出町柳駅で京阪電鉄に乗り換え七条駅で下車し、蓮華王院本堂、通称三十三間堂へとやって来る(写真)。圧巻の千体観音立像や荘厳な雷神・風神像を中学校の修学旅行以来、再びみてみたいという願望もあったが、しばらく前にブロ友さんが紹介されていた「通し矢」の痕跡を自分の目で確かめたいと考えた。 

 

三十三間堂の通し矢は、桃山時代から始まったという記録があるようだが、江戸時代前期が最盛期で、武士たちに弓術の技量を競わせていたようだ。66間 (約120㍍)ある西側の縁で、一昼夜24時間に何本通るかを競う体力的にもかなりキツイ競技だった。(写真/射場には通し矢の説明板が設置されている) 

 

通し矢は、縁から垂木までの高さが5㍍ほど、2.2㍍ほどある縁幅の内1.2㍍ほどの狭い空間で、軒天井に当たらないように矢を射抜く必要があるため、強弓の引手でなければ軒下を射通すことができなかった。各藩が威信をかけて武芸者を送り込んだとされる。(写真/射手がみていた眺め。角度が必要なため座って射ったとされる) 

 

どんな名手でも一昼夜続けて射る内にはミスも出てくるはずだ。そんなことから本堂の廊下には、矢で本堂が損傷することを防ぐ鉄板も残されている。そこには数々の穴が開き、武士たちが苦悶した様子が窺える。 

 

ブロ友さんの記事には、遠距離まで射通すには上方に向かって射出されなければいかず、放物線の軌跡を描くはずで、その角度を算出している。それによると10度上方に向かって射出すれば、最大で4.7㍍の高さに至り放物線を描いて落下するという。(写真/軒天井にも鉄板が施されている。これらは徳川幕府三代将軍・家光が付加したと説明板にある)
 
 

そんな通し矢も江戸時代中期以降は大規模な競技は行われなくなり、今では新春に開催される京都三十三間堂大的全国大会が、本堂横の射場で開催されている。全国から弓術に優れた新成人や有段者などが集まり腕を競っているという。(写真/軒天井に刺さる矢を発見。でもまさか往時のものではあるまいし、係員に聞けばよかったと後悔している) 

 


三十三間堂にこうした歴史があることを知り、弓道の聖地にもなっていることを知ることができて好奇心が満たされた。情報を提供してくれたブロ友さんには感謝感謝である。(写真/鴨川に架かる七条大橋から在来線を走る貨物列車を写す) 
 

 

28年前の京都へタイムスリップ Vol.9に続く