コロナコロナコロナ、、
この言葉を聞かない日は無い毎日。
思い返せば、2月半ばあたりからコロナの感染拡大が不安視され、3月に入るとより状況は厳しくなり、4月に緊急事態宣言が出されました。
いまだ終息の兆しは見えないコロナ禍ですが、そんなここ半年の間の6月15日。
私の母が静岡市で45年営んでいたピアノパブを閉店しました。
まさに、私が0歳の時に開店をし、途中好景気だった時代の背景と、何よりもご贔屓にしてくれた地元のお客様に支えられて、42年間は静岡では目抜き通り沿いの大きめなビルで営業していて、それなりにお店も繁盛していました。
3年ほど前に、母自身が体力の衰え等も感じて、閉店しようかな?と考えていた時には、やはり地元のお客様になんとか営業を続けて欲しいと多数要望いただいたこともあり、母1人でもっと気軽に営業できる規模の場所に移転をし、母のペースで営業を続けられるよう、新たに営業を続けてきました。
この45年の間に、父との離婚もありましたが、母は日曜日以外年中無休で働き続けて、私と弟を大学まで出してくれました。
私と弟がそれぞれ地元を離れて就職して独立、結婚した後は、ようやく母は本当の意味で「生活の為」に何がなんでもお店を続けなければ!というプレッシャーからは解放されていたと思います。
そんな母のライフワーク的なお店を、6/15を最後に閉店したのです。
コロナの影響で3月を最後にパタっと客足も減り、もちろん営業存続の道も模索しましたが、日々流れてくる暗いニュースと、届くお店の家賃の請求書。
一度は体力などの問題もあって、3年前に検討した閉店という選択。
今回は本当に先行きも見えないし、何より母は70歳を越えています。
お母さん、お店閉めるね。
事前にそんな連絡がありました。
正直その連絡をもらった時、母の年齢のこともあるのでもう閉店がいいよね!という気持ちと、ものすごく寂しい気持ちと半々でした。
借金などもなく、年金などもきちんと納めてきた母ですから、閉店しても生活費の心配はありません。
もちろん、万が一足りなくても私と弟でどうにかします。
ただ、基本元気モリモリの母の、あたりまえのライフワークであったお店が無くなった時、生活のハリは残るのかな?それだけが心配だったのです。
お恥ずかしい話、私は大人になってから
永遠の反抗期
と母に言われた事があるくらい、今でこそ母に心配をかけていると思っていませんが、ことごとく母の思い通りには生きて来なかった娘なのです。
対して、私の弟は究極にママっ子で、年子でした。
私が甘えることを覚える前にお姉ちゃんなんだからと言われ続けてきたこともあり、女同士なのに本当に長いことうまく母娘のバランスが取れなかったのです。
思い返せば、幼い頃の弟は、みなさんが想像できないくらいとても手がかかりました。
ヤンチャ、いわゆる不良でじゃなくて、ドン臭くて手がかかりました。
今思えば、母がつきっきりになるのも理解できるほどに、忘れ物もするし、運動もできず、からかわれていじめられたりと、親なら心配で仕方ないタイプ。
ただ、おっとりしていて、基本優しく、なんだか許さざるを得ない憎めないタイプの弟だったのですが。
今、弟の彼が某業種のトップセールスマンであることは、このドン臭い時代を知る姉としては、本当に信じがたい気持ちで一杯です。笑
そして当時反抗期フィーバーな私が、静岡なんて出てってやると、高3の時選択した受験校は、一人暮らし前提の関東や関西のみでした。
お友達みたいな母娘だねっなんて、私には夢でもなければ、ありえない話でした。
でも、大人になって、それもこの年齢になって。
ようやくいろんな事が分かってきました。(遅っ)
母は母ではありましたが、我が家では父の役目もやらなければいけなかったこと。
女1人で、子供2人とも一人暮らし前提で四年制大学を卒業させることのしんどさ。(仕送りありました。その上弟は1年留年しました)
駆け落ち同然で結婚した父と離婚したことにより、周りに誰も頼る親族はおらず弱音は吐けなかったこと。
そして、人が寝ている時間に休まず働く事がどれだけ大変だったかということ。
そんな母でしたが、幼稚園や小学校の運動会やらバザーやら。朝から弁当だの、イベントの手伝いなど、眠さを理由にサボったことはありませんでした。
分かれば分かるほど、感謝しかありえません。
最後はカウンターとテーブル席一席の小さなお店でしたが、母がグランドピアノを弾きながら、お客様のリクエスト曲などを歌うことに人気があったようなので、移転してもお店の隅っこにグランドピアノは置いていました。
そういえば自宅にもピアノがあり、母はよく歌の練習をしていました。
だから私が9歳にして最初に覚えた歌は、小柳ルミ子さんのお久しぶりねでした
おかげで、ピアノなどの楽器演奏の才能こそ遺伝しませんでしたが、私も弟も音痴ではなく、歌はよく褒められました
このピアノを弾いている写真は、弟が閉店前最後にお店に行った時の写真を載せています。
母は、45年間、ずっとこのお店と共に人生を生きぬいてきました。
少しずつ。
少しずつ。
帰省の度に、何か親孝行な事はできないかなとようやく考えられるようになりました。
相変わらず賑やかで相当強引な母ですが、お店を閉めた後も地元のお友達に支えられて、時々ゴルフやスポーツクラブなどにも感染対策して行ってる様子。
私の心配をヨソに、やりたい事もたくさんあるようだし、ようやくお店やめたから、会いに行きたい人もたくさんいるし、旅行にも行きたいの!と言います。
(もちろん、今はやめて。。と言ってます)
こんな事になる前に、この母の偉大さに気づけて良かった。
長寿大国、日本。
まだまだ先は長い。
残りの人生を母が1日でも長く謳歌してくれることを望みます。
だから、今年の夏は帰省しません。
高齢の母が母らしくいられる場所に、万が一にでもウイルスを持ち込むわけにはいかないから。
そんなわけで、
物理的距離と。
今の社会情勢と。
私の性格の問題で。
なかなか面と向かっては言えないけど、ブログでなら今の気持ちを残しておけます。
お母さん、ありがとう。
長い間お仕事お疲れ様でした。
1日でも長生きしてね。