自分の「うつ」体験を語ろう | ぽてなまの~と 【ときどきADHD話】

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「なまいき」で「なまけもの」な「ぽてたろう」のノートです。
日常のあれこれや、その日考えたこと、そしてADHDや発達障害についての「あるある」などを書いてこうと思います。

 

自分のうつ体験を語ろう

 

私は30代の半ばでADHDだと診断を受けた。それまで「なぜこれほど頑張っても、他の人と同じレベルでできないんだろう?」と落ち込むことも多くて、振り返ると10代の頃から「うつ」の小波を繰り返す傾向があった。

 

これは二次障害といって発達障害を持つ人間にはよくあることだ。最初に抗うつ剤が処方されたのは大学の診療所で、そのとき「あ、私のこれ、うつなのか?」と腑に落ちた。だから、最初に精神科にかかったのは「うつ」でだった。

 

最初から精神科を受診するのは珍しい? でも歯が痛ければ歯科に行くし、目が痛ければ眼科でしょ? 私は意外と合理的な人間なので「心が痛いなら精神科だ」と思っただけ。で、何回か通っているうちに、うつが「あ~来そうだな」というタイミングがだんだんわかるようになってきた。そうなると、できるだけ“焦げつき”がひどくなる前に受診。うつ症状が軽いうちにドクターに相談して、底まで落ちずにやり過ごせるようになっていった。

 

よく、ドラマなんかで「どうせ私の気持ちなんか誰もわかってくれないのよ!」とかいうセリフがある。ごもっともである。他人の気持ちが手に取るようにわかる人がいたら、気持ち悪いし、一緒にいて落ち着かない。私の気持ちは、私が喋るまで誰にもわからないのが普通だ。

 

親や兄弟、パートナーなど身近な人も含め、所詮、他人は自分が主人公の世界を生きている。「誰かの脇役」ではない。「隣のストーリーの主人公」でしかない人間に対して、それほど興味は持っていないはず。そんな人に、私のつらさを「察してくれ」というのも無理な話だ。

 

だから、つらいときは「つらいよ~」と、素直に言おう。何かしてほしいときは「お願いします」と頼もう。誰かに甘えたい気分のときは「甘やかしてくれないと倒れそう」と言ってみよう。「わかってよ」という言葉を投げてもキャッチできない。相手が「わかる言葉」を探して投げよう。

 

とはいえ、「うつ」の真っ最中は、そんな「言葉探し」さえも億劫だ。何とも誰とも関わりたくない。テレビの音がやたら煩くて消したくなる。なにもかもが「不安」で「つらい」「動けない」。だからチャンスは「うつの状態を抜けた後」なのだ。

 

「あのときは全然眠れなかった(眠くてしょうがなかった)」

「食欲が全然なかった(甘いものばっかり食べたかった)」

「ささいな言葉で傷ついた」

「イライラして人を傷つけたい心境だった」

「話しかけてほしくなかった」

「体が重くて動けなかった」

「コロッケにソースをかけるのも面倒だった」

「お風呂に入るのさえ億劫になった」

「『気が晴れれば』と思って、着ないような服とか靴とかごっそり買ってしまった」

 

など、自分がどんな状況に落ち入っていたか、話しておこう。

 

意外と相手も「あのとき無視されてムカっときたけど、話しかけてほしくなかったのか…」とか、あなたの行動に傷ついていたりする。「うつというのは不眠で食欲がなくなるもの」と思い込んでいる場合は、アイスやメロンパンをもりもり食べて、ただ寝ているだけの姿を「この怠け者め」と内心なじっていたかもしれない。

 

でも「こういう感じだったんだよ」と話しておけば、もし次があったとき早めに「大丈夫?」「またうつっぽいんじゃないの?」と気がついてもらえる可能性がある。私がうつっぽいときは、ブログに書く文章がちょっと攻撃的になるらしく、敏感な友達が「最近元気?」と声をかけてくれたりする。

 

私自身にそういう意図はなくっても、「ベッドでメロンパンを食べてるときは相当ヤバいとき」とか話をしておけば、自動的に「うつっぽいときのぽてたろうのトリセツ」ができていくことになる。

 

「なにがどうつらいか」を、冷静なときに話しておくのは、自分のためだけでなく、聞いている側の人のためになることもある。

 

というのは、初めてうつを体験する人は自分で気がつかないことが多く、もっと深刻な事態だと思い込んでしまうからだ。「これって聞いていたうつの症状に似ているぞ」「うつの可能性もあるのか?」と思えれば、「な~んだ脳内ケミカルのバグなのか」と、専門家の助けも得やすくなる。

 

ほとんどの人が「自分はうつかも」と思ったとき、スマホで「うつ 症状」とかを検索すると思う。でも、そういう典型的なうつと「違う症状もあるんだよ」「私のときはコレがつらかったよ」という具体的な情報があることで「あ、私と同じだ!」と救われる人が必ずいる。だから、自分の体験を話したり、書いたり、発信してほしい。

 

そんな考え方がベースにあるので、私は自分のうつやADHDについてのアレコレを書くことや、精神科に通って「医療にデータを提供する」ことが、自分にできる「せめても」だと思っている。

 

 

↓「私のときはこうだった」が、誰かの気持ちを軽くすることも