メタセコイヤと「杜子春」と | ぽてなまの~と 【ときどきADHD話】

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「なまいき」で「なまけもの」な「ぽてたろう」のノートです。
日常のあれこれや、その日考えたこと、そしてADHDや発達障害についての「あるある」などを書いてこうと思います。

今日は小学校開校の日

五十嵐先生の理科教室

メタセコイヤと「杜子春」と

 

 

未診断のADHDで小学校に入学した私にとって、学校の授業は「ほぼ全て苦痛」だった。とにかく、その時「自分が一番やりたい」と思っていることが自由にできない「時間割制度」が憎かった。算数は嫌い。理科は嫌い、体育も嫌い。好きな授業なんか全くなかったかもしれない。

 

それでも5年生になって、理科や図工、家庭科で、専任の先生に教わるようになると、ちょっと状況が変わってきた。個性の強い図工の先生や、食器がたくさんある家庭科室、ちょっと不気味な理科室とかが、今までにはなかった刺激になり、“興味”を引き出してくれた。

 

よく覚えているのは理科の専任だった五十嵐先生だ。俳優にたとえると、白衣を着たイッセー尾形。背の高い中年の先生だった。

 

それまで理科はジャポニカ学習帳の類を自分で用意して使っていた。五十嵐先生は、それを捨てさせ、全員に5ミリのマス目のA4判ノートを配って使わせた。最初のページには、先生が近所の河原で見つけたというメタセコイアの化石がセロテープで貼ってあった。当時、40人クラス×6組あったので、240人分の化石を用意するのは大変だったろうと思う。その頃は先生が自分たちだけに宝物を分けてくれたような気持ちで「理科はがんばろう」と、みんなが心に誓ったと思う。

 

 

残念ながら五十嵐先生の授業内容は、あんまり覚えていない。フナの解剖とか、葉脈を染めて顕微鏡で見たとか、そんな程度だ。しかし強烈に記憶に残っていることが2つある。

 

1つは、五十嵐先生がほぼ毎回、不二家の棒つきキャンディをくわえながら授業をしていたこと。曰く「喋っていると、のどが痛くなるのでトローチ代わりだ」と。みんなが「先生だけズルいよ~!」と騒ぐと、「代わりに授業をやってくれるなら、好きな色のキャンディをあげる」と言って、ニヤリと笑っていた。

 

もう1つは「プッシュン」の話を何度もされたことだ。実験などでひそひそ話がだんだん大声になり、お喋りでザワザワしてくると「諸君、トシシュンはなぁ、親が畜生道に落とされるというギリギリまで1回も口を開かなかったんだぞ」と言い出す。みんな「トシシュン」が聞き取れなくて、「また先生のプッシュン話が始まった」「プッシュンって何人だ?」とか言っていた。「プッシュン=トシシュン=杜子春」で、芥川龍之介の短編小説であることを知ったのは中学生になってからだ。

 

そんな五十嵐先生は私たちが高校を卒業するころ、自死されたと聞いている。先生は独身だったが、長年に渡ったご両親の介護で疲れ果て、お母様を見送った直後に燃え尽きてしまったらしい。まだ、介護保険制度など基礎もできていない時代だった。

 

メタセコイアの化石はいつの間にか理科のノートからオルゴールの底に移動し、私たちは自分が親の介護をする年齢になっている。近所の河原はメタセコイヤの化石林として、今は大事に保護されている。

 

 

小学校で好きだった授業は?

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