長野市立博物館では大河ドラマ風林火山の特別企画展「体感!川中島の戦い」が開催されている。大河ドラマが地元で開催されると、多くの観光客が訪れるため、NHKも主演者のパネルなどの展示で地元に還元している。  注)2007年当時の記事
 

 

川中島の戦いの絵巻がある。上杉軍の記録によると、武田軍2万兵の内、死者8千兵。上杉軍1.3万兵の内3千兵といわれているが、もちろん本当のことは分からない。お互いが勝利宣言をし、川中島の戦いは今では引き分けとされている。しかし、この八幡原の戦いで山本勘助は討ち死にしたとされる。
 

 

博物館を後にして、千曲川サイクリングロードを南に進むと、土手のたもとにドライブインおぎのやがある。そう、あの峠の釜めしで有名なおぎのやが高速道路のインターチェンジの側に店を出しているのだ。その裏手に人が一歩で渡れる小さな胴合橋がある(写真)。山本勘助が戦死し首を奪われたのを武田軍が取り戻し胴体と合わせた場所と紹介されているが、それはどう考えても出来過ぎだ。
 

時間があれば、八幡原史跡公園や一騎打ちの像の付近をを改めて散策しようと考えていたが、思っていた以上に時間を費やしたので帰路に入る。しかしその前に寄っていきたいところがある。(写真/千曲川サイクリングロードと県道35号、長野真田線とが交差する場所。写真左手が松代大橋)
 

 

典厩寺(てんきゅうじ)は、この付近で討ち死にしたとされる信玄の弟・典厩信繁の墳墓があり、寺の名前もそれに由来している。園内には信繁の首を洗ったといわれる首清めの井戸もあるが、圧倒的なのは5㍍の高さもある朱塗りの閻魔大王の像。万延元年(1860)、川中島合戦300年を記念して建立された。

 

 
この川中島の地に散った
名もなき兵たちの人生を考えてみる
 

典厩寺は、両軍の戦死者を弔っているので、本堂には、武田軍と上杉軍の軍旗が掲げられている。この八幡原一帯でどれ程の戦死者が出たのか知る由もないが、いずれにしても壮絶な戦いが行われたのだろう。「夏草や兵どもが夢の跡」。芭蕉が平泉で詠んだ句がパンフレットに印刷されている。
 

 

赤坂橋に指しかかる頃には日が傾き始めている。午前中、上流の岩野橋を渡り右岸から再び更埴橋を渡り戻ってきた。ちょうど千曲川沿いを周遊したかたちになるが、今から447年前に、この一帯で壮絶な第4次川中島の戦いは行われたのだ。自転車なので苦にはならなかったが、馬に乗れない兵は大変だっただろう。ましてや上杉軍は道なき道を夜中に下り、ずぶ濡れになりながら千曲川を渡ったのだから。しばしこの地に散った名もなき兵たちに思いを馳せてみる。
 


松代・川中島ポタ END