最近ブログが滞っている。1週間入院していたからである。このため、折角リハビリで身に付けた足の筋肉が失われ大打撃だった。八十路の辛さか。永年の透析のせいか。このブログも頭の中では、とっくに出来上がりアップされているはずなのに、イライラする。これが、老いというものか。とに角、濡れ雑巾はこんな状態で帰宅した。こんな訳で、このブログの数少ない読者諸氏お許し頂きたい。

 悲観ばかりしていても仕方ない。粘り強さが私の採り得。

茶道は二人の大人の真剣勝負なのである。どちらの人間性の方が上か?利休が茶道を創始した時点で切腹の運命は決まっていたと私は思う。天下人は秀吉一人でいいのである。別のところで秀吉は利休のことを「こやつの底が見えぬ」と賞していた。彼の人間性は大いに認め,不気味にすら考えていたのである。躙り口一つを一つをとっても、帯刀した武士に腰をかがめさせわざと窮屈な姿勢を強い、帯刀したままでは入室が困難なように設計したのである。これは自由都市堺商人の意気地の発露である。

茶室というこの自由空間では、あらゆるこの浮世でのしがらみを忘れ対等に人間性を競い合おうという場なのである。身分制度の頂点に立つ秀吉に許せるはずもない。

  私は高校の美術時間、先生が茶椀をこね回せているだけで文化にまで高めた利休は大したものだ。と言っていたのをずっと覚えていた。茶碗をこね回すという表現が面白かったからである。私は茶道については全くの門外漢である。

浮世のちりを払って茶室入室するのが礼儀である事ぐらいは知っている。人間の五感を清浄に清める。茶室にはそれらの装置が備えられている。一輪挿しや掛け軸がある。視覚を清める。聴覚は沸き立つ湯音だ。そんな雰囲気の中で大人二人が自己の人間性を掛けて相まみえるのである。永年の疑問だった茶碗をこね回すことは触覚の清めであること最近知った。人間一生勉強であることを再確認した。教えてくださった神にまた感謝である。濡れ雑巾はボロボロであるがまだ命は頂いている。読者の皆様もぜひ考えてくだされば幸いです。