「思想犯はその頃、珍しかったので看守たちからは丁寧な扱いを受けましたよ。ただ、独房でね。周りは強盗や殺人犯ばかり、そんな彼らでも時々は外で日に当たることが許されていましたよ。でもあたしゃ、それすらも許されなくてね。廊下を歩く彼らのむさくるしい面でも拝みたくてね。小さな小窓から、必死にのぞいていましたよ。そのくらい人恋しくてね。今考えるとどうかなっちまったんでしょうね。孤独で…。」
やがて、2年半の歳月が経ち、甲府の監獄へと送られることになって、東京駅から甲府へ汽車に乗せられるんだが、顔をすっぽりと笠で隠されて腰縄を数人の警官に押さえられて、みっともないったらありゃしないー。あれはまいりましたね。
「でもね、わたしゃ、運がいいんですよ。東京を出て直ぐに、関東大震災でしょう?そのすぐ後に、官憲によるデマで朝鮮人が暴動をおこすと御用新聞に書かせて、たくさんの朝鮮人や中国人、それに間違われた地方から出て来た日本人、それよりも軍部の本当の狙いは主義者の暗殺だったんでしょうね。大杉栄を始めとして、多くの仲間をあの時、失いました。」
運がいいのか?和尚さんは命は助かったけれど、大杉栄の復讐を誓ってテロを企てた和田久太郎とも付き合いがあったし、以後世界大戦が終わるまで、およそ半世紀以上の間、ずーっと1年365日24時間、特高の見張りが付いて、誰かに手紙でも出そうものなら、宛先に家宅捜索が入ると言う念の入れ方。しかし、これは後程「あの時はあんたに腹が立ったが、おかげで召集を免れて助かったよ。」と戦後になって感謝されたそうだ。
反戦仏教者ならまだしも、こんな物騒なテロリストなど、甲府の寺ではとても面倒が見切れないと投げ出され、本山ではそれでは若狭のボロ寺が空いているというので小浜市の時宗の寺に住まう事になったわけだ。
3年も独房で過ごして入れば、健康的な環境とは言えず、和尚さんは立派な丙種不合格の身で、しかもテロリストだし。召集はされなかったものの、毎日特高と顔を突き合わし、馴染の特高が戦地に送られるからと酒を持ってきて、泣いて和尚さんとの別れを惜しんだり、それなりに心温まる(?)山寺生活を楽しんだそうだ。
しかし、和尚さんのことだ。出兵兵士を送る行列の中に、顔見知りの人が居たり、檀家の家族だったりすれば、臆せず「たのむから銃は人に向けて撃ってはいけない。外したそぶりをして空に向けて撃ってください。そして、あなたはどんなことをしててもいい、生きて帰ってください。」と頭を下げて回ったものだから、「このアカ坊主めが!なんて非国民なことを言うんだ。」と石を投げつけられても、出征兵士への説得はやめようとはしなかったという。
昭和天皇の遷化が近づていたある日、和尚さんと私とで福井市に用事があって、出かけたことがあった。『昭和天皇の戦争責任を問う』という看板に目を引き、時間つぶしに二人でその集会の後ろの席に座ったことがある。
いかにも戦争を体験していそうな年に見えるので、最後に司会者がマイクを運んでこられ、和尚さんは立ち上がり。「私は耳が聞こえないので、お話が聞こえないのですが、看板に昭和天皇の戦争責任を問うとあるのですが、戦争責任は天皇だけにあるのではありません。あの侵略の無謀を止めることができなかったあの時代を生きていたすべての人、いえ、何もしなかったこの私にこそ戦争責任はあるのです。」と言ってのけたので、会場中の人間はあっけにとられたまま。そこで私が慌てて、和尚さんが戦前やってきたあらましを述べて、その場を去ったことがあった。
和尚さんが何もしなかったというなら、国民をだまして戦地に送りだし、戦勝祈願した宗教団体は何をしていたと言うのか。次は、この化け物和尚のものの考え方をエピソードを通して分析してみようと思う。
続く