高田良幻老師は満の98歳で亡くなるまで、ずっと日記を書いていた。最初のうちは英語で(郷里の福山にいた時にカトリックの教会で習ったという)戦後は日本語で。若狭の西福寺に赴任してから亡くなるまでのおよそ50年間。詳しい年代はわからないが、「わたしゃ、運が良くてねえ。巣鴨から残りの刑期半年は甲府の刑務所になるんで、腰縄を打たれたままで東京を出た、そのすぐ後ですよ。関東大震災があったのは。」と言っていたから、関東大震災は1923年だから、それから逆算して書いてみることにする。
甲府の師僧の寺に預かりの身となった高田老師は、甲府地方の農村青年たちを集めて、堺利彦の演説会を開いたり、小作争議に関わったりしていた。当時の警察の資料から、高田市太郎(本名)の名前があったと知人から教えてもらったことがある。『へえ、ホントだったんだー!(疑るわけじゃないけれど)』と。感心したことがあった。
その中でも極め付きは、甲府連隊に反戦ビラを配ろうとしたことだった。仲間の役場に勤める人にガリ版で刷ってもらって、(その人は大丈夫だったの?)(高田さんに脅されてと言いなさいと打ち合わせしておいたから)これは未遂に終わった。
しかし、高田老師の部屋に官憲のがさ入れが入って反戦ビラより、とんでもないものが見つかる。それは、和尚さんが本山で一緒に修行していた友人に宛てた手紙だった。兵隊として召集され、戦地に送られる前に兵舎で首をつって自殺をしていた。その彼に充てた手紙の内容が不敬罪であるということになった。
日本仏教会は「天皇陛下は阿弥陀仏である。大毘盧遮那仏である。」と仏教の基本から大きく逸脱し、国民は天皇の赤子であるなどとぬかし、その赤子が貧困にあえぎ、戦場で命を落とそうとしているのに、自分はのうのうと避暑にいっているではないか。」などと、過激な文章でつづられていた。その手紙を胸にしまって、彼は兵舎で明け方、首をつってた。和尚さんが大事にしていた一枚の写真。白い軍服ではあるけれど、剃髪した優しく爽やかな笑顔の青年。その裏には『高田さん、さようなら』と書いてある。おそらく戦場で直接的にも間接的にも、仏教の大罪を犯すより、自ら死を選んだのであろう。
時宗には高田老師に影響されてかどうかはわからないが、その当時でも兵役を拒否して自殺をした人が彼以外にも三人いると聞く。逃亡すれば、両親や家族に迷惑がかかる。かといって、不殺生戒を侵すわけにはいかない。彼らにとっては、どんなに苦しんで出た結論だろうか。
敵も味方もない、全ての命が尊いのだから。それが釈尊の教えであるはず、ところが釈尊滅後、千年経って法華経が編纂されたら、それには仏教をそしる者は殺してもいいとあり、密教の瑜伽師地論には菩薩ならば、殺生も許されると説く。「一殺多生」などという言葉まである。
仏教者の中には率先して戦争に協力していった人もいれば、少数派であるが、この青年僧のような人もいた。昭和6年には国際連盟を脱退して、大東亜戦争に突入していく中で、日蓮宗の妹尾義郎を中心に全宗派を超越して、戦争に反対し、治安維持法で一斉に200人を超える僧侶が検挙されているが。
話は和尚さんの巣鴨刑務所行に戻して…。和尚さんが甲府連隊に配布しそこなった反戦ビラの件は、未遂に終わったため、出版法違反で半年の刑。友人に充てた手紙が戻されてきて、その内容が不敬罪として2年半、合わせて3年の刑が言い渡された。
続く

