私は読書の醍醐味は、永年胸に貯めていた課題の答えを、たまたま選んだ一冊の本の中に発見できた幸運に恵まれた時である。

 その課題の一つは、災害のような極言状態にあっても、日本人の規律ある行動が崩れないのはなぜか、とその原因を考え続けてきた。

 日本人は、何か、規律を守るトレーニングを歴史的に受け続けて磨かれてきた経緯が存在するはずだ、とじゅっと考えその原因を永年探して来た。

 すると、たまたま、侘茶の参考にならないかと思い読んだ、「茶の文化史」の中に、その答えを見出したのだ。嬉しかった、奇跡だ、これだから、読書がやめられない、が実感だった。こんなトレーニングを通して日本人のルールを守る習慣が身に付いたのか、としっくり納得がいった。それで、その時の熱い感動の冷めないうちに、何回か前のブログにもアップしたのだった。

 日本の先生だった中国の禅が廃れて法灯が消滅し、日本では臨済宗、曹洞宗とも立派に法灯は守られている。なぜ、文化の供給国の中国は枯れ、受給国の日本では栄えたのか、ずっと疑問に感じてきた。

 それが、今回読んだ「中国思想を考える」(金谷 治著)に、中国文化の顕著な特徴として儒教の現実重視が真っ先に指摘されてた。中国人は「現実的にものを見、考える民族です」それ故、中国文化には純粋な形而上学の生まれない弱点と限界を指摘されています。(金谷 治著)

 私はこれを読んで中国で禅が枯れた訳を理解できました。中国人は深い内省はあまり得意でないのです。禅は深い内省を生命としています。詰まり、内省と自己を凝視し沈潜しなげれば得られない侘び・寂びは絶対に中国では生まれないのです。これで、中国コンプレックスもだいぶ軽くなりました。

 私の長年追跡してきた課題がこれでスッキリ解決したのです。再び、読書の楽しさを味わうことができ、嬉しくて仕方ない幸せを経験できました。

 これらの事を日本人が周知すれば、中国コンプレックスも少しは薄まるかもしれないと思うのですが・・。特に、親中派の政治家や官僚に。領海侵犯を170日連続で続けられている屈辱に苛立っている国民の為にも・・・・。