桃太郎の故郷(ふるさと)はどこ?
【背景】
一般に吉備津彦命が桃太郎伝説のモデルになったと言われています。その根拠は、第10代崇神天皇の御代に、朝廷の倭国統合が進み、各地に残っていた「まつろわぬ者(朝廷に服従せぬ者)」の討伐のため、皇族の中から四人の将軍が選ばれました。その一人が吉備津彦命であり、当時の吉備国(岡山)で朝廷とは別の勢力(まつろわぬ者たち)と戦い、勝利したということが日本書紀に書かれており、実際に、この地方(現岡山県)には、造山古墳(=全長約286メートル)が発見されており、全国でも第9位を誇る古墳が残っていることで、かつて大和朝廷に対抗する、一大勢力が実際に存在していたことを示していると考えられるからです。
さらに、この「まつろわぬ民」の所有する製鉄技術(たたら製鉄:「もののけ姫」にもでてきてますね)を朝廷が我が物にしたかったという意図も受け取ることができます。そして、桃太郎伝説の中で、桃太郎が鬼を退治して鬼の宝を持って帰ってきますが、この宝こそが、製鉄技術ということになるわけです。また、この「まつろわぬ民」は、修験道者(山伏の集団)、であったり、山の民と呼ばれたり、土蜘蛛(つちぐも)とも呼ばれ、実在していました。この「まつろわぬ民」だけで記事が5つぐらいかけるほどのボリュームなので今回はこの辺で。
ここで、古代の吉備の国を語る上で忘れてはならないもののひとつに、前述のように「製鉄技術」があります。当時の製鉄法は、山砂鉄を急流に流して沈殿した砂鉄を集め、たたら炉によって鉄をつくる、いわゆる「たたら製鉄」と呼ばれる方法です。これは主に朝鮮系渡来人によって、大陸から伝えられたものです。これを吉備の国に伝えたのが、百済(現:韓国)の王子といわれる温羅だったのではないでしょうか。
「鉄は国家なり」と言われた時代、当時の最先端技術であった「製鉄」のテクノロジーを持った吉備の国は、産業国家として繁栄していました。温羅は「吉備冠者」(きびかんじゃ:ヒーローの意)と呼ばれ、人々から尊敬されていたとも伝えられています。温羅一族とはまさに、明晰な頭脳と高度な職人の技を持つ、プロの技術者集団だったと考えられます。でも、そんな吉備の国の繁栄は、全国統一をもくろむ大和朝廷から見ると、面白いはずはありません。朝廷は、技術者集団の指導者である温羅を滅ぼし、吉備を朝廷に全面服従させることを企んだわけです。
【勝てば官軍】
こういった政治的背景の中で、朝廷は温羅を「敵=悪」としてしまいます。その上で、吉備に攻め込み温羅を殺害します。実際、我々の耳に入ってきている温羅は、鬼であり、鬼とされるが故に、悪者となっています。しかし、吉備の国に繁栄をもたらした恩人を殺された人々の悲しみは、いかばかりだったでしょうか。
「温羅の首の13年間のうなり声」 とは、実は、吉備の民衆の怨嗟の声、慟哭、弔いの祈りだったのではないでしょうか。民衆の恨みと温羅のたたりを恐れた朝廷側は、仕方なく吉備津神社を建て、温羅の首を竃の下に埋めます。そして、竃の火を炊くという表向きの理由で、温羅の霊を弔うことになります。その死を悼む吉備の人々も、こぞってこの神事に参加したでしょう。民衆は、表面的には朝廷の統治に従いながらも、彼らの心から温羅への想いが消えることは、決してなかったのではないでしょうか。
大和朝廷の野望の犠牲となって死んだ、悲劇の英雄、温羅。この悲しい物語は、中央集権的な史観の中で封印された、「もうひとつの桃太郎伝説」なのかもしれません。
『おまけ ②桃太郎は桃から生まれてはいません』
桃太郎は室町時代から語りはじめられ、江戸時代前期に完成したと考えられています。宝暦3年(1753)に書かれた「桃太郎物語」では「桃を食べて若返ったおじいさんとおばあさんの間に生まれた。」という話だったのですが、明治20年(1887)国定教科書に載せる際に現在知られている「桃から生まれた」という話に変更されてしまいました。
『おまけ ③日本五大昔噺』
一般に、かちかち山・猿蟹合戦・舌切り雀・花咲か爺・桃太郎の五つの昔話をいいます。明治時代に小学国語読本や絵本などに採録され、広く流布するに至ったことで、我々も知るところとなったようです。
あと、桃太郎に(それ以外にも)出てくる鬼については、よく西洋人説もありますが「鬼の歴史や種類」 を分かっていない思い付きの案であり、一部の条件しか満たしていないため、個人的にはには却下です。 そのうち鬼の文化も書いていこうかと思っていますが、ここでは深く触れません。一つだけ触れておくと 鬼は中国の神仙思想で生まれ、日本に輸入され、陰陽道という観点から独自の発達を見せ、既に中国の鬼 とはまったく違ったものとなっています。これもチャンスがあれば、そのうちに。。。
人には3つの性がある
人には3つの性がある
心理学という観点で、男女の違いを述べるときには実は大きく分けて3つの観点があります。
先ず1つ目は、生まれ持った「オス」か、「メス」かという生物学的な性でこれを「セックス」といいます。これは不変的なものとして扱い、例えば、女性にしか子どもを生むことができないといったことや染色体・外性器の違いなどが特徴として上げられます。いわば物理的な違いによって分類されたものです。
2つ目は社会的・文化的・歴史的要因が加わって構成される性、「ジェンダー」です。ジェンダーとは、後天的にできたものです。例えば、男の子には青い服、女の子には赤い服を着せ、男性は仕事をするもの、女性は家事をする、男性は豪快で、女性はおしとやかといったその人には関係なく社会・文化によって規定される男性らしさ、女性らしさを指します。例えば、性同一性障害はセックスとジェンダーが一致せずに苦しむ障害といえます。
3つ目は、性の指向における性別、「セクシャリティ」です。これは、性愛の対象として同性と異性のどちらを欲するかという、性的に惹かれる相手の性別を意味します。
例えば、セックスが男性、ジェンダーが男性、セクシャリティが女性が一般的な男性の姿です。
この組み合わせが、セックスが男性、ジェンダーが女性、セクシャリティが男性の人は、性同一性障害の「ヘテロセクシャル(異性愛)」になります。
また、セックスが男性、ジェンダーが男性、セクシャリティが男性だと、いわゆるゲイといわれる人になります。
このように、単に、「男性」「女性」といっても、その意味するところは決してシンプルではなく、複雑になっています。特に、セクシャリティに関しては男女の区別無く両者に惹かれるバイセクシャルと呼ばれる人もいます。
最近、ようやくジェンダーフリーという言葉が出回り始めましたが、まだまだ認知度は低いようです。
このジェンダーフリーというのは、後天的に作り上げられたジェンダーに捉われずに、自由に生きていこうという考えです。これまで、子どもを育てるのは主に女性の仕事で、それに応じて男性が外に稼ぎに出るというスタイルが都合のよい姿となっていました。
特に日本ではこの傾向が強く、男性が働き、女性は家事と子育てに専念するモデルに基づき、税制・社会保障制度などが作られてきました。
しかし、今後は、性によって縛れるのではなく、「男性らしさ」「女性らしさ」の是非に捉われるのではなくて、「自分らしさ」を獲得していくことが重要視されるようにもなってきています。
【気】 のパワー?
【気】 のパワー?
久しぶりの考察です。今回は、『気』について、神道の観点で考察してみました。
宗教の特徴を漢字一文字で表すとすると、どういう字が最も適当であろうか。独断と偏見で考えてみる。
たとえば、キリスト教ならば、「愛(あい)」であろう。
仏教ならば、「空(くう)」が当てはまるかも知れない。
神道では、どうか。
やはり「清(せい)」がもっともふさわしいように思う。
神道では、「穢(けが)れ」が嫌われ、清らかであることや、純粋であることが好まれる。そして、その清らかさとは、人間の手を必要以上に加えたものではなく、なるべく天然自然のままの、素朴な状態を指しているようである。神社で白木が用いられるのは、そういう特徴からでもあろう。
「セイ(清)」という訓(よ)みは、「聖」・「正」・「静」・「誠」などに通じる。いずれも神道らしさを表現した字である。神道の祭祀には派手な音は無縁で、静かに、無音のまま行われることが多い。時おり神前に鳴り響くのは、神官が打ち鳴らす拍手(かしわで)の音であり、祝詞(のりと)の言霊(ことたま)である。
清らかな状態の反対は、穢れた状態である。ケガレとは、汚いという意味も含むかも知れないが、本来は「ケが枯れた」ことを言う。神に捧げる献饌(けんせん)の酒と米を「ミキ(御酒)・ミケ(御饌)」というが、e と i は相通じるので、ケ(ke)とキ(ki)は本質的に同じものと考えてよい。
古語では、食のことを「ケ」と表現した。日月神示にも、「食(け)にひもじくないように…」云々と出てくる。古神道の行法に断食もあるが、これを「食断ち(ケダチ)」という。また、古語では、衣類のことも「ケ」と言った。さらには住居も「ケ」という音で表した(『古語拾遺』)。
すなわち、昔の日本人は、人間が生きていく上で不可欠な「衣・食・住」のすべてを「ケ」の一言で表現したのである。
さて、「穢れ」を「気枯れ」とし、「ケ」に「気」という字をあてたのは、中国から日本にもたらされた、当時の最先端の学問であった宋学にみられる「理気説」が度会神道に取り入れられた中世(鎌倉末期)以降のことであろう。
しかし、ケガレを「気枯れ」とした発想も、的を射た解釈だと私は思う。
「気」という言葉は今日の日本語においても、「元気」・「病気」・「根気」・「勇気」・「やる気」・「気力」・「気にする」・「気持ち」・「気がない」・「何気に」・「気が狂う」・「気が早い」・「気色」等々、とにかく日常の至るところで使われている。いわば物質的なすべてのものを存在せしめ、なおかつ活動せしめるための本源的エネルギーが「気」である。
(なんかちょっとタチコマ風)
われわれが生きていくためにどうしても必要な、形而下(けいじか)(形に表れた具象世界)における有機体としての物質を、古語では、「衣食住」を表す「ケ」の一言に託したとするならば、それに加えて、形而上(形に表れない抽象世界)の、非物質的で、五感では捉えられないけれども生きていく上で不可欠な「気」という概念を、「ケ」という語の発展的解釈に取り入れたわけである。
うさん臭く、気のパワーを語っている人の言葉も、こういう角度で聴くと意外と説得力あったりして。。。(笑)
そんなわけないか。
迷信のプロセス
迷信のプロセス
ある惑星に、古びた宇宙基地があり、人々は先祖代々その中で細々と暮らしていた。この惑星には酸素がないため、宇宙服がなければ、外へは出られないと言われているためである。
そして、この基地には宇宙服がないので、人々は外に出たことがない。彼らの生活を支えているのは、6つの棟にそれぞれ取り付けられた、先祖伝来のオンボロ酸素発生装置である。
この装置には、色とりどりのレバーやボタンがたくさん付いていて、いくつもの複雑な操作を、毎日決まった時間に行わなければならない。操作する人間には、正確さが要求され、もし操作を誤れば、住民全員を死に追いやってしまうため、責任は重大である。また、住民たちも、操作者が毎日性格に操作しているおかげで、自分たちが生活できていると信じている。ただ、ときどき、息苦しさを感じることがあり、そんなときは、酸素発生装置が正常に動いているのか心配になることもあった。
しかし、あるとき、ちょっとした事件が発生する。近くの惑星から迷い込んだ新参者が基地の外を散歩中、偶然にも宇宙服なしでも外を歩けることを発見したのである。この新参者は、結局おかしくなった奴として、片付けられるが、一部には動揺が走る。そのうち、基地に大きな転機が訪れる。
大規模な調査団が基地を訪問し、基地の外部には酸素があり、時折発生する微量の有毒ガスのために、簡単なマスクは必要だが、普段はマスクなしで大丈夫なことを伝えたのである。
さて、この調査結果を受けて、基地内では、酸素発生装置に対する意見がいくつかに分かれるようになる。保守派は、今まで通り、機械の操作を「しきたり」として守ろうとする一方、革新派は二分した。一つは、外の空気を取り入れ、微量の有毒ガスは調査団がもたらした簡易マスクでしのごうとする人々である。彼らは、今までもときどき感じてきていた息苦しさは、有毒ガスのせいだったのだと解釈している。もう一つは、機械を空気清浄機として存続させようとする人々である。
やがて、基地内の6つの棟では、「機械を破壊する棟」「伝統を重んじて、以前と変わらぬ機械操作をする棟」など、機械に対する様々な態度が生まれる。中でも、興味深いのは、機械操作を一種のパフォーマンスにし、見世物にする棟もあったことだ。そこでは、かつて求められた正確な操作は、観客に見せるための派手さや巧みさにとって代わられた。いずれにせよ、今やこの基地には、かつてのような酸素発生装置をめぐる切迫した雰囲気はなくなった。
福島真人「儀礼から芸能へ」(福島真人編「体の構築学」ひつじ書房)より要約
さて、この寓話は何を表しているのでしょうか。
酸素発生装置のレバーやボタンは儀礼の装置であり、その操作こそが儀礼を表しています。そしてその儀礼は、代々受け継がれてきた「ならわし」の体系であると同時に、儀礼がルール通りに行われることこそが、社会秩序をもたらすと信じ込まれていたわけです。つまり、儀礼をきちんと行わなければ、何かしらの災いが起こると信じられていたのです。
儀礼の有効性について、疑義を生じさせることは簡単です。しかし、それを実証することは困難です。儀礼を行わずとも、大丈夫であるということを証明するためには、儀礼を一度止める必要性が生じるからです。仮に儀礼を行っているにもかかわらず、災いが起こった場合でも、人々は儀礼に効果がなかったとは認めず、儀礼のやり方に問題があったと解釈する傾向があるからです。
儀礼は、「ならわし」「ジンクス」「しきたり」「おまじない」といった様々言葉で表すことが可能であり、各地で違った解釈が存在したりもします。
儀礼の例としては、正月の鏡もちや、注連縄(しめなわ)、七五三など、数え上げたらきりがありません。こういった儀礼が発展していったものに、「お祭り」や「伝統芸能」、場合によっては「宗教的行為」(例えばお百度参り)などが挙げられます。
ここで、儀礼が科学的に迷信だとか、無意味なものであるということを言いたいのではありません。
儀礼は、人々の心理的不安を取り除く働きをしているという考え方もあります。例えば、危険を伴う作業の前などに、儀礼を行い作業の安全を祈願することで、心理的な不安を打ち消し、安心感を生み出すこともあるでしょう。おもしろい例としては、パプアニューギニアの首都ポートモレスビーにある日本大使館で大使館付き医師として働いていた久家氏の話によると、未だ、ウィッチ・ドクター(呪術医)が存在し、ウィッチ・ドクターの有効性を多くの人が信じており、西洋医学と同居して、実際両方の医者に行く人が後を絶たないとのことです。すなわち、パプアニューギニアという国では、ウィッチ・ドクターの治療が有効に働いているということの現われです。
儀礼は無意味なものではなく、むしろ立派に機能しており、人々の生活に貢献しているものでもあります。もし、この世から儀礼がなくなれば、それは味気のない全て論理だけの世界になり、とても精神的に余裕を持てる状態ではなくなります。
一見、無意味(非論理的)な行為にも、何かしら意味が存在するのではないかという、お話でした。
夏祭りはタタリ神の祭り
しかし、夏祭りだけは違う。
夏祭りが行われるのは多くの場合、7月の中旬になる。これは、八坂神社のお祭りが旧暦でいえば、6月15日と決まっているからなのである。一月遅れで7月15日、あるいは最近ではその近くの土日というところがほとんどである。
八坂神社は、祇園社、天王社、津島神社、八雲神社、須賀神社などの別名を持っている。近所で夏祭りをしているところがあれば、何神社か調べてみれば、大概、これらの名前が見つかる。
全国にある八坂神社の総本山ともいえるのは、もちろん京都の八坂神社である。ここの祭神は、スサノオノミコトを始めてとした神様である。スサノオというのは天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟であり、記紀神話にあるように、あまりにもイタズラ(乱暴)がひどかったため、神々の世界である高天原(たかまがはら)を追放されたという乱暴な神様である。一般的に天照大神は太陽神であり、スサノオは自然災害全般を表しているとも言われている。
ただ、このスサノオが祭神として、前面に押し出されたのは、神道色の強まった明治以降である。もともと、この京都の八坂神社は「祇園社」と称していた。祇園というのは、あの平家物語の冒頭で出てくる「祇園精舎の鐘の声・・・」の祇園精舎のことで、釈迦が説法を行ったインドの僧坊を指している。
祇園と言えば舞妓さんでも有名であるが、何と言っても夏の風物詩、「祇園祭」であろう。華やかな山車の巡行は、毎年ニュースでも取り上げられている。
この京都の祇園祭のルーツになったのが、平安時代に行われた祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)である。では御霊会とは何か。
当時、人々を恐ろしい疫病が襲った。都でその疫病が広まる中、人々はその原因を藤原氏との政争に破れ非業のうちに死んでいった早良親王(さわらしんのう)らのタタリにあると考えた。そこで、その霊を慰めるために行われたのが、御霊会である。この時に、祀ったのが当時威力のある外国の神、牛頭天王(ごずてんのう)である。
このように、当時日本では疫病などの悪いことが起こると、何か(誰か)のタタリではないかと考える慣習があった。もっとも有名な例として、天神様が挙げられる。菅原道真公(すがわらのみちざねこう)は藤原氏の陰謀によって、九州の大宰府に左遷され、憤死する。それからしばらくして、京の都の宮廷に雷が落ちたり、左遷を謀った人物が変死を遂げたりした結果、道真公のタタリととなった。
人々は道真公の怒り(タタリ)を鎮めようと、北野天満宮を建てて、道真公の霊を祀ったところ、被害もなくなったという。今は学問の神様として学生たち合格を祈願しにお参りをする神社であるが、もともとは雷神として、崇められた天神様であった。
また、余談だが、カンコー学生服という名前の由来は学問の神様である「菅」原道真「公」から来ている。
つまり、御霊信仰というのは、タタリをなす怖い「御霊」をお祀りすることで、逆に悪いものから守ってもらおうという都合の良い信仰であった。
そして当時、この御霊の中でも特に高次レイヤー層に位置したのが、牛頭天王である。
牛頭天王は本来、インドの祇園精舎を守る守護神であったのだが、やがて、この牛頭天王こそが悪さをなす疫病神たちの親玉であると考えられるようにもなった。だからこそ、この牛頭天王にお願いしようというのである。つまり、ヤクザの親分に守ってもらえば、チンピラは逃げていくという考え方である。
だからこの牛頭天王を祀る八坂神社が御霊を祀る神社の中でもっとも強大な力を持った神社になった。また、夏は特に疫病が流行ったり、農作物を食い荒らす虫が発生する、雷も夏に多い。自然災害のもっとも多い季節が夏であり、この自然災害こそが御霊であり、その頂点に君臨するのが牛頭天王であり、牛頭天王を祀るのが八坂神社なのである。
八坂神社で、牛頭天王をお祀りをすることで、病気や災いから身を守ろうとしたのが夏祭りのルーツである。
奇跡と偶然の差
では、偶然と奇跡の違いは何でしょうか?
それは、出来事を解釈する人々の意味づけの違いにあるといいます。人間は意味を求める動物です。不思議な出来事を偶然と見るか「神のご加護」あるいは、「仏様のおかげ」と見るかは、それを解釈する人によって異なります。一般的に不思議な出来事を経験した当事者はそれを偶然とは思わないでしょう。
ちなみに仏教では「未曾有(みぞう)」という言葉がそれにあたるようです。未曾有は、奇跡の意味のサンスクリット語「adbhuta」が漢訳された仏教用語で、仏の功徳の尊さや神秘なことを賛嘆した言葉であったようです。日本では「未だ曾て有らず(いまだかつてあらず)」と訓読され、かつては本来の意味で使われていたのですが、鎌倉末期には原義が転じて、善悪の両方に用いられるようになったとのことです。
いずれにせよ、ある出来事を神仏に関連付けて解釈したとき、その出来事は単なる不思議な出来事から、奇跡へと変貌を遂げます。
実は宗教(カトリック)において、奇跡というものは、法王庁が認定するもので、宗教的には私たちが普段何の気なしに使っている「奇跡」という言葉は、ご法度になります。カトリックの世界ではそう簡単に奇跡が起こってもらっては困るのです。もちろん個人的に、ある事象に対して私たちが勝手に奇跡だと謳う分にはまったく問題ありませんし、現にテレビなどもバンバン使っています。
しかし、宗教的には勝手に使うことは認められていませんということです。
ローマ法王を頂点とする組織、法王庁には、列聖省、教理省といった、いくつもの省や、委員会があります。バチカンは、正式には、バチカン市国と呼ばれ、面積わずか、約0.4平方Km(皇居の約1/3)、人口812人(2004年4月現在)の極めて小さな国家です。そこでは、ローマ法王が国家元首で、法王庁は宗教的な政府ということになります。その法王庁には、奇跡を調査し、認定する奇跡調査委員会というのがあります。この委員会にある事象を奇跡として認めてほしいという申請をし、認められなければその事象を奇跡と呼ぶことは許されません。
ちなみに、この申請は、世界各地からあるそうで、年間200件以上あるそうです。しかし、そのうち調査対象となるのは、わずか1~2パーセントだそうです。さらにその申請が許可されることになるのは、時間もかかりますし、実際にはほとんど認められないというのが現実のようです。ただ、この調査は、警察の事件捜査と同様の手法で論理的かつ徹底的に行われ、最先端の科学も導入し検討されるそうです。この調査の結果、科学的・合理的には解明できないとされたとき、奇跡と認定されるとのことです。興味深いのは、奇跡が信仰によるものであるにかかわらず、宗教が徹底的な科学捜査をするところがおもしろいと、個人的には思っています。
では、これまで奇跡と認定されたもので、どのくらい不思議な出来事があったかというと、その多くが、聖人や聖母マリアに祈ることで、病気が治ったというものが多いのですが、なかには、鍋のお米が勝手に増えて、孤児たちの空腹を満たしたとか、列車事故から生還したなどというものもあります。
なぜ、カトリックでは、奇跡を認定するという方法を取るのでしょうか。端的にいうと、あっちこっちで奇跡が簡単に起こってもらっては困るからです。奇跡は神が起こすものであり、その神が起こした奇跡が頻発して現れれば、奇跡のありがたみが薄れてしまうからです。インフレの制御をしているということです。
それでも、人々は奇跡を求め続けます。それが無宗教といわれている日本人でさえも、「奇跡」を求めますし、マスコミも取り上げます。テレビでも放映されています。
私たち日本人が無意識に使っている「奇跡」には、こういった宗教の背景を理解して使っている人は少ないと思われますが、やはり本当の奇跡は、神がかったものだと思われます。奇跡は、常識(科学)では理解できないような出来事であるがゆえに、神の所業となるわけですから。
パブレンジョウ?
パブレンジョウ?
先日、知人と京都で飯でも食おうということになり、京都へ出発したのですが、仕事の関係で別々に移動することに。相手の方が先に京都に到着するので、自分が京都に着いたら連絡を入れることで合意。
で、連絡入れたら、「パブレンジョウ」の前で待っているとのこと。何回か聞き返したのだが、向うの電波の関係で途中で途切れ、結局正確な場所は把握できず。とにかく自分が把握した言葉は「パブレンジョウ」だった。これ以上でも、これ以下でもない。ただ、最後に相手が行った言葉は、「タクシー乗ってくれば直ぐだから」という言葉。
最後の言葉を頼りに、京都駅に到着後、タクシーに乗り込むが、その前に発音の練習。はっきり言って「パブレンジョウ」が正しいとは思っていないので、最初の「パ」を如何にあやふやに発音するかである。練習終了。
いざタクシーへ。
自分:「○ブレンジョウに向かって下さい」
ドライバー:「分かりましたパブレンジョウですね」
おいおい、「パブレンジョウ」であってるのか?オレのあいまいな発音で通じたし、運ちゃんも「パブレンジョウ」って言ってるぞ。マジ??そんな地名あるの?
しばらくして現地に到着。
「歌舞練場(かぶれんじょう)」じゃん。
う~ん、京都では相当有名みたいだし、現にFEPでも「かぶれんじょう」で一発変換されたから、知らないのは自分だけのような気がしてきた。オレ相当カッコ悪ぃー。
小泉靖国参拝の本当の理由
そして、近隣の東南アジア諸国(特に中国)からは、正式なブーイング(理由はここでは触れない)さえも出ている。
でも止めない。
何故?
小泉はもともと熱心な参拝派ではなかった。
では、何故小泉が参拝を公約し、実行をしたのか?
一言で表現するなら「票が欲しかった」ということだろうか。
何故、票が欲しいと靖国参拝をするのか?
票とは総裁選のことであり、この総裁選立侯補に際して参拝を公約したのは、党内派閥事情から端を発していた。
竹下は「皆で靖国に参拝する会」の会長だった。また、橋本も靖国参拝とは縁の深い「日本遺族会」の会長だった。また、現在、この日本遺族会の会長は古賀である。つまり竹下、橋本、古賀の系列こそが、いわば本当の靖国参拝派であり、党内少数派としての小泉はここで票が欲しかった。
現在自民党内で最も大きな派閥は橋本派である。そしてその橋本派は、田中派⇒竹下派⇒小渕派⇒橋本派という経緯で現在に至っている。即ち、竹下、橋本が属している最も大きな派閥(橋本派)こそが、本当の靖国参拝派である。
そこで、86年に中曽根(現:江藤・亀井派)が断念し、96年に橋本(現:橋本派)が断念した参拝を公約し、中曽根、橋本の腰砕けを超克するスタンドプレイを試みたとき、票が流れると小泉は読んだのである。
そのとき、当時中国側(江沢民)はひたすら対小泉高圧政策で応じた。その結果、小泉は靖国参拝を止められなくなったというのが真相ではないだろうか。
■自民党内派閥
・橋本派 98人 断念
・加藤派 62人(古賀) したい
・森派 61人(小泉) 実行
・江藤/亀井派 57人(中曽根)断念
・山崎派 22人
・河野派 15人
・旧河本派 13人
橋本派がダントツで大きく、続く派閥は事実上、「加藤派」、「森派」、「江藤・亀井派」とあるがこの3派は、ほぼ同位である。
■日本遺族会
日本遺族会は、「大東亜戦争」戦没者遺族の全国組織として昭和22年(当時は、日本遺族厚生連盟)に創設され、昭和28年2月、財団法人として認可される。各都道府県には独立した遺族会が結成され、日本遺族会の支部としての役割も果たしている。市町村にも遺族会が結成されており、各々、さまざまな活動をする。
■大東亜戦争(だいとうあせんそう)は、第二次世界大戦における1941年(昭和16年)12月8日(真珠湾攻撃)から1945年(昭和20年)8月15日(ポツダム宣言受諾)まで、日本が中心となって大東亜共栄圏を形成することを目的とした日本と連合国との戦争の、当時の日本での呼称である。戦後の一時期、GHQはこの呼称の公式な使用を禁止して「太平洋戦争」という呼称で置き換えた。その後、禁止は解除されたが、この言い換えはそのまま日本社会に受け容れられて定着し、「大東亜戦争」はあまり使われなくなった。
■靖国神社(やすくにじんじゃ)
明治維新というわが国が幕藩体制から近代国家体制へ生まれかわろうとするときに、一命を捧げた人たちの霊を慰めようと明治2(1869)年6月、明治天皇が「東京招魂社」として現在地に創立されたのが起源で、12(1879)年に「靖国神社」と改称される。先の大戦までに戦場で戦没された軍人・軍属だけでなく、文官、民間の人たちも祀られている。
例えば、沖縄で散った「ひめゆり」、「白梅」など7女学校部隊の女生徒、沖縄から鹿児島へ疎開中、敵潜水艦によって撃沈された「対馬丸」の児童たち、また、大東亜戦争終結直後の20年8月20日、ソ連軍の不法侵攻を最後まで内地に通報し続けて自決した樺太(サハリン)真岡の女子電話交換手、民間防衛組織の責任者として空襲下に爆死された人、学徒動員中に軍需工場などで爆死した学徒らも、等しく祀られている。
現職首相による8月15日の靖国神社参拝は、
・昭和50(1975)年の三木武夫首相が初めて首相公人としての参拝
・昭和60(1985)年には中曽根康弘首相が参拝
現職首相による神社の春季、秋季例大祭における参拝は
・昭和26(1951)年10月の吉田茂首相参拝
・昭和20(1945)年11月の幣原喜重郎首相参拝
などの歴代の首相が参拝。
大東亜戦争後の歴代首相27人のうち、在職中に5回以上参拝した首相は、
吉田茂(5回)
池田勇人(5回)
佐藤栄作(11回)
田中角栄(5回)
鈴木善幸(9回)
中曽根康弘(10回)
で、小泉首相は、毎年一度の参拝。
しかし、いま、橋本派の凋落は誰の目にも明らかであり、また江沢民も消えた。とすれば、小泉にとっての靖国カードはにもはや意味はないものに変わりつつある?
幻聴のシステム?
幻聴のシステム?
以前、2泊3日でとある病院に入院したときの話である。病名は「尿管結石」。尿管結石の詳細は割愛するが、兎にも角にも「痛い」疾病である。
まだ、一人暮らしをしていたときのこと。夜にメチャクチャに下腹部が痛くなり、痛さのあまり息ができなくなった。よくガキのころ、高いところから落ちて背中を打ったときのような感覚で、号泣したときの嗚咽にも似ており、呼吸が困難な状況になったのである。
当然、そのときは病名など自分で分かるはずもない。ひたすら恐怖と苦しさに悶えていた。そしてこのままだと意識がなくなることに怖さを覚え、自身で119番に通報、救急車で病院に運ばれた。
そこで、半分意識のない中、診察室らしきところで痛み止めの注射を打たれ、その後、病室へ入り、ますます意識が朦朧としているときに、何と、看護婦さんたちの囁く声が耳元で聞こえてくるのである。その内容は
「若いのにかわいそう」
「本当よね」
「どのくらいもつのかしら」
「今晩がヤマみたい」
といったような会話である。
そのまま意識が薄れ、気が付いたときはあくる日の昼ごろ。そのときは既に尿管から石は膀胱へ流れ落ちていたようで、全く痛みなど微塵もない。とは言っても前日、のた打ち回るほどの痛みを経験し、薬によって痛みを和らげた分、全くの健康体というわけではなく、さすがに、ボーッとしている。
とにかく、気が付いたので、看護婦さんを呼んで、昨夜の記憶のなくなったところから自分がどうなったのかを教えてもらう。
ほぼ、うろ覚えの記憶と一致。
しかし、一点だけがしっくりこなかった。
看護婦さんの詰め所の位置が、どう考えても遠いのである。ようするに半分意識不明時に聞いた看護婦さんの会話は自分のいた病室、ベッドでは全く聞こえるはずのないものであった。また、そのときはそのフロアの詰め所には一人しかスタンバっていなかったというのだ。だから、看護婦さん同士の会話にはならないのである。
結局、様子を診ることで、もう1日泊まり退院。退院時はほとんど健康体であった。
退院して、ゆっくり考えると、あれが脳が生み出す幻聴であったということで納得。物理的に聞こえるはずのない距離の会話。また、一人しかいなかったということで会話にはならないという事実。さらに会話の内容も全く不自然。ようするに、自身の恐怖が作り上げたもの(内部のもの)が、外部からの刺激であるように感じてしまう錯覚。これが幻聴なんだと、初めて貴重な体験を積むことができた。
自分にとっては(自身の脳にとっては)真実以外の何者でもないのだが。
※看護婦さんという表現は意図的に使っています。気を悪くされた方、申し訳ありませんです。
テロと民主主義と資本主義
テロと民主主義と資本主義
テロ活動の撲滅を何とかしたいなぁと個人的にいろいろ考えていたのですが、普段考えないことを一杯考え過ぎて、頭がパニックってきております。
アメリガが今一生懸命イラクでやっていることって一体何なんだろう。アメリカの本心は結局のところ誰も分からんのだよね。もちろん推測はできるけど。少なくとも、もっとも大きな大義名分は「テロの殲滅」にあったと記憶しています。
仮にアメリカが報復(今の戦争)を行わなかったとしますよね。(これは、すっごくいい事だと個人的に思う)だけれども、やっぱり第二のWTC事件は起こるやろね、再び。だって、テロリストがいるんだもの。
で、実際、今、報復を兼ねてテロの殲滅を建前に戦争をおっ始めちゃった(勝手に終結宣言だしてるけど)わけだけれど、一杯、犠牲者(テロリスト以外も)出ちゃいました。まだまだ出るよ。でもその上で、アメリカの大義名分が実を結び、よしんばテロリストが撲滅されたとしましょうか。でも、これもまた、テロ「イズム」の壊滅が出来ない以上、第二のWTC事件はきっと起こるね。間違いなく。
どっちを選んでもこの先、ロングスパンでみると、絶対、何の関係もない一般市民の命が数多く失われちゃうんよね。(このままでは日本も例外ではないでしょ)
デモ行進をしても、署名をしてもテロは絶対になくならないよね、そんなことで無くなりゃ、私も一番にしまっせほんまに。(←こういった一連の行動を否定している訳ではありませんので、念のため)
で、どうすりゃテロってなくなるんだろ?って無い頭絞って考えたら、空しくなっちゃった。どんどん原因の奥へ奥へと進んでいくと、どでかい壁にぶち当たって、お手上げになっちゃいました。あはは。
思考の過程は至って単純で、自然界の中で法則的に存在してる天敵っちゅうもんの存在を考えて、もしそれがテロにあったらテロって無くなるのかなぁって考えとったんですわ。ポーッと。そしたら、「テロは民主主義の敵だ」って言うお星様の一杯ついた国旗を持った国の偉いさんが開口一番に言った言葉を思い出したのよねん。これがそもそもの発端。う~ん民主主義がテロの敵なら、テロの敵はなんだろう。あれっ、そもそも民主主義って何だっけか。
民主主義って何だろうと考え始めたら、さあ大変。
私たちの暮らしてる社会は確かに民主主義。だけれども、その前に、資本主義でないかい?って思った訳。言い換えると、「資本主義の中で生活してる私たちは民主主義という考え方をして生きている」ってこと。ここんとこめちゃんこ重要で、決して「民主主義の中で生活していて、資本主義という考え方をしている」訳じゃないんだよね。つまりは、私らの生活の基盤は、資本主義にあるってこと。
そいでもって、今の先進国(いろんな力を持った国)はほとんどが資本主義ってこと。これは即ち、資本主義で世界が動いているって考えても、ほぼOKって事。
しかしながら、この資本主義というのが厄介で、一言で言っちゃうと金持ち優遇主義なんですよね、世界が。
具体的にこれはどういうことかというと、株式会社の運営を例にとっちゃったりすると解り易いと思うので、これで話しを進めましょ。通常、株式会社の総株式発行数の51%を所有すればその会社を意のままにすることができちゃう訳ですよ。
例えば、ある会社の総株式発行数が100株であったとして、それが一人一株で100人の株主がいれば、確かに株主総会の決議は、数の理論で民主主義なんだけど、そんな会社、実際には皆無に等しいじゃないっスか。
逆に51%の株、すなわち51株を一人の人間が保有し、残り49株を49人で保有している会社があったとしたら、「人の数」で言えば、1対49の絶対多数で決議がされちゃう訳ですが、実際には、そうは問屋が卸してくれず、一人の意見が、この会社では、株主総会の決議事項として取り扱われてしまっちゃう。これがまさに資本主義。(現実は、こっちのパターンの方が多いのよね、株式会社っつーのは。つい最近もどっかのデブチンが似たようなことをやっていたけど)
ということで、この人(51%の株式保有者)はお金で51%の株を購入しないとアカンから、この人は株をちゃんと買って持ってるんですよ。金が無きゃ出来ない芸当ですよ。で、その一人の金持ちは、社長の任命権を含む人事権を掌握し、財務の処理を独自の判断で行うことができてしまう訳ですよ。思うが侭に。こんなの民主主義じゃないじゃん全然。
で現在、アメリカは言わずもがなで資本主義。そいで、一説によると、アメリカの人口の5%にあたる人たちの総資産が、アメちゃんの総資産の55%に達している訳で、これを、具体的な数字に置き換えると、え~と、総人口が確か約2億8000万人だから、その5%は140万人で、95%は2億6600万人ということになって、さらに、これを上の話しに当てはめちゃうと、あらあら、140万人の意見が2億6000万人以上の意見を無視するわけだな。無視される側の人口って、日本の総人口の2倍より多いじゃん。そら、日本なんて当然無視されるわな。
歴史の紐を解いてみると、今までのアメちゃんの取ってきた行動を整理すると、「必ず」、と言ってもいいほど、この5%の為に行動してきたことがほとんどなんですよ、恐ろしいことに。今回の報復(戦争)についても当然、例外なんかでない訳ですよ。
でなけりゃ、議会において、あれだけの圧倒的多数(上院においては全員一致、下院においても報復反対は一人だけ)で報復行動が可決されるわきゃねぇもん。米国の議員の中で、私らみたいな考えた方(そんな簡単に戦争起こしていいの?)ができる人間が一人しか存在しなかったと言うことがあり得るわけないじゃん?
冷静に考えたら、いかにアメちゃんが熱い国であろうとも、一人しかいないなんて、おかし過ぎるわな。そんなにアホの集まりなんでしょうかね?そんなにみんな熱いんですかね米国の議会は?そんなこたぁねぇでしょ。奴らだって賢いでしょ。そしたら、これは、損得勘定がちゃんと働いた結果の数字であると考えるべきでしょ。
また、アメリカを始め多くの先進国(民主主義国⇒資本主義国)がこの報復計画に武器を携え、戦争と言う形を取って行動を起こしたわけですよ。途中脱退したところもあるけど。
各国の行動は、自国の利害関係に基づき参戦しようとしていると考えるのが妥当だわね。
決して、義理や人情、正義や、道徳、ましてや犠牲になった米国市民に対する怒りなどでは絶対無いぞ。
もし、そうであるなら、むしろ私ら同様、「気持ちはわかるが、ちょっと待て。もう一回良く考えてみようぜ」って「落ち着けアメちゃん、どうどうどう」ってなだめるのが筋でしょう。
歴史までもが物語ってくれてます。ここで近代史の年表を整理してつらつら書く訳にも行かんので、端折っちゃいますけど、それこそ、中東と欧米の間には、様々な過去があり過ぎて、本当に書けんのです。
ここで、今までの話しを、アメちゃんのレベルから世界へと、マクロレベルにあげて考えるとまさに、前に「ジョージブッシュは3人いる」で述べてた話につながるわけです。
今の世界情勢は世界支配ヒエラルキーでなりたっとるわけで、その世界支配のヒエラルキーはというと、
第一位階はロスチャイルドをはじめ英国、欧州の王族・貴族階級であって、1700年代からのイングランド銀行株式保有者でもある彼らでして、実際ここに逆らって生き延びた人、そんなやついねぇよ。って思い出し、有名どころで、ダイアナさん、ケネディさん成仏してねって合掌しちゃいました。
第二位階は、第一位階の名門に家臣として仕える家柄の人たちで、ロックフェラー家、モルガン家、ハリマン家などの人たちだそうで。
そして、我らがアメちゃんのリーダー、ブッシュさんとこの一族はハリマン家に仕えることで、第三位階グループに仲間入りを果たした一族だそうです。
こんなどでかい背景がある資本主義に私一人がメスを入れても、カエルの面にションベン(ちょっと例えがちがうかな)で身動き取れないじゃんこれって。八方塞かこれは、って感じ。
報復(戦争)を止めさせるんだったら市民団体の手でできるかもしれんけど、(個人的見解では無理だね絶対)今の資本主義が続く限り、貧困、飢餓で、きちんと教育受けられへん人がおる限り、アメちゃんとこで言えば、95%の人のことを真剣に考えん限り、人殺し(テロ)は続くわな。
世界中の人が日本の中流家庭クラス以上にならんと、無理だべ。そいで以ってそんなこと自体が無理だべや(私の生きとる間には)。きちっとテロはいかんのよ(本当に遺憾だ)って、当然テロだけじゃなくって、殺生もあかんのよって、教えたらんと本当の平和はやってこんのよ。高等教育ちゃんと受けた後で、宗教選択の自由を与えてやったら、「本当の意味での宗教」も解るだろうし。
昔、もう誰だったか忘れちゃったけど、どっかの政治家(?)が米百俵と言う言葉を使われて説明されておられる通り、教育なくして、テロはなくならんね。私はその人の総論には賛成で、後方支援の(アメリカに金出すんだんったら)変わりに、学校建てて、宮沢賢治を送った方がよっぽどいい、短期、中期的には。
でも、長期的な視野で物事見ると、今更なんだけど、何か初めて、「衣食住足りて礼節を知る」って言葉の意味を思い知ったって(実感した)感じかなぁ。「衣食住」が足りとらん人が世界中にたくさんいて、足りとらん人に、礼節(教育で)について(殺生はいかんと)話したところで、理解できんやろね。まぁ、今の日本(人)の経済レベルでさえも、犯罪はなくならんわけだし。資本主義がネックなんだよね。
社会主義が事実上崩壊をきたして、資本主義があたかも淘汰で生き残ったかのように見えてたけれど、この資本主義も相当(一番?)厄介じゃん。
テロ(実際にはテロだけに限定するつもりは毛頭ないけど)を無くさなければ、本当の世界平和は来ない訳だけど、これって何よ、資本主義政策論の話しになっちゃって、次元がちがうよ次元が。
私の頭の臨界点を遥かに越えてるわ、これ。これはもう世を捨て、皆様の健康と安全を祈って精進に励むしかないじゃん。即身仏にでもなるか?
だれか、資本主義に代わる、新しいシステム考え出してくれないかなぁ。あっ、あと、中国(この国の共産主義)が世界の主導権握るってのは却下ですから、個人的に。