の人にとってはただの娯楽でしかありません。テレビゲームと本質的には変わりません。テレビゲームだって、すこい人はスポンサーについてもらって、立派に職業として成り立たせています。音楽の世界でも同じことです。歌を歌ったり、楽器を演奏したりするのは本来趣味でやることです。

「金を払ってでもこの人の歌が聞きたい」

と思わせる人だけが、音楽の世界でご飯を食べることができるのです。

 世の中には売れない音楽活動家をたくさんいますし、テレビゲームにしたって、職業として成り立たせている人は一握りです。でもだからといって、国が売れない音楽家やゲーマーを税金を投入して助けるなんてことはしませんし、国が助けないことに関して異議を唱える人もいません。ゲーマーが大会に出るにあたって、参加費を国が出すなんてことはありえませんし、音楽家がライブをするに当たっても、税金が投入されたりはしません。

 でもスポーツに関しては、何故か国が援助するのは当然と言わんばかりの雰囲気がまかり通っています。

 

日本という国ではスポーツは素晴らしいもの、特別なものだという価値観がまん延しています。

 オリンピックに関してはよく、日本が選手に出す強化費が少ないということが問題となっています。でもこれって裏を返して言えば、国が強化費を出すのは当たり前であるという前提の議論になっています。

 オリンピックやワールドカップの時期になると、マスコミの話題はそれ一色といっても過言ではない状況になります。どの選手がメダルをとれそうか、日本代表はいくつメダルをとれるか、今回日本代表はどれくらいまで勝ち進むことができるかという話題で持ち切りです。世間一般でもあまり変わりはありません。

「実は、オリンピックとかあまり興味が無いんだよね。」

と本音で思っていてもいいづらい雰囲気があります。こんなことをうっかり言ってしまったら、白い目で見られるか、ノリが悪い奴と思われて敬遠される可能性が高いです。

 いざ、日本人メダリストが出たりすると

「金メダリストの○○選手 当市出身」という幕が市役所に掲げてあったりします。○○県民栄誉賞といったものが授与されたりします。メダリストをたたえるのは当然と言わんばかりの雰囲気がまん延しています。

 ついには、スポーツ庁なるものが設置されることになりました。国のお偉いさん自らが、

「知育よりも体育だ」

と主張しています。スポーツ選手を育てることは国の責務であると思っているのでしょう。

 日本の学校は部活にとても力を入れています。中学校や高校では部活に強制加入という学校も多くあります。(特に中学校は)「部活動加入率○○%」というように、部活の加入率が高いことを誇りにしてる学校もあります。その多くは運動部で構成されています。運動部は厳しいかつ長時間の練習をこなしているところが多いです。平日のみならず、休日も長時間の練習をしています。運動部での活動が、学校生活のメインになっているような人も多いです。そして、部活の大会でいい成績を残すと、内申書にも記載してもらえて進路を進めるうえでも有利になります。そういった運動部では、顧問による厳しい指導が行われることは当たり前です。時には体罰がふるわれることもあります。本来人に暴力をふるうことは犯罪のはずですが、何故か部活の指導で暴力をふるった人は、熱心でいい先生だとたたえられることが多いです。

 一部の私立高校には、スポーツ推薦という形で学科の成績を問われずに入学することができます。スポーツ推薦で進学した生徒は、スポーツ以外のことには目もくれないような生活をおくっていることが多いです。一部のまじめな子以外は授業中は基本寝ているという話を聞いたことがあります。

 大学についても、スポーツ推薦で入学できる私大は多いです。ある程度有名所の大学でも、スポーツ推薦の学生をとっているとこがあります。そして、高校と同様に学科の成績を問われずに入ることができるわけです。本来高校や大学に進学できるかは筆記試験の成績によって決まります。ところが、スポーツが得意な子は、例外的に学科の能力を問われずに入ることができるのです。一部の学部や学科では、音楽や芸術の実技試験が課されているところがあります。でもそれは、入ってから音楽や芸術の能力が要求される学科での話です。スポーツに関しては、法学部、経済学部、教育学部等、別にスポーツの能力が要求されないような学部でも、自分がやってるスポーツの能力によって入ることができます。

 以上のことを見ていると、日本社会ではスポーツは素晴らしいものであって、社会で支えるべきものであるという考えが浸透しているようにも思えます。私は以前はそういった考えにも違和感をもっていませんでした。しかし、今では日本全体が変な思想に洗脳されているようにしか見えません。

 今の日本では信仰熱心な人はかなり減っていて、熱心な宗教の信者は変な目で見られることが多いです。しかし、私に言わせれば多くの人も自覚が無いだけである宗教にはまっています。「スポーツ教」という宗教に……。

鈴木一夫は、山田教授の家に訪問して二人でくつろいでいた。元々うまが合う二人は、いつのころからかかかなり親しくなり、二人で酒を一緒に飲む仲になっていた。
この日も一夫は特に予定がなかったので山田教授の家に訪問していたのである。そして二人で一緒にテレビを見ていた。
そしてちょうどニュースの時間になった。保守派の政治家の一人である田神が逮捕されたというものであった。贈賄の容疑がかけられてのものだった。

山田「僕は正直この人が好きじゃなかったから、正直に言ってうれしいかもしれない。」

鈴木「なぜですか?」

山田「というより、保守派とされている論客全員があまり好きでないんだ。彼らは日本の伝統を捏造するからね。」

鈴木「具体的にはどういうものがありますか?」

山田「まず、(男が外で働き、女が家事育児を担当するというのが日本の伝統だ。)という人がいるけどそれは日本の伝統ではなくて西洋の伝統だよ。日本でそんな形態が一般的になったのは戦後になってからだ。」

鈴木「昔の女性はひたすら家事育児に専念していたと思っていましたが、違うんですね。」

山田「日本の長い歴史をみると、多くの人は農民だった。そして、農民の家では嫁さんも労働力だったんだ。昔の農作業は全部手作業だったからね。若い人は労働力として重宝される時代だったんだよ。基本的に子どもの教育を行っていたのは村の共同体だった。個々の家の母親にそんな暇はなかったんだ。」

山田「そして江戸時代の都心部をみると、育児は男の仕事だったんだ。女は愚かな生き物であり、子育てを任せるべきではないという考えが一般的だったからね。だから、(良妻賢母)っていうのは比較的新しい時代にできた考えなんだよ。江戸時代には(賢母)なんていう考えはなかったんだ。」

鈴木「でも、戦前になったら、(男は仕事、女は家庭)というすみわけができたんじゃないんですか?」

山田「それも誤解だよ。戦前というのは凄まじい格差社会だった。財閥の会長の年収が現在の貨幣価値で数百億円になる一方、大多数の庶民は貧しかった。母親が家事育児に専念できるのは一部の恵まれた家庭だけだったんだよ。」

鈴木「なるほど、大多数の家庭では母親がはたらかざるを得なかったというわけですね。しかし、専業主婦が西洋の伝統というのは違うような気がするのですが。」

山田「それはどうしてだい?」

鈴木「欧米というと女性が社会進出をしているというイメージが・・・」

山田「そういうイメージを持つ人は多いんだけどね、欧米でも女性の社会進出が進んだのは近年になってからだよ。北欧諸国にしたって、昔は(男は仕事、女は家庭)の国だったし。女性参政権にしたって、認められるようになったのは1920年代に入ってからだよ。スイスなんて1971年までなかったんだ。」

鈴木「欧米にもそういう時代があったんですね。」
近藤和樹は、現在大学で政治学の教授をしている。かなりその道では高名な先生で、各地で講演を開いている。最近増えているのが夫婦別姓関連の講演だ。最近は夫婦別姓の導入を求める声が高まっている。近藤は、夫婦別姓導入反対派の代表格のような存在だ。よく、保守派が主催する講演会に招かれて、夫婦別姓が何故いけないのかということを力説している。
 今日は、近藤が勤務している東和大学で講演する機会があった。そこに、山田もたまたま来ていた。そして、講演が終わった後、山田は直接近藤に会いに行き、日ごろから思っていた疑問をぶつけた。
山田「近藤さん。正直今日の講演を聞いても夫婦別姓の何が悪いのかさっぱり理解できないんだけど。」
近藤「それはどうしてですか?」
近藤は少し驚いた。今まで自分に反対意見をぶつける人間等いなかったからだ。

山田「あなたは講演の中で、(日本の伝統を壊してはいけない)と言っていたけどね、世の中には伝統なんてどうでもいいと考えている人間も一定数いるんですよ。あなたみたいな人は、古くから続いていること=素晴らしい と無条件で考えているようだけど、そういう人間ばかりじゃないんだ。」

近藤「あなたはそう考えるかもしれない。でも、やはり私みたいな伝統を大切にしたい人間もいるんだ。」

山田「あなたは勘違いしてるみたいだけど、そもそも夫婦同姓は日本の伝統じゃないよ。」

近藤「え?」

山田「元々日本を含めた東アジア圏では、姓というのは出身の家を表すものだった。その名残で韓国や中国は未だに夫婦別姓なんだ。日本だって江戸時代まではそうだった。北条政子は結婚しても北条政子のままだっただろう?」

近藤は何も言えなかった。彼自身、夫婦同姓は日本の伝統だと根拠もなく信じていたからだ。

山田「日本で夫婦同姓が強制されるようになったのは、明治民法が制定されてからなんだよ。明治民法はフランスやドイツの民法を参考にして作られたからね。ここで、苗字=家族の呼称 という西洋の考えが取り入れられたんだ。だから、現行の夫婦同姓制度は日本ではなく西洋諸国の伝統を反映したものなんだよ。しかも、今はドイツやフランスも、選択的夫婦別姓を認めている。日本が夫婦別姓に拘る意味はないだろう。」

近藤「確かにあんたの言う通り、夫婦同姓は伝統ではないかもしれない。でも夫婦別姓には多くの問題点がある。」

山田「正直、その問題点も眉唾ものばっかりなんだけどね。」

山田「まず、(子どもの苗字でもめる)というものだけど、これは戸籍の筆頭主に合わせるということでいいんじゃないか?現行の制度は夫婦のどちらかが筆頭主になって、筆頭主になった方の苗字が家族全体の苗字になる。子どもの苗字は筆頭主に合わせるということにすれば、少なくとも決め方は現在の制度と同じになる。
それに、今時家の意識を強く持ってる人間なんて少数だし、(自分の苗字を残す)ことに拘る人はかなり少数になってるんじゃない?今時、(跡取りが欲しい)なんていう理由で子どもを作る人はまずいないだろう。事実、昔だったら養子をとってでも家を存続させる人が多かったけど、今はそんな人ほとんどいないし。家の存続に拘る人なんてあと20年もすれば全滅しちゃうんじゃない?」

近藤「でも、夫婦別姓だと子どもが可哀想だろ!いじめの対象になるかもしれない。」

山田「それはあなたが夫婦同姓の家庭で過ごしたからだよ。生まれた時から夫婦別姓の家庭で過ごしてればそんなことは思わないよ。私は事情があって、母方の祖母と同居していた。当然私とは苗字が違ったけど、そういうものなんだと受け入れていたよ。
それにいじめの件だけど、それは考えられないな。まず、子どもの同級生に自分の氏名をさらす機会なんてまずないでしょ。それに、今は片親の家庭だって珍しくないけど、片親家庭であるという理由でいじめられるなんて聞いたこともない。そう考えると、夫婦別姓であることでいじめられるとは考えにくいな。」

近藤「でも夫婦の絆を考えると・・・」

山田「それが一番意味不明なんだよ。苗字にはひとの絆をつなぎとめるような魔法の効果は無いんだよ。夫婦中が険悪になった時に、(この人は俺と同じ苗字だから大切にしなきゃいけない。別れちゃダメなんだ)という気持ちにはならないだろ。夫婦別姓で険悪になるような夫婦は同姓にしたって険悪なままだよ。」

近藤「少なくとも離婚の抑止力・・・・」

山田「ならないよ。今の制度は離婚をした後も希望をすれば離婚前の苗字を名乗れる。それに、すっかり仲が冷え切った夫婦が、(苗字が変わったことで離婚を知られるのが嫌だ)という理由で結婚生活を続けるのっていいことでもなんでもないだろ。」

近藤「そもそも通称使用を認める範囲を広めればいいじゃないか。免許証やパスポートにも旧姓を併記できるようにする。これで十分だろ。夫婦別姓なんていらない。」

山田「そこまでしちゃったら夫婦同姓の意味はほぼ無いよね?」

近藤「どういうこと?」

山田「仕事で旧姓を使う場合、新姓を使う機会って少ないんだよ。例えば近藤さんの奥さんがいい例だ。彼女は旧姓の佐藤を仕事で使っているし、著書だって(近藤秀美)ではなく(佐藤秀美)の名で出している。教え子からも(佐藤先生)って呼ばれてる。荷物だって(佐藤秀美)で届く。新姓を使うのは、パスポートや免許証を提示する時くらいだ。もし夫婦別姓に家族の絆を崩壊させる効果があり、子どもが可哀想だっていうなら、旧姓使用だって認めちゃダメだろ。」

近藤(しまった、まるで反論できない)

山田「それでいて免許証とか戸籍にも旧姓の併記を認めたら、新姓なんていつ使うのかさっぱり分からないよ。そこまでやっちゃうとわざわざ苗字を変えさせる意味って何なの?てことになっちゃうよ。」

近藤「苗字を変えることによって、結婚をしたという自覚を持ち、気分を切り替えられるんだ。」

山田「だとしたら夫婦の両方が変える制度にしないとダメなんじゃないか?」

近藤「でも夫婦別姓を認めた場合、世の奥さんは苗字を変えてくれなくなるかもしれない。そしたら世の旦那さんが可哀想だろ。」

山田「奥さんに変えさせることが前提なのがおかしいよ。そんなに家族一緒の苗字がいいなら、旦那さんが帰ればいいじゃないか。あなたみたいな人がいるから、夫婦同姓は男女不平等と言われちゃうんだよ。」

結局近藤は山田に対し、有効な反論が何もできなかった。そしてそれ以来、夫婦別姓についての講演を行うことはなくなった。

鈴木一夫には、義明という兄がいる。現在は実家から地元の会社に通勤している。
最近いい年になってきたので結婚相手を見つけようとしているのであるが、中々うまくいかない。どうも実家暮らしで親と同居というのが嫌がれらているようだ。

今日もまた婚活パーティに参加してみた。それなりに意気投合する相手も見つけられた。しかし、親と同居が条件というと難色を示された。そして、大した成果もあげられないまま、パーティは終了した。

義明「今日もまた駄目だったよ。やっぱり今の時代、親と同居だと中々見つけるのが大変だ。」

太郎「最近の若者は我儘になったもんだ。俺が若いころは嫁入りしたら旦那の親と同居をするなんて当たり前だった。そして、みんな我慢してそれに耐えたもんだ。嘆かわしい時代になった。欧米の文化が入ってきたせいで、日本の三世帯同居という良き伝統が廃れてしまった。」

義明「親父、もう一度念のために聞くけど、やっぱり親父やお袋と同居じゃなきゃダメなの?」

太郎「当たり前だろ。お前は長男なんだ。長男というのは一家の跡継ぎで親と同居するのが当たり前。それに年老いたら俺と母さんだけじゃ暮らしていけなくなる。どうしても同居じゃなきゃ駄目なんだ。介護施設なんて俺は行きたくないぞ。」

太郎「それに、最近は国が三世帯同居を推進していて、三世帯同居の世帯は減税してくれるらしいじゃないか。三世帯同居の方がお前にとっても得なんだよ。」

二人の会話を聞いていた一夫はこんなことを考えた。

一夫(そういえば、山田先生の授業でも三世帯同居についてやってたな。気になることがあるから明日質問してみよう。)

翌日

一夫「山田先生、質問があります。」

山田「なんだい?」

一夫は昨日の兄と父の会話の内容を伝えた。

一夫「先生は三世帯同居についてどのように思われますか?」

山田「僕はできる限りやめた方がいいと思うけどね。三世帯同居が幸せであるなんていうのはただの幻想だ。」

一夫「それは何でですか?老後は家族と一緒に暮らすことが幸せだと思うのですが...」

山田「考えてもみろよ。昭和の時代、三世帯同居が当たり前だった時代は嫁姑問題でもめるのが当たり前だったじゃないか。そして、三世帯同居じゃうまくいかないから核家族になったわけだ。やっぱりね、今まで別の家庭で過ごした人が同居を始めても価値観の違いがあって、中々うまくいかないもんだよ。多分、三世帯同居を増やしても昔と同じことが繰り返されると思う。」

一夫「確かに言われてみるとその通りかもしれませんね。私の父は気難しいところがあって、食事の時間は午後7時ぴったりに始めないと気が済まないし、自分以外の人間が自分より先に箸をとるのも許しません。僕や兄はもう慣れましたけど、他の家庭で過ごした人が耐えられるかは分からないです。」

山田「君がいったように、祖父母と同居する親が耐えられないという問題もある。しかし、三世帯同居には祖父母を不幸にする要素もあるんだよ。」

一夫「それは何ですか?」

山田「君は、高齢者の自殺はどういう世帯に一番多いと思う?」

一夫「やはり一人暮らしでしょうか?高齢者の自殺というと孤独に耐えかねて....というイメージがありますし・・・・・」

山田「君と同じイメージを持つ人は多い。しかし、実際は逆なんだ。同居老人の方が独居老人よりも自殺率が高い。しかも、三世帯同居が一番多いんだ。」

一夫「データはあるんですか?」

山田「高齢者の自殺者のうち、独居の人の割合は5%以下だ。そして、60%以上は三世帯同居の人なんだ。」

一夫「一人暮らしのお年寄りは寂しい老後をおくっている。一方、三世帯同居のお年寄りは子どもや孫に囲まれて幸せに暮らしているというイメージがあったんですけど、そうでもないんですね。」

山田「やっぱりね、お年寄りと若い人では生活のリズムや思想やら何から何まで違ってて、同居してもうまくいかないことが多いんだよ。そして、最終的にはお年寄りがのけ者にされていまう例が多い。(自殺死体の叫び)という本によると、高齢者が自殺した家庭の遺族はほっとしてる人が多いそうだよ。家族から除け者にされて寂しさを味わう。これこそが本当の意味での孤独なんじゃないかな。」

一夫「でもそうはいっても、介護が必要になった時のことを考えると、同居していた方がいいのではないでしょうか?介護施設にいれられるのは可哀想だし。」

山田「その説は二つの意味で間違ってるよ。まず、お年寄りは全員が要介護状態になるわけじゃない。死ぬまでピンピンしてる人も多い。もう一つだけど、要介護になった時に家族に世話してもらうのが幸せなんて単なる幻想だよ。皆根拠もなく思い込んでるだけさ。」

一夫「でも介護施設に入った場合、環境はあまりよくないし虐待されるはで大変じゃないですか。」

山田「要介護の人への虐待の加害者で一番多いのは実の息子だよ。二位が夫で三位が実の娘だ。家族だから丁寧に世話してくれると思ったら大間違いだ。虐待の件にしたって、施設の場合は監視カメラで発覚することもあるけど、自宅の介護はそんな可能性は無い。」」

一夫「必ずしも、家族に世話をしてもらうのが幸せというわけではないんですね。」

山田「実の家族だと、被介護者に対する思い入れとかがあったりして、感情的になったり、身内であるが故に無遠慮な態度をとったりで上手くいかないことが多いみたいだ。赤の他人が仕事として割り切ってやるのが一番うまくいきやすいんだよ。」

一夫「成程、家族であることが逆方向に作用してしまっていると。」

山田「僕は思うんだけど、本当に高齢者を追いつめているのは、親と同居を拒否する子どもじゃない。(老後は子どもや孫に囲まれて暮らすのが幸せ)(老後の一人暮らしは可哀想)とか、勝手なイメージを持って、世の親子に同居への圧力をかけていく。そんな世間一般の人々じゃないかな。」

一夫「今日は貴重なお話を聞かせて下さり、ありがとうございました。」

山田「また質問したいことがあったら、いつでも来てね。」

参考文献



自殺死体の叫び (角川文庫)/角川書店

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自殺の9割は他殺である 2万体の死体を検死した監察医の最後の提言/カンゼン

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http://news.livedoor.com/article/detail/10135747/


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一夫「え、隣の高橋さんの家、離婚したの?」

太郎「五年もたたないうちに離婚したんだよ。全く最近の若い人はすぐに離婚するんだから。」

夕食の鈴木家ではこのような会話が交わされていた。ちなみに一夫は一家の一人息子、太郎は父親である。

太郎「昔の親は娘が嫁入りすると、もう実家には帰ってくるなと突き放したもんだ。それに、離婚することは恥ずかしいもんだ、という価値観もあった。しかし、最近は悪しき欧米の文化が入ってきたせいで離婚を恥と思わなくなった。嘆かわしいもんだよ。」

一夫「そういえば、なんで最近離婚が増えたんだろう。明日山田先生に聞いてみよう。」

山田先生というのは、一夫が所属するゼミの教授である。日本史について大変詳しい先生だ。

一夫「先生、少しお尋ねしたいことがあります。」

山田「今回は何について聞きたいんだ?」

一夫「実は・・・・・・」

一夫はそこで、昨日の父親との会話の内容を話した。

一夫「なんで、最近離婚が増えたんですか。元々日本は離婚が少ない国だったのに、どうして欧米の悪しき文化がこんなに浸透してしまったんですか。」

山田「実は君の質問は前提が間違ってるんだ。結構勘違いする人は多いんだけど、日本というのは元々離婚がかなり多い国だったんだ。」

一夫「え、でも父は昔は離婚が少なかったと言ってました。」

山田「日本の離婚が少なくなったのは明治民法が制定されて明治31年からの話だ。それまでの明治時代はとても離婚が多かった。(明治の結婚、明治の離婚)という本では、明治30年までの日本の離婚率は、2.6%から3.6%までの高水準で推移していた。現代と比べても1.5倍近い多さだ。」

一夫「なぜ、民法が制定されてから離婚率が下がったのでしょう。」

山田「民法の制定により、25歳未満の夫婦が離婚するには親の許可が必要になったんだ。それと、民法が長い時間をかけて人々の意識を変えていった可能性はある。詳しいことはよく分からないけどね。」

一夫「昔の人は家族を大切にしていたというイメージがあったのですが......」

山田「元々日本には、離婚がいけないことだという考えなんて無かったんだよ。江戸時代なんて(女房と畳は新しければ新しいほどいい)なんて言われてたくらいだし。昔の人は結婚式で(永遠の愛の誓い)なんてやらなかったよ。そういうことをやるようになったのは欧米の思想の影響だね。カトリックは元々離婚禁止だし。」

一夫「欧米の文化が入ってきて離婚が増えたと思ったら実際は逆だったんですね。」

山田「日本の歴史を調べてみると、離婚室が低かったのなんて大正か昭和時代くらいなものだよ。江戸時代の大名百家や旗本百家の離婚率をみると、11%以上、再婚率にいたっては58%以上という驚異的な数字だった。平安時代も高かったみたいだね。何せ、(三日通えば結婚成立、半年来なければ離婚)という時代だったからね。」

一夫「現代よりもはるかに高いですね。」

山田「元々日本人には、離婚を(悪)だとみなす考えは無かったんだ。近年離婚がまた増加傾向にあるのは単純に先祖返りしたからじゃないかな?」

一夫「また一つ勉強させてもらいました。どうもありがとうございました。」

帰宅後、

一夫「親父、大学で山田先生に教えてもらったんだけど、親父の認識は間違ってるよ。実は.....]

太郎「そんなわけねえだろ! 昔の日本人は非常に厳格で、家族を大切にする立派な思想を持ってたんだ!その山田ってやつはチョン公だろ!日本の離婚率を高めて日本の国力低下を狙ってるんだ。」

一夫(駄目だこりゃ)

参考文献
明治の結婚 明治の離婚―家庭内ジェンダーの原点 (角川選書)/角川学芸出版

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三くだり半と縁切寺 江戸の離婚を読みなおす (講談社現代新書)/講談社

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以前、ある学者さんのブログを見たらこんなことが書いてありました。
「元々日本にはおしどり夫婦が多かったが、近年白人の悪い文化が蔓延してきて離婚率が上昇している。」

その時、こんなことを思いました。
「どこから突っ込んだらいいんだろ・・・・・」(@ ̄Д ̄@;)

確かに昭和の時代は離婚率は低かったです。でもそれは、おしどり夫婦が多かったからでしょうか?

昭和の時代の結婚は、家同士の結びつきという側面が強いものでした。当時はお見合い婚の率がかない高く、自由恋愛によるものはかなり少ない時代でした。
結婚が家同士のものである以上、当事者の意思によっておいそれと分かれるわけにはいきません。それに当時は、「離婚は世間体が悪い物」という意識が強かった時代です。仲が悪くなってもやむを得ず結婚生活を続けるという夫婦が多かったわけです。
実際、私の周辺の高齢夫婦の事例を見ても、結構夫婦仲が険悪な場合は事例は多く、中には家庭内別居の状態になっている人もいました。

もう一つ考えられるのは、女性の側から離婚を言い出しやすくなったということです。

結婚生活のなかで、自分のパートナーに不満を持つのは女性の方が多いです。それは、女性の方が結婚して不自由になる度合が強いからです。子どもを作ろうとなると、約一年間は体の中で子どもを育てないといけないわけで、かなり不自由の度合が強くなります。出産後もそれは変わりません。未だに育児は母親の仕事という認識が強いです。女性の場合、子どもが生まれたとたん、子どもの世話で外出もままならない状態になってしまうことが多いです。それだけならともかく、夫の中には「俺が養ってやってるんだぞ」と恩着せがましい態度をとる人もいます。不満がたまるのはある意味で当然といえるでしょう。

実際googleで、「妻」という単語を入力すると、「プレゼント」という言葉が候補に出てくるのに対し、「夫」という単語を入力すると、「死んでほしい、死ね、嫌い」という候補が出てきます。
世の奥様方がいかに自分の夫に不満を持っているかがよく分かります。

今は昭和の時代と違って、結婚は家同士のものと考える人が少なくなり、離婚をすると世間体が悪いという時代ではなくなりました。そしてさらに重要な変化として、離婚しても夫の厚生年金がもらえるようになりました。
昭和の時代では、離婚をした妻は老後基礎年金しかもらえなかったのに対し、2007年4月からは夫がもらう厚生年金ももらえるようになりました。そのため、離婚をしても自分の生活についてあまり心配する必要がなくなりました。(実際に2007年あたりから熟年離婚が急増したようです。)

つまり、昭和の時代であれば
「離婚は世間体が悪い」
「離婚をしたら生活できない」
ということで離婚をためらっていた人達が、今の時代では容易に離婚できるようになったわけです。別におしどり夫婦が多かったわけではありません。

今回の記事は少し長くなってしまったので、続きは②で書こうと思います。
今回は、昔は良かった論その②ということで、老人に対する敬意についての話をしたいと思います。

「最近は、お年寄りがないがしろにされている。」

「昔はこんなことは無かったのに」

という感覚を持っている人は多いです。特に保守派と言われる人に。

「今時の若者は電車でもお年寄りに席を譲らない。昔はこんなこと無かったのに」

「今は、老人の虐待が増えている。嫌な世の中になったものだ」

しかし、過去の文献を見てみるとそういった感想に対しては疑問符が付きます。

怒る! 日本文化論 ~よその子供とよその大人の叱りかた (生きる技術! 叢書)/技術評論社

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この本でによると、大正12年の新聞には、70歳のおばあさんがこんな投稿をしていたようです。
「若い人がお年寄りにきちんと席を譲ってくれた時代はとっくの昔に過ぎ去り、今時の若い人は私のようなおばあさんが汽車に乗っても、気づかないふりをするので本当に腹が立ちます。」

つまり、戦前の若者だってきちんと席を譲ってなかったわけです。そればかりか、おばあさんが投稿をしてから数日後には、若者からこんな投稿がされていました。

「若者が関を譲ってくれないと愚痴るおばあさん。あなたのような図々しい顔をした老人が汽車に乗ってきたら、誰だって席をゆずちたくなくなる。多くの人はあなたような老人の醜さと臭さに辟易して席を譲るのだ」

細部の表現は間違ってるかもしれませんが、おおむねこのとおりだったと記憶しています。今だったら、即炎上しかねないような意見が投書されたわけです。さらに恐ろしいことに、後日若者の賛同の意を示す投書が二通ほどよせられたらしいです。



「昔はよかった」と言うけれど: 戦前のマナー・モラルから考える/新評論

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によると、昭和の初期にはこんな記事が掲載されていました。ある警察署の職員の話です。
「最近お年寄りが、子どもが自分の生活の面倒を見てくれないといって泣きついてくる。今時の若者は大学を出ても40円や50円という給料で頑張っている。少しは若者の苦労も察してやるべきではないか」
このように、お年寄りには手厳しいことが書かれていました。

また。老人虐待の話も当時から普通にありました。


そして、戦前からさらに遡ると状況はさらに酷くなります。


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によると、平安時代や鎌倉時代の文学では、
「老いることは醜いことである。」
という前提で書かれていることが多いです。
「年を取ると、人間は外見だけではなく内面までもが醜くなるから、あまり長生きしないで死ぬのが良い」
と書かれていたりします。
この時代は儒教の思想が日本に浸透していないなかったので、ある意味で仕方がないのかもしれません。
江戸時代は支配者層には儒教の思想が浸透しましたが、庶民の間ではあまり普及していませんでした。
「東海道中膝栗毛」には、「若い女と見れば犯そうとし、婆とみれば馬鹿にする」という主人公たちの様子が書かれていました。「浮世風呂」には、「年寄のくせにでしゃばりやがって」というセリフが見られます。以上のことから考えると、江戸時代にも敬老の思想は浸透していなかったと考えるのが自然です。

「昔はお年寄りに敬意が払われていた」とよく言われます。
しかし実際には、いつまで遡っても「お年寄りに敬意が払われていた時代」にたどり着くことができません。

つい数年前に話題になった言葉に、「無縁社会」というものがあります。
確か、NHKが特集を始めたのがきっかけだったと記憶しています。

現代では、社縁、血縁、地縁といったものが全て崩壊してしまった。その結果として無縁社会ができあがってしまった。無縁社会が原因で、孤独死や、誰にも看取られずに死ぬ人が増えている。どうにかしなければ・・・・・

こんな感じの報道だったと思います。それ以来、無縁社会を解消しようという動きが一部で活発になり、関連する書籍も発行されました。

そんな報道を見ながら私は思ったわけです。
「無縁社会ってそんなに悲惨なことか?」

私自身は無神論者で、死後の世界なんてこれっぽっちも信じてはいません。自分が死んだ後は適当に焼却してくれればいいと思っています。葬式を挙げてほしいとか、家族の墓に入りたいとかなんていう願望は全くありません。葬式なんてのは生きている人間のためにやるものだと思っています。誰かが私の葬式をやりたいと思えばやればいいし、そうでないならやらなくていいと思っています。

「孤独死は悲惨だ」という言葉の前提には、人間が死ぬときは、家族に看取られて友人知人に見送られて家族の墓に入るべきだという前提があります。NHKの特集もこの前提にたっていました。

ある自治体は、亡くなった人に身よりがいない場合、自治体の費用で簡単な葬儀を行っているそうです。
インタビューに答えた職員は、
「やはり、家族に見送られて葬ってもらうのが一番です。」
ということを言っていました。
「だからそれって価値観の押し付けだろ。」
と私は思いました。
故人にしたって、別に大勢の人に見送ってもらいたいという性格の人ばかりではなかったはずです。
それなのに、
「見送ってくれる人がいないなんて可哀想な人だ。」
と言うのは失礼なのではないかと感じました。

そもそも孤独死ってそんなに悲惨なものなのでしょうか?
nHKの報道を見ると、老後の一人暮らしは悲惨であるといった論調で語られていました。
しかし、実際には独居老人よりも同居老人の自殺率の方が高いのです。それも、三世帯同居の場合が一番高いです。
http://allabout.co.jp/newsdig/c/86094


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ではこんなことが述べられていました。
「私自身、当初は三世帯同居が一番幸せであると考えていた。ところが、実際の調査結果は予想を裏切るものだった。自殺した多くのお年寄りが家族と同居していた。しかも、残された遺族はどちらかというとほっとした表情だった。

老後の子どもとの同居を美化している人は、うまくいっている事例しか想像できてきません。実際には、うまくいっていない事例が多いです。
老人になると若い人とは生活のリズムや考えが合わなくて衝突します。その昔三世帯同居が一般的だった時代には、嫁姑問題が多くの家庭で発生していました。衝突とまではいかなくても、家族の間でのけ者にされてしまうこともあります。その結果として、家庭内の居心地の悪さを感じてしまうことも多いと思われます。

NHKの特集を見て、
「結婚しなきゃ」
という考えになった人もいたらしいですが、それも甘い考えです。離婚率は年々上昇しています。仮に結婚しても、老後が孤独ではない保証はどこにもありません。

そもそも葬式にあまり人が来ないのって、そんなに悲惨なことでしょうか?
従来通りの葬式にはたくさんの人が来ます。しかし、弔問客の多くは義理で来ているだけであって、故人のことに特に関心が無い人が多いです。個人とは全く関係ない話題で盛り上がったりしています。

そもそも無縁社会って解決しようがないのではないかと思います。昔の地縁が濃かったのは、自営業が多くて、自宅と職場の距離が近い人が多かったからです。そういった人たちは、基本的に近所から移動しませんので、必然的に近所の人との関係が深くなります。
でも今は自宅から離れた場所に通勤している人が多いです。そういう人達は基本的には平日の日中には家の付近にいませんし、休日になると車や電車等で遠方にでかけることが多いです。
私は現在、かなりの田舎に住んでいるのですが、今の60代の世代から下はかなり近所づきあいが希薄になっています。この世代の人から、遠方の会社に通勤する人が増加しているからです。
だから、無縁社会を解決するためには、昔のように自営業者を増加させるしかないと思うのですが、それははっきり言って不可能でしょう。


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