「ごめんなさい」の練習 | ぽてなまの~と 【ときどきADHD話】

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「なまいき」で「なまけもの」な「ぽてたろう」のノートです。
日常のあれこれや、その日考えたこと、そしてADHDや発達障害についての「あるある」などを書いてこうと思います。

発達障害の人は鏡の前でやってみよう

「ごめんなさい」の練習

 

もう半世紀近く前の話だが、私が通っていた幼稚園はかなり特殊だった。たとえば「シーソーで遊ぶときにやってはいけないこと」は、園児全員がシーソー前に集められ、先生が「こうすると、どうなるか」を実演(泣きまねつき)で見せた。他にも「トイレを汚さない使い方(正しいお尻の拭き方)」とか「ひとの話を聞くときの正しい姿勢」とか、いろいろヘンな講座があった。どれも1人ずつ練習してみて、先生のチェックでOKなら合格だ。

 

そのなかで、私がなかなか合格ができなかったのは「ごめんなさい」の練習だった。「ありがとう」と「おねがいします」はソコソコちゃんとできるのに、先生曰く「言葉は“ごめんなさい”だけど、気持ちが全然“ごめんなさい”に見えない」ということで、何回も何回も、間を置いてフェイントで……本当に何回も「ごめんなさい」の練習をさせられた。

 

 

私は“注意欠如”が強いタイプのADHDで、いつもなんとなく「上の空」なことをピンポイントで注意されていた。自分でかなり意識していないと「態度が悪い」とか「生意気」とか言われがちな子どもだった。言葉づかいも、つい「なにそれ?」と言ってしまう。「“それ、なぁに?”と言いなさい」と、百万回ぐらい直された。

 

結果的に、私は今、幼稚園に感謝している。ADHDの人生にはいろいろなアクシデントがつきものだが、「ごめんなさい」「おねがいします」「ありがとう」、この3つがきちんと“伝えられれば”ほとんどのことはOKだ。少なくとも大難を小難に変えられる。多くの人にちゃんと受け止めてもらえるように“わかりやすく”感謝や謝罪を伝える技術は大きな助けとなる。

 

「技術」というとイヤラシい感じだが、謝罪のときに他人から自分がどう見えているのか、客観的にチェックするのはいいことだと思う。鏡を使った練習も1回ぐらいはやってみて損はない。上目づかいになっていないか、髪をかきあげるなど、いつものクセがつい出てはいないか、ちゃんと相手の方を向いて話ができているか、よけいな一言をつけ足したりしていないか……けっこう「ちゃんと謝る」のは難しい。

 

同居の家族や仲の良い友達に「私の“ごめんなさい”ってどう?」と、聞いてみるのもいいかもしれない。私は母に「アンタの“ごめんなさい”は“私は悪くないんだも~ん”に聞こえる」と言われたことがある(←けっこう鋭い)。

 

謝罪や感謝の気持ちがきちんと伝わらないと、相手は「なんだよ!」と不満を抱え、次に何かあっても許してもらえなかったり、助けてもらえなくなったりする。

 

 

練習はあくまでも練習。子供が本当に「ごめんなさい」を言わなければならないタイミングで「上の空」だとか「気持ちが感じられない」とか責めてはいけない。「あやまったのに拒否された」と思われるのがオチである。ちゃんとゴキゲンの良いときに「練習しよう」と鏡の前でやるのがいいと思う。

 

大人は「そういう事態に陥ったら気をつければいい」と思うかもしれないが、とっさのときほど正しい所作は出てこないもの。野球の強打者だって、生涯で打つヒットの数より素振りの本数のほうが圧倒的に多いはずだ。