2019年1月24日(thu)
 

鹿ノ谷駅は明治34年(1901)北海道炭礦鉄道の一般駅として誕生している。駅の周辺には同社の幹部用住居が建てられたため駅が必要になったとされる。鉄道事業が官設鉄道に移管されると、北海道炭礦汽船に名を変え炭鉱事業に力を注ぐ。全盛期の頃には駅の周辺は高級住宅街となって、「夕張鹿鳴館」と呼ばれた北炭鹿ノ谷倶楽部も、大正2年(1913)建設されている。(写真/停車した車内から夜の鹿ノ谷駅を写す)
 

 

2019年1月25日(fri)

 

明治35年(1902)新夕張炭山の開発が始まり、石狩石炭株式会社が操業にあたる。さらに、若鍋炭鉱(後の若菜辺炭鉱)を開鉱し、両炭鉱と鹿ノ谷駅を繋ぐ若鍋専用鉄道(後の北炭化成工業所専用鉄道)が明治41年(1908)開業する。翌年には同駅に延びる熊ノ沢専用鉄道も開業し、国鉄は両炭鉱で産出した石炭の連絡輸送を担うようになる。(写真/雪に覆われた駅舎)

 

ところが大正3年(1914)若鍋炭鉱でガス爆発事故が発生し423人もの犠牲者を出す大惨事となる。石狩石炭の経営は悪化の一途をたどり、大正9年(1920)北海道炭礦汽船に吸収される。専用鉄道も北炭に継承され、同社は夕張鉄道株式会社を設立。大正15年(1926)栗山駅-新夕張駅(後の夕張本町駅)を開業し旅客輸送を開始。昭和5年(1930)には野幌駅-新夕張駅間の夕張線全線が開通した。(写真/かつての駅の構内の広さを彷彿させる歩道橋)

 

昭和12年(1937)若菜辺炭鉱が再始動することになり、北炭平和炭鉱として開鉱する。やがて、真谷地炭鉱、登川炭鉱、角田炭鉱、穂別炭鉱と4ヶ所の炭鉱を管轄する生産拠点へと発展していく。(写真/歩道橋より清水沢駅方面をみる)

 

鹿ノ谷駅の名は、昭和43年(1968)に起こった「国鉄鹿ノ谷駅事件」で有名になる。それは、この駅に勤務する駅員たちが、追分駅で開かれた労働組合の集会に、駅長の承諾を得ないまま出向き、無断で休んだと処分され、それを不当だと裁判で争った事件。高裁までもつれるが「管理者の判断は正当」との判決が下っている。(写真/ホームの駅名標は雪の冠を被っている)

 

その頃から炭鉱の閉山が相次ぎ、遂には北炭平和炭鉱の閉山により夕張鉄道も昭和46年(1971)鹿ノ谷駅-夕張本町駅間で廃止。やがて、昭和50年(1975)夕張鉄道線は歴史の表舞台から姿を消すことになる。(写真/かつて有人駅だった頃は、屋根の上の煙突から煙が上っていたはずだ)

 

かつて、鹿ノ谷駅の近くには夕張北高校と夕張工業高校(後に緑ヶ丘実業高校)が存在した。夕張北高は昭和14年(1939)の開校だが、夕張市の人口増加によって設立されたと思われる。その時代、列車が到着する前は、この広い待合室(写真)に何人もの高校生たちが集まり、さぞ賑やかだったに違いない。

 


現在の夕張鉄道の本社とバスターミナルは鹿ノ谷駅から1㎞ほど南の道道38号沿いに位置し「夕鉄バス」の愛称で路線バス運行をしている。夕張支線が廃止された後も、新夕張駅と夕張駅を結ぶ路線で運行するという。時代の波に翻弄された観のある夕張鉄道。バス会社なのに、なぜその社名なのかが理解できる。(写真/ホームから、かつて改札口があった入口をみる)

 


現在は1面1線の単式ホーム(写真)だが、国鉄時代は2面3線の島式ホームを持つ大きな駅だったようだ。夕張鉄道の拠点として保線区や車両基地、側線が何本も敷かれていたが、夕張鉄道廃止後も敷地がそのまま広大な空き地になって残るのが切ない。(写真/鹿ノ谷駅に入線してくる上りの列車)

 


清水沢駅 ← 鹿ノ谷駅 → 夕張駅