大正6年(1917)初点灯とともに霧信号開始の運用も始まっている。冬には流氷が押し寄せるオホーツクの海はやはり昔から霧が深かったと思われる。平成元年(1989)霧信号は廃止されている。(写真/東側よりオホーツク海と灯台を写す)

 

昭和23年(1948)までは宿舎に灯台守が家族とともに暮らしてしたが、その後、網走市内の事務所より6日目毎に2名が交代で勤務していた。また2~3月は、流氷により航行が途絶えることから灯台守としての業務を休止していたという。それも昭和55年(1980)無人化されたことから幕を閉じている。(写真/「オホーツクの塔」に続く道から夕焼け迫る能取岬灯台)

 


能取岬灯台は、焼尻島灯台、松前小島灯台やチキウ岬灯台とともに大正時代に造られた無筋コンクリート造。ネットで検索できた「能取岬灯台のコンクリートと劣化調査」(1982)によると、コンクリートに使用されたセメント量は外装のモルタル分も含め200㌧を超えたことは確実とあり、時代背景を考えると銘柄は普通ポルトランドセメントが使用されたと考えていいとある。

 

灯器は、以前は4等フレネルレンズ、水銀槽回転式だったようだが、現在はLB-M30型灯器が使われている。回転する方法も「水銀に関する水俣条約」が発効され車輪機構に改められている可能性もある。「紋別海上保安部 航路標識保安業務 仕様書」には電球の交換周期は923日で次回は今年1月に予定されていたと記載されている。(写真/回転を始めた灯火は、最初はエメラルドグリーンのようだが、すぐにオレンジ色へと変わる)

 

また、昭和元年(1926)以降は地震についても記録されており、震度4が2回、震度3が12回、震度2が27回あったが、コンクリート構造物に重大な被害を生ずるような大地震はなかったと報告されている。また、戦争による被害は受けていないとも明記されている。

 

能取岬灯台はオホーツク海に面した標高約42㍍の海岸段丘にポツンと佇む美しいロケーションに恵まれている。そのため映画やドラマ、CMのロケ地にもなっている。北浜駅と同様に中国映画「非誠勿擾(狙った恋の落とし方)」に使われていることから、コロナ禍でなければ大きな声の中国語も聞こえてきたかもしれない。日本人にとって、このTPO下では何よりも静けさが大切だ。


【灯台カード】

 




■能取岬灯台が回転を始めた動画



■能取岬灯台の地図は>>>
 


【参考文献】
「能取岬灯台のコンクリートと劣化調査」
澤村 勇雄氏、高羽 登氏 J-STAGEトップ/コンクリート工学/20 巻 (1982) 4 号/書誌


能取岬灯台 END